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第5話 罪の告解は、恋を呼ぶ
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告解室の扉は、いつも少しだけ重い。
木が古いからではない。あの小さな箱に入ると、人は自分の言葉の重さを思い出す。外では言えないことほど、扉の向こうに落ちていく。
彼女は手にした書類束を抱え直し、神殿の奥へ向かった。
寄進の件は保留になった。代わりに始まったのは“透明化案”の骨子作り。神殿の金と物資の流れを整え、誰の目にも同じ形にする。帳簿を「清く」するのではなく、仕組みを「正しく」する。
理屈は簡単だ。
現実は、簡単ではない。
廊下ですれ違う補佐官が、笑顔のまま言う。
「お忙しそうですね。……若き神官さまの“お気に入り”は」
言葉は丁寧。棘は薄い。だから厄介だ。噂は、刺さる前に心に潜り込む。
彼女は笑みを崩さず、頭を下げた。
「神殿の仕事ですから。お気に入りではありません。必要な手順です」
必要な手順。
この言葉が、どれほど便利で、どれほど残酷か。彼女は知っている。
彼は昨日から、少しだけ距離を取るようになった。執務室での打ち合わせも、扉を開けたままにする。誰かが通る位置に机をずらす。ふたりきりの時間を削るように、会計監督官を同席させることが増えた。
守るためだ。
神殿の象徴である自分を守るため。彼女を噂から守るため。……そして、自分の中で育つ熱から逃げるため。
その“正しさ”が、彼女の胸をじわりと痛くした。
だから彼女は、別の場所を選んだ。
告解室。
ここなら、彼は“神官”として座り、彼女は“ひとりの信徒”として言葉を置ける。恋を恋として言わずに、恋の核心だけを渡せる。
——控えめを装って、積極的に。
今日の彼は告解を受ける当番だった。告解室の前には、すでに数人の列がある。彼女は列の端に静かに立ち、待つ間、頭の中で言葉を整えた。
正直に言ってしまえば楽だ。
あなたが好きです、と。
けれどそれは、彼の清さを壊す可能性がある。彼は「壊れる」ことが怖い。壊れることは、彼にとって“罪”に近い。
だから、形を借りる。
罪の形を借りて、恋を置く。
列が進み、彼女の番が来た。小さな扉を開け、薄暗い室内へ入る。香の匂いが近い。木の隔て板越しに、彼の気配がある。
「……お入りください」
声が、低い。
昨日より、少しだけ。
彼女は膝をつき、頭を垂れた。作法通りに。
「罪を告白いたします」
言葉を口にした瞬間、胸の奥の灯りが強くなる。自分が何をしようとしているのかを、身体が先に理解する。
隔て板の向こうで、彼が息を吸う気配がした。
「……お聞きします」
彼女は“自分の話”をしないように、丁寧に言葉を選んだ。
「ある……神殿に仕える者がいます。現実的で、冷静で、神殿の運営を整えるのが役目です」
それは彼女そのものだ。けれど、“ある者”と言うことで、彼の心に逃げ道を作る。
「その者は、神官に恋をしました。神官は、清廉で、お手本のような方です。……その神官の立場を壊したくないと思っています」
沈黙。
木の隔て板が、やけに薄く感じる。彼の気配が、少しだけ近づいたような錯覚がある。
「……その恋は、罪だと?」
彼の声が、僅かに硬い。
彼女は首を横に振る動作をした。彼には見えないのに、身体がそう動く。
「罪だとは思いません。けれど、その者は考えます。——自分が近づけば、噂が立つ。噂が立てば、神官はより強い誓いを求められる。誓いを強めれば、神官は息ができなくなるかもしれない」
そこで、彼女は一拍置いた。
逃げ道を残すために。彼が“これは他人の話だ”と思える余地を残すために。
