夢を継ぐ王子は、朝鐘の君に帰る

星乃和花

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第二話 政略と予兆

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翌朝の風もまた、海の色をしていた。
私はいつものように暁鐘を鳴らし、余韻が街の屋根にほどけていくのを見届けた。火床の火に醒香草を落とすと、湯気の向こうに紙片の白がふっと浮かぶ——昨日の礼状だ。追伸のわずかな温度は、紙から抜けたはずなのに、読み返すたび胸の内側で温まる。

「配合を知りたい——ですか」

独り言を呟いて、私は小さく笑った。
配合そのものは簡単だ。けれど、湯の温度と手の温度は、日ごとに違う。祖母はそれを“今朝の天気を飲ませる”と表現した。私は小さな紙にさらさらと書きつけ、茶葉の小包に添える。「湯は沸き切る前、指の腹が一拍ためらう温度で」「杯はあらかじめ温めること」「飲む前に、香りを喉に通すこと」——そして最後にひとつだけ、迷った末に付け加えた。

音・香・体温の三つが揃うとき、人はよく帰ってこられます。

昼近く、鐘楼の階段を降りようとしたところで、宮廷の使いが現れた。紺の制服に銀の飾緒。私の名を確認すると、封蝋の重い文を差し出す。

「王宮より。暁鐘の整備への謝礼と、祭礼に関する打ち合わせの内示。それと——」

使いは一瞬だけ言葉を選んだ。

「内々のご通達。ノクターン家第二皇子殿下と、ドーン家令嬢との婚約につき、両家の意向を伺いたいとのこと」

風の音が、遠くで帆を鳴らした。
私は封を切り、文面を目で追う。礼の言葉、祭礼日程、そして最後に短い段落。“安寧の象徴として、鐘と夢の家を結ぶこと”——あまりに簡単に書かれた理由。私はふっと息を吐き、背筋を伸ばした。

「父に相談します。お返事は今夜のうちに」

使いは礼を取って去った。
私は家の小さな居間に戻り、古い木の机に文を広げる。父はすぐに来て、字にじっと目を落とした。寡黙な人だが、鐘に関することになると、選ぶ沈黙に意味が宿る。

「……形式上は、以前から話がなかったわけではない」
父は静かに言った。「だが、選ぶのはお前だ。鐘は象徴であっても、人は人だ」

「はい」

「彼の噂は耳に入っている。強く、そして弱い。弱さは隠すための壁を連れてくる。壁に手を置けるかどうかは、手の持ち主しだいだ」

父なりの心配と、許しの言い方だ。
私はうなずき、文をそっと畳む。
政略は政略としてある。けれど、引き受けるかどうかは、私の“合図”だ。祖母の言葉が浮かぶ——帰り道の話は、相手が歩き出してから。ならばまず、私が歩き出す番かもしれない。

夕刻、宮廷へ茶葉の小包を届ける使いを送り出すと、灯がひとつ、またひとつ街にともった。私は鐘楼に登り、明日の綱を点検する。ふと、手首の内側が温んだ。自分の脈が、いつもより半拍早い。胸の奥がまだらに静かでない。

夜が落ちる。
私は早めに床へ入り、目を閉じた。昨夜は夢を見なかった。今夜は——どうだろう。暗がりの瞼の裏に、ひとすじの糸が現れる。淡く光る、青白い糸。誰かの皮膚の下で見た色に似ている。夢糸。

気づいたとき、私は水面の縁に立っていた。
睡蓮の葉が暗い鏡に浮かび、遠くで鐘がまだ鳴っているような、ないような。風はないのに、水はゆっくり脈を打つ。靴底の下に、石の感触。ここは“縁(ふち)”。夢の内側と外側の境目。

水面が、ふっと陰った。
黒い衣の裾。沈みゆく影。
私は反射で踝を止める。——祖母の教え。“夢に入る手前で止まりなさい。声は遠くからでも届く”。私は喉に息をまとめ、胸に掌を置く。自分の脈が、合図になる。

「……ルクス殿下」

呼ぶと、水が細かく震えた。
彼はすぐには浮かばない。沈黙は、不安ではなく、深さの単位だ。私はもう一度、今度は自分の名を付け足した。

「エレナです。ここが縁です。——帰り道は、こちら」

水底から、微かな光が上がってきた。
睡蓮の茎が揺れ、黒衣の肩が現れ、濡れた前髪の間から、金色の眼が開く。現実の彼よりも幼く見える顔。守りを持たない眼差し。

「……呼ばれた」

「呼びました。鐘の音を、借りました」

私は背後の見えない鐘へ微かに指を伸ばす。
音は鳴らない。ただ、空気が整う。合図の前ぶれ。
彼は水から立ち上がり、縁へ近づく。手を伸ばしかけて、止めた。指先が震える。夢の中の震えは、現実よりも静かだ。

「来ないで」
私は首を振る。「今は、ここまで。……殿下の足で、こちらへ」

彼はゆっくりと頷き、縁石に掌を置いた。水は静かに彼を離す。濡れた衣から滴る水音が、夢の中の時間を刻む拍になる。やがて彼は私の前に立ち、呼吸を整えた。近い。けれど、触れない。私の手は胸の上で脈を抱いたまま。

「怖かった」
彼は、子どものようにまっすぐな声で言った。

「怖いのは、怖いままで大丈夫です」
私は答える。「帰ることと、怖くないことは、別の道です。でも、どちらも朝に通じています」

彼の喉が一度、ごくりと動く。
私はそっと、袖口から一枚の布を取り出した。鐘を磨くときの古い布だ。祖母がいつも持っていた。夢に物を持ち込むのは、本来は好ましくない。けれど、これは“象徴”だ。私は布を両手で広げ、空気に浮かべる。布は風もないのにふわりと膨らみ、湿りを吸って軽くなる。

