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後日談(新婚編 第3話) 夜更けの紅茶、団長の“頼み”が眠りに溶ける日(しっとり回)
夜。
屋敷は、騎士団の喧騒が嘘みたいに静かだった。
台所の灯りだけが、柔らかく残っている。
フィオナはカップを二つ並べ、湯気の立つ紅茶を注いだ。
今日の紅茶は、いつもより少し甘い――蜂蜜をほんの少しだけ落とした。
「団長さん」
呼ぶと、ヴァルドはすぐに来た。
すぐに来るのは、相変わらずだ。
“視界に入れ規則”は消えたはずなのに、目も足も、自然にここへ向かう。
「……まだ起きていたのか」
「うん。今日、ちょっとだけ……落ち着きたくて」
フィオナが笑うと、ヴァルドは無表情のまま頷き、カップを受け取った。
飲む。
一口。
それだけで肩がわずかに落ちる。
(……ここにいると、ほどける)
そのほどけ方が、愛おしくて、フィオナは胸の奥が温かくなる。
しばらく、言葉はなかった。
紅茶の音だけ。
夜が、きちんと夜の顔をしている。
フィオナは指先でカップの縁をなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「団長さん」
「……何だ」
「……式、ほんとにやるんだね」
ヴァルドの指が止まった。
止まってから、すぐに戻る。
“止まる”があるだけで、今日の彼は少しだけ柔らかい。
「……やる」
「うん」
フィオナは頷いた。
嬉しい。嬉しいのに、少しだけ怖い。
騎士団の人たちが騒ぐのが怖いわけじゃない。
王都の噂が怖いわけでもない。
――“確定”するのが、怖い。
この屋敷で、団長さんの隣にいることが、
誰の目にも“当たり前”になってしまうことが。
そうなったら、
自分のこの幸せが、重たく見える日が来るんじゃないか、と。
フィオナは、息を吸って言った。
「……私ね、最初、ここを保護施設だと思ってた」
ヴァルドは頷いた。
「……知っている」
「うん。でもそれ、逃げ道だったんだと思う」
ヴァルドの眉間がわずかに動く。
“逃げ”という言葉に、騎士団長は敏感だ。
フィオナは笑った。
笑って、正直に言った。
「好きって思うのが、怖かったの。
好きって思ったら、迷惑かもしれないって」
ヴァルドの手が、カップの取っ手を強く握る。
強く握るのに、声は静かだ。
「……迷惑ではない」
「うん。今は分かる」
フィオナは、カップの湯気の向こうで、ヴァルドを見た。
「でも……式って、“誰にも言い訳できない”感じがする」
ヴァルドは一瞬、目を伏せた。
そして、深く息を吐く。
「……言い訳が必要なのか」
フィオナは、首を振った。
「必要じゃない。
でも、昔の私には、必要だったんだと思う」
ヴァルドの指が、机の上で動いた。
何かを言おうとして、言葉が出ないときの癖。
フィオナは、勇気を出して続けた。
「団長さんが『ここにいてくれ』って言ったとき、
嬉しくて、幸せで……でも、ちょっとだけ怖かった」
ヴァルドが顔を上げる。
正面から見られると、フィオナの心臓がうるさくなる。
でも、目を逸らさない。
「……なぜ」
フィオナは、小さく笑った。
「私、今まで“いていい”って言われたことはあっても、
“いてくれ”って言われたこと、あんまりなかったから」
頼まれることは、
必要とされることは、
嬉しい反面、胸の奥がきゅっとなる。
ヴァルドは、黙っていた。
黙って、ゆっくりと手を伸ばし――
フィオナの手の甲に、指先で触れた。
触れ方が、命令じゃない。
剣を持つ手なのに、驚くほど慎重で、やさしい。
「……怖いなら、やめるか」
その言葉に、フィオナは目を丸くした。
やめる、という選択肢を彼が差し出すこと自体が、すごい。
フィオナは、首を振った。
「やめない。やりたい」
ヴァルドの指先が、ほんの少しだけ強くなる。
「……なら」
ヴァルドは、息を吸った。
そして、今日いちばん静かな声で言った。
「俺は、お前を縛りたいわけじゃない。
……一緒にいたいだけだ」
フィオナの胸が、ふっとほどけた。
ああ、この人はいつも、言葉が足りないだけで、
ちゃんと“選ばせる”人なんだ。
フィオナは、指先を少しだけ返した。
彼の手の甲を、そっと包む。
「……私も。一緒にいたい」
ヴァルドの目が揺れる。
揺れているのに、表情は崩れない。
崩れないのに、温度がある。
フィオナは、もう一つだけ“頼み”を言った。
「団長さん。式の日、きっとみんな騒ぐよね」
「……騒ぐ」
「そのとき、私……少しだけ緊張しちゃうと思う」
ヴァルドは、短く頷いた。
「……分かった」
「だから、ひとつだけ」
フィオナは笑って言った。
「“ここにいてくれ”って、もう一回言って」
ヴァルドは固まった。
固まって、耳が少し赤くなる。
でも、逃げない。
彼は、フィオナの手を握ったまま、低く言った。
「……ここにいてくれ」
命令じゃない。
頼みだ。
願いだ。
フィオナは、頷いた。
「はい。……私の意思で」
ヴァルドは、それ以上言葉を増やさなかった。
代わりに、立ち上がって――
無言で、フィオナを抱きしめた。
騎士団公認の“抱きしめ命令”。
でも今夜のそれは、命令じゃない。
守るためじゃなくて、
一緒にいるための抱擁だった。
ヴァルドが、耳元で小さく言った。
「……明日も、ここにいてくれ」
フィオナは、笑ったまま小さく泣いた。
「うん。……ここにいる」
窓の外で、夜風が木々を揺らす。
屋敷の中は、紅茶の甘い匂いで満ちていた。
(つづく)
屋敷は、騎士団の喧騒が嘘みたいに静かだった。