「それでも、その者は、近づくのをやめられません。神官のそばにいることが、神殿のためにもなると、現実的に判断してしまうからです」
隔て板の向こうで、彼が小さく息を吐いた。
それは祈りの息ではない。——耐える息だ。
「……その者は、何を望んでいるのでしょう」
問われて、彼女は少しだけ笑いそうになった。
答えは簡単だ。
あなたが欲しい。
けれど彼女は、簡単な答えを選ばない。彼の清さを壊さない言葉を選ぶ。
「望みは……ふたつあります」
彼女は静かに言った。
「ひとつは、神官が“聖人”である前に“人”であることを、許してほしい。自分の熱を、汚れだと思わないでほしい」
隔て板の向こうの空気が揺れた気がした。
彼女は続ける。
「もうひとつは、その熱が誰かを傷つけない形で、正しく生きてほしい。……そのために、その者は仕事をします。帳簿を整え、仕組みを整え、噂が入り込む隙を減らす」
沈黙が落ちた。
告解室は、祈りよりも静かだ。だから、彼の心の揺れが音にならないまま伝わってくる。
しばらくして、彼が言った。
「……あなたは、賢い」
“その者”ではなく、“あなた”。
呼び方の揺れは、小さな綻びだった。夜に出る弱点が、昼にも漏れたような。
彼女は動揺を見せず、淡々と返す。
「賢い、というより……現実的です」
「現実的であることは、時に祈りより強い」
彼の声は穏やかだ。けれどその穏やかさの底に、ひそやかな熱がある。閉じ込めきれず、言葉の端から覗く熱。
「……その神官は、何を恐れているのだと思いますか」
彼女は、少しだけ息を吸った。
これは問いではなく、彼の自己告白の形だ。
「恐れているのは、清くなくなること、ではありません」
彼女は静かに言った。
「自分が“欲しい”と思ってしまうことを、誰かのせいにしてしまうこと。……その結果、相手を傷つけてしまうこと。だから、誓いに隠れたくなる」
隔て板の向こうで、彼が沈黙したまま、長く息を吐いた。
やがて彼が、祈りの言葉のように、しかし祈りではない言葉を落とした。
「……恋は、罪ではありません」
その一言は、告解の赦しではなく、彼自身への赦しのように聞こえた。
「ただし、恋の形が誰かを道具にするなら、それは罪になり得る。……その者が、神官を偶像にしないなら。その神官が、その者を隠すことで守った気にならないなら」
彼女の喉の奥が少し痛くなった。
彼は、見えている。
偶像。隠すことで守った気になること。——どちらも、この数日で彼がしていることだ。
彼は続けた。
「その者ができることは、ふたつです。ひとつは、自分を軽くしないこと。もうひとつは、相手を重くしないこと」
彼女は、胸の奥の灯りを抱え直した。
それはまるで、彼が彼女の手の中にそっと火を戻してくれたみたいだった。
告解の終わりの言葉が、いつもより遅れて落ちる。
「……神は、あなたの正直を罰しません」
その言葉は、きっと“信徒”に向けた言葉の形をしている。
けれど、彼女には“ひとりのあなた”に向けた言葉に聞こえた。
彼女は頭を垂れた。
「ありがとうございます」
告解室を出ると、回廊の空気が少し冷たかった。昼なのに、夜のように静かで、耳が敏感になる。
列の人々の視線がふっとこちらを掠める。——今、彼女は告解を受けた者としてしか見られない。それが救いだった。
彼女は一度だけ立ち止まり、胸の奥の灯りを整えた。
恋を告げたわけではない。
でも、恋の中身を置いてきた。
そして彼は、それを受け取った。
廊下を曲がり、執務棟へ向かおうとしたとき。
背後から足音がした。急がない、しかし迷いのない足音。
「……少し」
振り返ると、彼がそこにいた。告解を受ける当番のはずなのに、外へ出てきている。規則に反するほどではない。けれど、いつもの彼ならしない。
「お時間、大丈夫なのですか」
彼女が尋ねると、彼は一瞬だけ目を伏せ、すぐに上げた。
「……誰かに代わってもらいました」