「手を、どうぞ」
私の声は、鐘の四打目の余韻に似ていた。
彼はためらい、そして布ごしに私の手へ指を重ねた。直接ではない。夢の倫理の、ぎりぎりのところ。布は温度だけを通す。体温のかすかな差が、海の底に落ちていた光を引き上げる。

「帰りましょう、ルクス殿下」

彼は、私の名を口の中で試した。
「……エレナ」

その響きは、水面に落ちた小石の波紋のように広がり、やがて遠いところで鐘の音になった。私は頷き、布をそっと引いた。彼は縁を越え、こちら側へ——夢の外へと歩き出す。歩幅は小さいが、確かだった。

「ありがとう」
彼は最後に言った。声はもう、黒衣の皇子のものだった。

——目が覚める。

私は暗い寝室で、しばらく身じろぎもせず天井を見ていた。
夢の温度は覚えているのに、肌は乾いている。布は手元にない。けれど、掌に残る微かな温度差は、現実のものだ。私は胸の上に掌を置き、自分の脈と、夢の向こうの脈を重ねる想像をした。合図は、届いたのだろうか。

夜が薄くほどけ、鳥が遠くで鳴いた。
私は起き上がり、湯を沸かす。湯気が立ちのぼる瞬間、窓を叩く小さな音がした。
扉を開けると、宮廷の使いが立っている。夜明けの冷気の中、彼は息を白くして、封蝋の軽い文を差し出した。今度の蝋は、重くない。個人の印——ノクターンの印ではあるが、公のものではない。

配合の礼を言う。
音と香と体温の話を、今朝、実感した。
祭礼前に鐘楼へ伺いたい。私用として。
——ルクス

私は思わず口元を押さえた。
文の隅に、小さな追伸がある。

今夜、海の音をきちんと聞いた。
ありがとう、エレナ。

湯が沸いた。私は壺を温め、今日のための茶葉を手に取る。醒香草、薄荷花、柑の皮。湯の温度は、昨日よりわずかに高く。指の腹がためらう地点を半拍進める。今朝は、目醒めが急がれている気がしたから。

鐘楼へ上がると、東の端で雲が切れ、薄明の帯が見えた。私は綱を握り、息を整える。鳴らす前の余白に、もうひとつ小さな余白——これから起こることのための、静かな空きを置く。

「——鳴らします」

暁鐘はよく響き、街は目を開けた。
鳴り終える頃、階段の下で規則正しい靴音がした。前回と同じように、衛兵が先に顔を出し、続いて黒衣の人影が現れる。彼は欄干の手前で立ち止まり、少しだけ息を整え、それから私を見る。その目の奥で、波が一度、静かに返る。

「朝の茶を、いただけるだろうか」

「もちろん」

私は杯を温め、配合どおりに注ぐ。香りが立ち上り、彼の瞼の端がわずかにほどける。
彼は杯を両手で持ち、息で縁を曇らせた。手首の夢痕は今朝は淡い。昨夜の水からきちんと上がってきた証のように。

「政(まつりごと)の話は、あとにしよう」
彼は杯の向こうで言った。「まずは、礼を。昨夜——」

「はい」
私は頷いた。言葉を焦らない。合図は置くが、結論は急がない。

彼はゆっくりと杯を置き、こちらを見る。
黒衣の完璧さは相変わらずだ。けれど、その外側に、薄い余白が生まれている。守りと守りのあいだに、人が通れる幅。

「エレナ。——私は、怖い」
彼は正面から言った。「それでも、助けたい」

「怖いままで、助ければいいのだと思います」
私は静かに答える。「そのとき、帰る場所が必要になります。……置いておきますね」

私は机の引き出しから、小さな布を取り出した。昨夜夢に持ち込んだのと同じ、鐘を磨く布。現実の布だ。
彼はそれを見て、唇の端をわずかに上げた。笑い、と呼んでよいくらいに。

「政の話は、あとにしよう」彼が繰り返す。「まずは、帰る場所の話を」

鐘楼の上で、朝の光が強くなる。
遠くの港で帆が鳴り、街路に人の足音が増える。
私は布を彼の前へそっと差し出した。彼はそれを受け取り、掌で重さを確かめる。布は軽い。けれど、――重さは、ある。

そのとき、階段の下から別の靴音が急いで上がってきた。
侍従が一礼し、簡潔に告げる。

「殿下、枢密院よりお召し。婚約の件につき、本日中の内示を——」

彼は短く頷き、私を見た。
黒衣の完璧さが戻りかけ、しかし、完全には戻らない。布の感触がその間に留める何かのように。彼は静かに言う。

「夕刻に、もう一度来る。……合図を、置いておいてくれ」

「はい。音と香と、体温を」

彼はほんの少し目を伏せ、そして昇る朝の光に背を向けた。
階段を降りる足音は、今度は、戻ってくる音に聞こえた。私は胸の前で掌を合わせ、自分の脈を数える。鐘を鳴らしたあとの心は高鳴る。それはもう、怖れに似たものではない。朝に向かう鼓動だ。

政略は政略として来るだろう。
けれど、私たちには合図がある。置いた合図は消えない。帰り道は、何度だって新しく作れる。

窓の外で、海の色が少し明るくなった。
私は茶を一杯、自分のために注ぎ、香りを喉へ通す。
その香りは、昨夜の水面と、今朝の鐘と、彼の追伸を、やわらかくひとつに結んでいた。
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