夢を継ぐ王子は、朝鐘の君に帰る

星乃和花

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第一話 鐘と黒衣

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朝いちばんの風は、海の色をしていた。
鐘楼の高みに立つと、青でも灰でもない、遠い場所の色が頬をなでる。私は両手で綱を包み、呼吸をひとつ整える。鐘を鳴らす前の静けさは、世界がまだどちらにも傾いていない“余白”だ。そこへ音を置くのが私の朝の仕事だった。

「——鳴らします」

小さく自分に告げ、綱を引く。
暁鐘(モーニングベル)は一打目で空を裂き、二打目で人の肩に落ち、三打目で胸の底へ沈む。四つ目の余韻で、目覚めそこねた夢がほどけていく。鐘は、目を開ける方向を指す羅針盤だと私は信じている。

鐘声が街へ流れ、屋根瓦に薄く光が差し始めたころ、階段の下から足音が立った。規則正しい、訓練された音。先に顔を見せたのは衛兵で、その後ろから黒衣の人影が静かに現れた。

「王宮より視察に参った。第二皇子ルクス殿下であられる」

衛兵の言葉に、私は綱を解き、膝を折りかけて、やめた。ここでは膝より先に、湯気を差し出すのが礼儀だと祖母が教えてくれたからだ。私は手早く火床に薬草を落とし、小さな壺を温める。醒香草と薄荷花、それに柑の皮をひとかけ。朝のための配合。

「ドーン家の令嬢だな」
黒衣が言う。声は冷たいが、深くはない。底に砂利の気配のない、澄んだ声。

「エレナ・ドーンと申します、殿下。鐘の余韻で喉が渇かれます。どうぞ、温かいうちに」

私は杯を両手で包み、差し出した。殿下は一瞬だけためらって、それから受け取った。指先が杯の縁に触れると、わずかに震えた。寒さのせいだろうかと思い、次いで気づく。震えは外の風よりも、内側の何かに似ている。

「この高さは苦にならないのか」
殿下は欄干の向こうを見た。街の屋根、遠い港、光の帯。

「ええ。朝だけは、ここがいちばん地面に近い気がしますから」

殿下は視線をこちらへ戻した。黒衣の端が、かすかに揺れる。外見は完璧だ。仕立ての良い衣、余分な飾りのない剣帯、立ち姿の美しさ。それらが、彼の弱さを隠すための壁であることを、知らないふりはできない。

杯を受け取る手首の内側に、薄い痕が見えた。
糸のような、浅い青の走る痕。皮膚の下で光る、その筋。

——夢糸。

ノクターン家にだけ見えると伝わる、“夢に触れる者”の印だと祖母は言った。けれど、それは触れた夢の数で濃くなるとも聞く。殿下の痕は、まだ若いのに、深い。

「鐘の音は、お好きですか」

私が問うと、殿下は杯に顔を落とした。香りをひと呼吸、喉に落とす。瞼がわずかに柔らぐ。

「——嫌いではない。目を開ける合図だと、そう教わった」

「合図は、帰る方向を示すためにあります」

言いながら、私は自分の脈が落ち着いていくのを感じた。目の前の人の気配は、夜を抱えたまま朝に来た人のそれだ。音と香りと体温——三つそろえれば、人はたいてい帰ってこられる。祖母が遺した“目醒めの作法”。私はそれを、仕事として続けている。

殿下は杯を置き、欄干越しに街を見た。風に前髪が動く。その影の奥で、金色がきらりと揺れた。瞳だ。光を集める眼は、ときどき、遠いものを見ているふうに曇る。夢の向こうを見ている人の目。

「今朝の鐘は……海の色がした」
殿下がぽつりと言った。

「海の色に聞こえましたか」

「波が返す音が混じっていた。いや、私の耳が勝手に拾っただけだ」
言葉を切るたび、彼の喉仏が微かに上下する。慎重な人だと思った。自分の感じたものを、すぐには信じない。けれど、否定しきれもしない。

