祈りよりも清らかなもの

星乃和花

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第4話 清廉の噂、寄進の条件

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 噂は、香より早く広がる。

 神殿の朝、回廊の空気はいつも通り澄んでいたのに、すれ違う視線だけが少しだけ重かった。祈りの声が響く前の静けさの中で、囁き声はよく通る。

「……あの方、また執務室へ?」
「ほら、あの帳簿の人。清廉さまの――」

 言葉の続きは飲み込まれる。神殿の中で直接的に言うのは無粋だと、皆が知っている。だからこそ、匂わせる。余白を残す。余白が噂を育てる。

 彼女は歩幅を乱さず、手にした書類束を抱え直した。顔には微笑を薄く置いたまま、心の中でだけ、淡々と整理する。

 ――いま、神殿は“清廉”を求めている。

 そして彼は、その象徴として担がれやすい。

 昨夜の灯明点検のあと、彼は明らかに眠れていない顔をしていた。けれど今朝、祈りの場で立つ彼は完璧だった。背筋、言葉、手の動き。誰もが安心する“正しさ”。

 その正しさが、危ない。

 正しさは、望まれすぎると偶像になる。偶像は、息ができない。

 執務室の扉の前。彼女がノックをしようとした瞬間、中から別の声が聞こえた。

「……寄進の件、神殿長がお呼びです。すぐにお越しください」

 会計監督官の声だった。硬く、焦りが混じる声。神殿の金の流れに関わる者が、焦りを隠せないほどの話――それが“寄進”だ。

 扉が開く。

 彼が出てきた。いつも通りの穏やかな目。けれど、昨夜見えた弱さの影は、きれいに折りたたまれてしまっている。

「お待たせしました」

 彼女は一礼し、すぐに言った。

「寄進の件ですね。神殿長がお呼びだと」

「はい。……あなたも、来てもらえますか」

 その言葉に、彼女の胸の奥の灯りが小さく揺れた。

 ――あなたも、来てもらえますか。

 仕事上は当然の要請だ。帳簿の人間は会議に同席すべきだ。けれど、彼が“あなたも”と付け足す言い方には、いつもより僅かに個人的な匂いが混じる。

 彼女はそれを受け取り、表情を変えずに頷いた。

「承知しました」

 神殿長の間は、空気が違う。

 香が濃い。壁の彫刻が深い。絨毯が柔らかい。祈りのための場所ではあるのに、ここだけは“交渉”のために整えられている。

 神殿長は机の奥に座り、隣には会計監督官。対面には、よそ行きの気配をまとった貴族の使者がいた。豪奢な外套、手袋の質、香油の種類。神殿の香とは違う、甘くて強い匂い。

「よく来た」

 神殿長が言い、続けて、貴族の使者が恭しく頭を下げた。

「このたびは、我が主より神殿へ、あらためて寄進の申し出がございます」

 寄進。聞こえは美しい。だが実際は、神殿の運営の首根っこを握るための手段になることが多い。神殿の灯明油も、巡礼者のパンも、祭礼の香木も、すべてが金と物資で支えられている。

 ――祈りだけでは回らない。

 昨夜、自分が言った言葉が胸の中で静かに鳴る。

 神殿長が視線を彼に向ける。

「そなたの名が、外でもよく聞こえるようになった。“清廉の象徴”としてな」

 彼は穏やかに頷いた。

「過分な評価です。私はただ、神殿の務めを」

「謙遜も、評判のうちだ」

 神殿長の声は優しい。だが優しさは、ときに圧になる。

 貴族の使者が一枚の書状を差し出した。封蝋の紋章が大きい。会計監督官がそれを受け取り、開き、読み上げようとしたが、神殿長が手で止めた。

「条件を、口で聞こう。簡潔に」

 使者は口角を上げた。笑みの形は礼儀正しいが、目は勝敗を測っている。

「はい。寄進は年々増額いたします。灯明油、香木、巡礼者への配給――必要なものを安定して」

 そこまでなら美しい。

 問題は、その次だ。

「その代わり。神殿は“清さ”を、いま以上に示していただきたい」

 部屋の香が一段階濃くなったように感じた。

 神殿長がゆっくりと頷く。

「清さ、とは」

「純誓の強化です。特に、若き神官殿――」

 使者の視線が、彼に真っ直ぐ刺さった。

「――次代の柱と目される方には。世俗の噂が一切立たぬよう、誓いの文言を明確に。神殿の威光のために」

 “世俗の噂”。

 彼女の背筋が、ほんの僅かに硬くなる。噂が指すものを、彼女だけが知らないふりをしているわけではない。この部屋にいる全員が、薄く理解している。彼女の存在が、都合のいい“材料”になることを。