台所の灯りだけが、柔らかく残っている。
フィオナはカップを二つ並べ、湯気の立つ紅茶を注いだ。
今日の紅茶は、いつもより少し甘い――蜂蜜をほんの少しだけ落とした。
「団長さん」
呼ぶと、ヴァルドはすぐに来た。
すぐに来るのは、相変わらずだ。
“視界に入れ規則”は消えたはずなのに、目も足も、自然にここへ向かう。
「……まだ起きていたのか」
「うん。今日、ちょっとだけ……落ち着きたくて」
フィオナが笑うと、ヴァルドは無表情のまま頷き、カップを受け取った。
飲む。
一口。
それだけで肩がわずかに落ちる。
(……ここにいると、ほどける)
そのほどけ方が、愛おしくて、フィオナは胸の奥が温かくなる。
しばらく、言葉はなかった。
紅茶の音だけ。
夜が、きちんと夜の顔をしている。
フィオナは指先でカップの縁をなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「団長さん」
「……何だ」
「……式、ほんとにやるんだね」
ヴァルドの指が止まった。
止まってから、すぐに戻る。
“止まる”があるだけで、今日の彼は少しだけ柔らかい。
「……やる」
「うん」
フィオナは頷いた。
嬉しい。嬉しいのに、少しだけ怖い。
騎士団の人たちが騒ぐのが怖いわけじゃない。
王都の噂が怖いわけでもない。
――“確定”するのが、怖い。
この屋敷で、団長さんの隣にいることが、
誰の目にも“当たり前”になってしまうことが。
そうなったら、
自分のこの幸せが、重たく見える日が来るんじゃないか、と。
フィオナは、息を吸って言った。
「……私ね、最初、ここを保護施設だと思ってた」
ヴァルドは頷いた。
「……知っている」
「うん。でもそれ、逃げ道だったんだと思う」
ヴァルドの眉間がわずかに動く。
“逃げ”という言葉に、騎士団長は敏感だ。
フィオナは笑った。
笑って、正直に言った。
「好きって思うのが、怖かったの。
好きって思ったら、迷惑かもしれないって」
ヴァルドの手が、カップの取っ手を強く握る。
強く握るのに、声は静かだ。
「……迷惑ではない」
「うん。今は分かる」
フィオナは、カップの湯気の向こうで、ヴァルドを見た。
「でも……式って、“誰にも言い訳できない”感じがする」
ヴァルドは一瞬、目を伏せた。
そして、深く息を吐く。
「……言い訳が必要なのか」
フィオナは、首を振った。
「必要じゃない。
でも、昔の私には、必要だったんだと思う」
ヴァルドの指が、机の上で動いた。
何かを言おうとして、言葉が出ないときの癖。
フィオナは、勇気を出して続けた。
「団長さんが『ここにいてくれ』って言ったとき、
嬉しくて、幸せで……でも、ちょっとだけ怖かった」
ヴァルドが顔を上げる。
正面から見られると、フィオナの心臓がうるさくなる。
でも、目を逸らさない。
「……なぜ」
フィオナは、小さく笑った。
「私、今まで“いていい”って言われたことはあっても、
“いてくれ”って言われたこと、あんまりなかったから」
頼まれることは、
必要とされることは、
嬉しい反面、胸の奥がきゅっとなる。
ヴァルドは、黙っていた。
黙って、ゆっくりと手を伸ばし――
フィオナの手の甲に、指先で触れた。
触れ方が、命令じゃない。
剣を持つ手なのに、驚くほど慎重で、やさしい。
「……怖いなら、やめるか」
その言葉に、フィオナは目を丸くした。
やめる、という選択肢を彼が差し出すこと自体が、すごい。
フィオナは、首を振った。
「やめない。やりたい」
ヴァルドの指先が、ほんの少しだけ強くなる。
「……なら」
ヴァルドは、息を吸った。
そして、今日いちばん静かな声で言った。
「俺は、お前を縛りたいわけじゃない。
……一緒にいたいだけだ」
フィオナの胸が、ふっとほどけた。
ああ、この人はいつも、言葉が足りないだけで、
ちゃんと“選ばせる”人なんだ。
フィオナは、指先を少しだけ返した。
彼の手の甲を、そっと包む。
「……私も。一緒にいたい」
ヴァルドの目が揺れる。
揺れているのに、表情は崩れない。
崩れないのに、温度がある。
フィオナは、もう一つだけ“頼み”を言った。
「団長さん。式の日、きっとみんな騒ぐよね」
「……騒ぐ」
「そのとき、私……少しだけ緊張しちゃうと思う」
ヴァルドは、短く頷いた。
「……分かった」
「だから、ひとつだけ」
フィオナは笑って言った。
「“ここにいてくれ”って、もう一回言って」
ヴァルドは固まった。
固まって、耳が少し赤くなる。
でも、逃げない。
彼は、フィオナの手を握ったまま、低く言った。
「……ここにいてくれ」
命令じゃない。
頼みだ。
願いだ。
フィオナは、頷いた。
「はい。……私の意思で」
ヴァルドは、それ以上言葉を増やさなかった。
代わりに、立ち上がって――
無言で、フィオナを抱きしめた。
騎士団公認の“抱きしめ命令”。
でも今夜のそれは、命令じゃない。
守るためじゃなくて、
一緒にいるための抱擁だった。
ヴァルドが、耳元で小さく言った。
「……明日も、ここにいてくれ」
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「うん。……ここにいる」
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屋敷の中は、紅茶の甘い匂いで満ちていた。
(つづく)
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