代わりました、ではなく、代わってもらいました。
言い方が、少しだけ人だ。
彼は回廊の柱の影に立ち、声を低くした。噂の耳が届かない位置を選んでいる。
「さきほどの告解は……“ある者”の話だと、あなたは言いましたね」
彼女は微笑を崩さない。
「はい。告解は、一般の話としても成立します」
「……そうですね」
彼は頷いた。頷いたのに、視線が逸れない。
その視線は、祈りの時のものではない。
「……私は、正しい言葉を選べると思っていました」
ぽつりと落ちた言葉は、彼の弱点だった。
「しかし、あなたの言葉は……正しさより先に、胸に来る」
彼女は息を止めそうになり、すぐに吐いた。落ち着いて。現実的に。
「それは、あなたが疲れているからです。眠りが浅い。祈りが長い。……まず、休むべきです」
彼は小さく笑った。困ったように。
「……あなたは、そう言って私を現実に戻す」
「戻らないと、神殿が回りませんから」
「神殿だけではなく」
彼の言葉が、そこで止まった。
止めたのは彼自身だ。言えば、扉が開いてしまう。聖人の仮面が割れる。
彼女は、その止まった言葉を追わなかった。
追えば、彼は逃げる。追わないことも、積極性だ。
「透明化案の骨子、今日中に仕上げます。寄進者に出せる形に整えます」
仕事の話へ戻す。彼が息をできる形へ戻す。
彼は、ほんの少しだけ安堵したように頷いた。
「……お願いします」
頼む、という言葉が、今日は少しだけ違って聞こえた。
彼女は一礼して歩き出す。
背中に、彼の声が追いついた。
「……ありがとう」
それは告解の後の礼ではない。
ひとりの人が、ひとりの人に言う礼だ。
彼女は振り返らずに、ただ小さく頷いた。
胸の奥の灯りが、静かに燃えている。
罪の形を借りた恋は、赦しを得たわけではない。
けれど、否定されなかった。
否定されないまま、ふたりは今日も“仕事”として並ぶ。
祈りよりも清らかなものを、仕組みの中に落とし込むために。
そして、いつか彼が“欲しい”と言える夜のために。
木が古いからではない。あの小さな箱に入ると、人は自分の言葉の重さを思い出す。外では言えないことほど、扉の向こうに落ちていく。
彼女は手にした書類束を抱え直し、神殿の奥へ向かった。
寄進の件は保留になった。代わりに始まったのは“透明化案”の骨子作り。神殿の金と物資の流れを整え、誰の目にも同じ形にする。帳簿を「清く」するのではなく、仕組みを「正しく」する。
理屈は簡単だ。
現実は、簡単ではない。
廊下ですれ違う補佐官が、笑顔のまま言う。
「お忙しそうですね。……若き神官さまの“お気に入り”は」
言葉は丁寧。棘は薄い。だから厄介だ。噂は、刺さる前に心に潜り込む。
彼女は笑みを崩さず、頭を下げた。
「神殿の仕事ですから。お気に入りではありません。必要な手順です」
必要な手順。
この言葉が、どれほど便利で、どれほど残酷か。彼女は知っている。
彼は昨日から、少しだけ距離を取るようになった。執務室での打ち合わせも、扉を開けたままにする。誰かが通る位置に机をずらす。ふたりきりの時間を削るように、会計監督官を同席させることが増えた。
守るためだ。
神殿の象徴である自分を守るため。彼女を噂から守るため。……そして、自分の中で育つ熱から逃げるため。
その“正しさ”が、彼女の胸をじわりと痛くした。
だから彼女は、別の場所を選んだ。
告解室。
ここなら、彼は“神官”として座り、彼女は“ひとりの信徒”として言葉を置ける。恋を恋として言わずに、恋の核心だけを渡せる。
——控えめを装って、積極的に。
今日の彼は告解を受ける当番だった。告解室の前には、すでに数人の列がある。彼女は列の端に静かに立ち、待つ間、頭の中で言葉を整えた。
正直に言ってしまえば楽だ。
あなたが好きです、と。