「音はよく、勝手に混じります」
私は笑った。「混じってくれたら、助かることもあります」

殿下はほんの少し目を細めた。それは笑いと呼ぶにはささやかで、けれど、私には十分だった。

階段口のほうで、侍従が咳払いをした。視察の予定は長くないのだろう。殿下は軽く頷くと、私へ向き直る。

「視察は形式に過ぎない。鐘は良く鳴っている。——エレナ・ドーン。名を覚えた」

呼ばれた音が胸に落ちる。鐘の三打目のように深く。
私は裾をつまんでお辞儀をしようとした。が、殿下の視線が私の手元で止まり、次に自分の手首へ戻った。袖口が少しずれ、私は視たものを——視てしまったものを——隠すことができなかった。

薄い青の夢痕。
それは、ふいに光った。誰も触れていないのに、糸が震えたときのように。

殿下の呼吸が、半拍だけ、途切れた。

「——失礼」
彼は息を整え、いつもの平板な声に戻す。
「朝早くから、世話になった」

私は首を振った。「こちらこそ。……殿下」

言葉はそこで止まった。私の舌の上に、祖母の言い置きが浮かんだからだ。——夢に寄り添うとき、先に結論を言ってはいけない。帰り道の話は、相手が歩き出してから。

だから、私は別の言葉を選んだ。

「朝の茶は、いつでも用意できます。鐘の余韻で喉が渇いたら、またお立ち寄りください」

殿下は短く頷き、踵を返した。
階段を降りる靴音が遠ざかる。私はぎゅっと両手を合わせて、胸の前で自分の脈を確かめる。落ち着け、落ち着け。鐘を鳴らしたばかりの心は、いつもより少し高鳴っている。そこへ“誰かの夜”の気配が触れると、鼓動は簡単に音階を変える。

火床の火が小さくはぜた。壺の底で茶葉がまだ踊っている。私は二杯目を自分のために注いで、口に運んだ。醒香草の香りが舌の奥に広がる。柑の皮が朝を明るくする。

ふいに、階段の途中で足音が止んだ。
戻ってくるのか、と胸が動く。けれど、また降りていく音。私は肩の力を抜いた。焦ることはない。鐘は毎朝、鳴る。合図はいつでも置ける。帰り道は、何度だって新しくつくれる。

……その日の昼過ぎ、王宮から一通の文が届いた。
暁鐘の整備状況に対する礼状——と、もうひとつ、短い追伸。

朝の茶、確かに目を醒ましてくれた。
できれば、配合を知りたい。
——ルクス・ノクターン

礼状に署名をする皇子は、いちいち追伸など添えないものだと聞いていた。私は文を持つ手を見下ろし、笑っている自分に気づいた。醒香草、薄荷花、柑の皮。配合は決まっているが、湯の温度と手の温度は、その日ごとに違う。

夕刻、鐘楼を降りると、海のほうから風が上がってきた。港の帆が遠くで鳴る。私はその音を聞きながら、文を畳んで胸元へしまう。紙は少し冷たい。けれど、言葉は温かった。

私は祖母の古い記録を開いた。そこには、夢に寄り添うための線引きが細かく記されている。夢は所有物ではないこと。無理に引き上げないこと。音と香と体温の三つで呼び戻すこと。そして何より——

“帰り道の話は、相手が歩き出してから。”

私は目を上げ、窓の向こうの鐘楼を見た。先ほどまで私がいた場所に、もう夜の影が落ちている。明日の朝、同じ場所で、同じ風が吹くだろう。そのとき、もし彼が再び階段を上ってくるなら——私は今日と同じことをする。音と香と体温をそろえ、合図を置くだけ。

その夜、私は久しぶりに夢を見なかった。
夢見ない夜というのは、からっぽではない。すべてが静かに底へ沈んで、手を触れなくても輪郭が保たれている夜だ。目を閉じる前、私は彼の名を小さく呼んだ。鐘の三打目のように、胸の底で音が響いた。

ルクス。

その音は、明け方の海の色をしていた。
そして私の中に、まだ言葉にならない予感だけを残していった——誰かが帰る場所になれるというのは、たぶん、こういう気配のことを言うのだろう、と。
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