 会計監督官が咳払いをし、口を挟んだ。

「純誓はすでにございます。追加の強化は……神殿の慣習に反します」

 使者は涼しく言った。

「慣習は、整えるものです。寄進も、また“整う”でしょう」

 金の匂いが、香より強くなる瞬間。

 神殿長は視線を落とし、机の上の小さな祈りの器に触れた。考えているふりをしながら、既に半分は決めている顔だった。神殿の維持は現実だ。現実の前で、理想はいつも弱い。

 ――だからこそ。

 彼女は息を吸い、口を開いた。

 控えめに。礼儀正しく。だが、逃げない。

「条件の確認をさせてください。寄進の増額と物資の安定供給。その代わり、純誓の強化。具体的には、誓いの文言の明確化と、外へ向けた“清さの証明”の強化……でよろしいでしょうか」

 使者は少し驚いたように瞬きをし、すぐに笑った。

「はい。お話が早い。……あなたは?」

 神殿長が答える前に、彼が静かに言った。

「神殿の実務官です。記録と運営の補佐を」

 彼は“補佐”と言った。

 彼女は、その言葉の中に小さく守りを感じた。彼女を前に出しすぎない。けれど、切り捨てもしない。彼の半歩前の癖は、こういう時にも出る。

 使者が続ける。

「噂は、清さを曇らせます。神殿は人々の拠り所でなければならない。……ですから、若き神官殿は特に、誰にも誤解されぬよう」

 誤解。誤解という言葉は便利だ。誰のための誤解か、誰が誤解を作っているのかを隠せる。

 彼女は、冷静に続けた。

「誤解を避けるために、誓いを強める。……ただ、その結果として神殿が息苦しくなる可能性もあります。寄進は神殿を支えますが、神殿を縛ることにもなり得る。――それを、理解した上での条件ですか」