けれどそれは、彼の清さを壊す可能性がある。彼は「壊れる」ことが怖い。壊れることは、彼にとって“罪”に近い。
だから、形を借りる。
罪の形を借りて、恋を置く。
列が進み、彼女の番が来た。小さな扉を開け、薄暗い室内へ入る。香の匂いが近い。木の隔て板越しに、彼の気配がある。
「……お入りください」
声が、低い。
昨日より、少しだけ。
彼女は膝をつき、頭を垂れた。作法通りに。
「罪を告白いたします」
言葉を口にした瞬間、胸の奥の灯りが強くなる。自分が何をしようとしているのかを、身体が先に理解する。
隔て板の向こうで、彼が息を吸う気配がした。
「……お聞きします」
彼女は“自分の話”をしないように、丁寧に言葉を選んだ。
「ある……神殿に仕える者がいます。現実的で、冷静で、神殿の運営を整えるのが役目です」
それは彼女そのものだ。けれど、“ある者”と言うことで、彼の心に逃げ道を作る。
「その者は、神官に恋をしました。神官は、清廉で、お手本のような方です。……その神官の立場を壊したくないと思っています」
沈黙。
木の隔て板が、やけに薄く感じる。彼の気配が、少しだけ近づいたような錯覚がある。
「……その恋は、罪だと?」
彼の声が、僅かに硬い。
彼女は首を横に振る動作をした。彼には見えないのに、身体がそう動く。
「罪だとは思いません。けれど、その者は考えます。——自分が近づけば、噂が立つ。噂が立てば、神官はより強い誓いを求められる。誓いを強めれば、神官は息ができなくなるかもしれない」
そこで、彼女は一拍置いた。
逃げ道を残すために。彼が“これは他人の話だ”と思える余地を残すために。
「それでも、その者は、近づくのをやめられません。神官のそばにいることが、神殿のためにもなると、現実的に判断してしまうからです」
隔て板の向こうで、彼が小さく息を吐いた。
それは祈りの息ではない。——耐える息だ。
「……その者は、何を望んでいるのでしょう」
問われて、彼女は少しだけ笑いそうになった。
答えは簡単だ。
あなたが欲しい。
けれど彼女は、簡単な答えを選ばない。彼の清さを壊さない言葉を選ぶ。
「望みは……ふたつあります」
彼女は静かに言った。
「ひとつは、神官が“聖人”である前に“人”であることを、許してほしい。自分の熱を、汚れだと思わないでほしい」
隔て板の向こうの空気が揺れた気がした。
彼女は続ける。
「もうひとつは、その熱が誰かを傷つけない形で、正しく生きてほしい。……そのために、その者は仕事をします。帳簿を整え、仕組みを整え、噂が入り込む隙を減らす」
沈黙が落ちた。
告解室は、祈りよりも静かだ。だから、彼の心の揺れが音にならないまま伝わってくる。
しばらくして、彼が言った。
「……あなたは、賢い」
“その者”ではなく、“あなた”。
呼び方の揺れは、小さな綻びだった。夜に出る弱点が、昼にも漏れたような。
彼女は動揺を見せず、淡々と返す。
「賢い、というより……現実的です」
「現実的であることは、時に祈りより強い」
彼の声は穏やかだ。けれどその穏やかさの底に、ひそやかな熱がある。閉じ込めきれず、言葉の端から覗く熱。
「……その神官は、何を恐れているのだと思いますか」
彼女は、少しだけ息を吸った。
これは問いではなく、彼の自己告白の形だ。
「恐れているのは、清くなくなること、ではありません」
彼女は静かに言った。
「自分が“欲しい”と思ってしまうことを、誰かのせいにしてしまうこと。……その結果、相手を傷つけてしまうこと。だから、誓いに隠れたくなる」
隔て板の向こうで、彼が沈黙したまま、長く息を吐いた。
やがて彼が、祈りの言葉のように、しかし祈りではない言葉を落とした。
「……恋は、罪ではありません」
その一言は、告解の赦しではなく、彼自身への赦しのように聞こえた。
「ただし、恋の形が誰かを道具にするなら、それは罪になり得る。……その者が、神官を偶像にしないなら。その神官が、その者を隠すことで守った気にならないなら」
彼女の喉の奥が少し痛くなった。
彼は、見えている。
偶像。隠すことで守った気になること。——どちらも、この数日で彼がしていることだ。
彼は続けた。
「その者ができることは、ふたつです。ひとつは、自分を軽くしないこと。もうひとつは、相手を重くしないこと」
彼女は、胸の奥の灯りを抱え直した。
それはまるで、彼が彼女の手の中にそっと火を戻してくれたみたいだった。
告解の終わりの言葉が、いつもより遅れて落ちる。
「……神は、あなたの正直を罰しません」
その言葉は、きっと“信徒”に向けた言葉の形をしている。
けれど、彼女には“ひとりのあなた”に向けた言葉に聞こえた。
彼女は頭を垂れた。
「ありがとうございます」
告解室を出ると、回廊の空気が少し冷たかった。昼なのに、夜のように静かで、耳が敏感になる。
列の人々の視線がふっとこちらを掠める。——今、彼女は告解を受けた者としてしか見られない。それが救いだった。
彼女は一度だけ立ち止まり、胸の奥の灯りを整えた。
恋を告げたわけではない。
でも、恋の中身を置いてきた。
そして彼は、それを受け取った。
廊下を曲がり、執務棟へ向かおうとしたとき。
背後から足音がした。急がない、しかし迷いのない足音。
「……少し」
振り返ると、彼がそこにいた。告解を受ける当番のはずなのに、外へ出てきている。規則に反するほどではない。けれど、いつもの彼ならしない。
「お時間、大丈夫なのですか」
彼女が尋ねると、彼は一瞬だけ目を伏せ、すぐに上げた。
「……誰かに代わってもらいました」
代わりました、ではなく、代わってもらいました。
言い方が、少しだけ人だ。
彼は回廊の柱の影に立ち、声を低くした。噂の耳が届かない位置を選んでいる。
「さきほどの告解は……“ある者”の話だと、あなたは言いましたね」
彼女は微笑を崩さない。
「はい。告解は、一般の話としても成立します」
「……そうですね」
彼は頷いた。頷いたのに、視線が逸れない。
その視線は、祈りの時のものではない。
「……私は、正しい言葉を選べると思っていました」
ぽつりと落ちた言葉は、彼の弱点だった。
「しかし、あなたの言葉は……正しさより先に、胸に来る」
彼女は息を止めそうになり、すぐに吐いた。落ち着いて。現実的に。
「それは、あなたが疲れているからです。眠りが浅い。祈りが長い。……まず、休むべきです」
彼は小さく笑った。困ったように。
「……あなたは、そう言って私を現実に戻す」
「戻らないと、神殿が回りませんから」
「神殿だけではなく」
彼の言葉が、そこで止まった。
止めたのは彼自身だ。言えば、扉が開いてしまう。聖人の仮面が割れる。
彼女は、その止まった言葉を追わなかった。
追えば、彼は逃げる。追わないことも、積極性だ。
「透明化案の骨子、今日中に仕上げます。寄進者に出せる形に整えます」
仕事の話へ戻す。彼が息をできる形へ戻す。
彼は、ほんの少しだけ安堵したように頷いた。
「……お願いします」
頼む、という言葉が、今日は少しだけ違って聞こえた。
彼女は一礼して歩き出す。
背中に、彼の声が追いついた。
「……ありがとう」
それは告解の後の礼ではない。
ひとりの人が、ひとりの人に言う礼だ。
彼女は振り返らずに、ただ小さく頷いた。
胸の奥の灯りが、静かに燃えている。
罪の形を借りた恋は、赦しを得たわけではない。
けれど、否定されなかった。
否定されないまま、ふたりは今日も“仕事”として並ぶ。
祈りよりも清らかなものを、仕組みの中に落とし込むために。
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