 使者の笑みが、ほんの僅かに薄くなる。

「神殿が息苦しい、とは?」

 神殿長が眉を上げかけた。会計監督官が慌てた気配を出す。彼女の発言は“失礼”と取られる可能性がある。

 だが、彼女は礼儀を崩していない。質問として投げている。現実的な確認として。

 彼が、低く言った。

「息苦しさは、清さとは違います」

 短い。だが、刃のように明確な言葉だった。

 使者の視線が彼に戻る。

「しかし、人々は象徴を求めます。象徴は、曇りがあってはならない」

 神殿長が、ゆっくり口を開いた。

「……そなたはどう思う」

 問いは、彼に向けられているようで、実際は“試し”だった。神殿長は、彼がどれだけ従順かを測っている。貴族は、彼がどれだけ“偶像”になれるかを測っている。

 彼は沈黙した。

 沈黙の間、彼女は彼の横顔を見た。昨夜の、欲という言葉。清くなくなることが怖い、という問い。

 ——この場で、彼が言えばいい答えはひとつ。

「神殿のために、純誓を強化します」

 それが最も“清く”見える。

 けれど、その清さは、彼の心をさらに閉じ込める。

 彼女は、ほんの僅かだけ、机の端の記録用紙に指を置いた。合図ではない。触れただけ。自分の仕事に戻るための動作。彼に逃げ道を残すための動作。

 ――あなたが決める。私は、支える。

 彼は、その指先の動きを見たのかもしれない。見ていないのかもしれない。

 ただ、次に彼が言った言葉は、祈りのように静かで、しかし祈りとは違う熱を含んでいた。

「誓いは、心を守るためにあります。……誰かに示すためにだけあるものではありません」

 使者が口を開きかけたが、彼は続けた。

「私は、神殿の信頼を守りたい。だからこそ、誓いの意味を軽くしたくない。文言を強めるなら、その強さは“見せる清さ”ではなく、“心の在り方”に向けられるべきです」

 神殿長が目を細めた。会計監督官が息を呑む。

 使者は笑みを保ち、しかし声を少し冷やした。

「心の在り方は、外からは見えません」

「だからこそ、行いで示します。……神殿の金の流れを、透明に」

 その言葉に、部屋の空気が動いた。

 彼女の胸の奥の灯りが、はっきりと燃え上がる。

 ——来た。

 ここで彼が「透明に」と言うのは、改革を意味する。帳簿の歪みを正すだけでは終わらない。神殿の仕組みに手を入れることになる。敵は増える。摩擦も増える。

 けれど、彼はそれを“誓い”の話と結びつけた。

 誓いを強めるのではなく、誓いにふさわしい神殿にする。

 使者は間を置いて言った。

「……それは、寄進の条件とは別の提案ですね」

 彼女は、そこで静かに口を挟んだ。

「いえ。条件の本質は“信頼”です。神殿の信頼が確かな形で示されるなら、寄進者にとっても安定になります」

 控えめに。だが、論理で。

「純誓の強化は、象徴を縛ることで信頼を作ろうとする方法。透明化は、仕組みを整えることで信頼を作る方法です。……どちらが長く持つかは、現実的に考えれば明白かと」

 神殿長が、初めて、ほんの少しだけ笑った。

「実務官らしい言い方だ」

 使者の笑みが戻る。だが、目の奥の計算が変わった。

「検討に値します。ただし、我が主が望むのは“曇りのない象徴”です。噂が立てば、寄進は揺れます」

 噂。

 そこに戻る。

 彼女はその言葉を飲み込み、淡々と答える。

「噂は、証拠ではありません。……ただ、噂が立ちやすい構造があるなら、そこは整えるべきです」

 会計監督官がぎょっとして彼女を見る。神殿長は面白そうに目を細める。彼は、静かに彼女を見た。

 彼女は、視線を逸らさない。けれど、言葉は慎重に選ぶ。

「神殿内の動線や業務分担、記録の取り扱い。誤解を生む余地を減らす。——これは誰かを遠ざけるためではなく、神殿を守るための整備です」

 “誰かを遠ざけるためではなく”。

 それは、彼に向けた言葉でもあった。あなたが私を切り捨てなくてもいいように。私が勝手にあなたの足枷にならないように。

 神殿長が結論を急がずに言った。

「よい。寄進の件は保留とする。代わりに、神殿の透明化案をまとめよ。……若き神官、実務官。ふたりで」

 最後の一言が、また噂を育てる。

 けれど、神殿長はわざとそう言った。噂が立つなら、噂を制御する。表に出してしまうことで、裏で腐らせない。

 会議が終わり、回廊へ出た瞬間、空気が少し軽くなった。香が薄い場所に戻ると、神殿はまた“祈りの場”の顔をする。

 彼は歩きながら言った。声は低く、短い。

「……無理をさせましたか」

 彼女は首を横に振った。

「現実的な仕事です。無理ではありません」

「噂が……あなたに向く」

 その言い方が、彼の“罪悪感”だった。彼は自分が原因だと思ってしまう。自分が清くあるべきだと、まだ思っている。

 彼女は少しだけ笑った。

「噂は、私の仕事では止まりません。……でも、整備はできます」

 彼が足を止めた。回廊の柱の影が、ふたりを半分だけ隠す。

「あなたは、怖くないのですか」

 また、その問い。

 彼女は一拍だけ置いて、答えた。

「怖いです。あなたが、自分を閉じ込めることが」

 言ってしまった。

 彼の目が揺れる。聖人の顔の奥で、人が息を吸う。

 彼女はすぐに言葉を続け、角を取った。逃げ道を残すために。

「だから、仕事をします。透明化案を作ります。噂が食い込む隙を減らします。……あなたが、息をできる神殿にするために」

 彼の喉が小さく動いた。言葉が出ない代わりに、彼は静かに頷いた。

「……ありがとう」

 その“ありがとう”は、寄進を動かすための礼ではない。

 彼女の胸の奥の灯りが、確かに熱を持った。

 そして彼は、半歩前ではなく、並ぶ位置に立とうとするように、歩幅を少しだけ調整した。

 ほんの僅か。誰も気づかないほどの変化。

 けれど彼女は、それが彼の中の決意だと知った。

 ——改革は、神殿だけではなく、彼自身にも必要だ。

 その夜、執務室で彼は言った。

「透明化案、明日までに骨子を作ります。……あなたの目で、現実に落としてください」

 彼女は頷き、帳簿を開いた。

「はい。現実的に、進めます」

 灯明の火が、机の端で揺れた。

 外では噂が育っていく。寄進者は条件を変えてくる。神殿は揺れる。

 それでも、彼女の手元の数字は正直だった。

 そして――彼の内側の熱もまた、祈りより正直に育っていくのだと、彼女はまだ気づかないふりをした。
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