夢を継ぐ王子は、朝鐘の君に帰る

星乃和花

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夢幕間A 睡蓮の水面

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水面は、文字が読めるほど静かだ。
鏡のいちばん下で、幼い私が目を開けている。
息が足りなくなると、世界はゆっくり裏返り、音が遠くなる。
そこへ——鐘。

一打目で空が割れ、二打目で水が揺れ、三打目で胸が思い出す。
「上へ」と。
その三打目が聞こえない夜は、私は水の底で眠った。長く、長く。起きられない朝が続き、名を呼ぶ声だけが天井に触れていた。

睡蓮は、音を持たない花だ。
葉の裏を小魚がかすめ、茎が脈のように揺れる。
私はここで幾度も他人の夢に手を伸ばし、幾度も沈み、幾度も戻った。
助けたいという願いは、沈む速度を早める。
怖れは、目を閉じる速度を早める。
二つが重なると、体は“縁”を忘れる。私の血は、忘れ方をよく知っている。

水底には、見たくないものほど輪郭がはっきりする。
泣いている横顔。
呼べなかった名前。
伸ばし過ぎた指。
そのたび、耳の奥で石が鳴る。鐘ではない。沈むときの音だ。私はその音を“反響”と呼んでいる。返ってきて欲しくないものほど、綺麗に戻ってくる。

ある朝、違う色の音が差してきた。
海の色。風の手触り。
鐘は高い塔からではなく、胸の近くで鳴った。
「ここが縁です」
声は、水を乱さない。
私は言葉に従って、手を引く。
布ごしの温度が、刃の面取りのように怖れの角を鈍らせた。
体温だけが渡ってきて、名前は渡ってこない。
それがよかった。
私は“助けられる自分”に、まだ名を与えられないでいるから。

睡蓮の葉に、光が一枚の紙みたいに落ちる。
読み慣れたはずの文字が、今日は違う行間を持っている。
——怖くていい。
——帰り道は、置いておけばいい。
——三つそろえば、戻れる。音、香、体温。

香りは夢にはないと思っていた。
けれど、喉の奥が薄荷に触れたみたいに冷えて、すぐに柑の皮の明るさが追いつく。
私はこの場所で初めて、匂いを“聞いた”。
音と香が混ざると、反響は薄くなる。
その薄さの分だけ、私の手は軽くなる。
軽さは、卑怯ではない。
誰かの帰還を邪魔しない重さのことを、祖母は「良い軽さ」と呼んだ。

子どもの私が、水面に手を伸ばす。
現の私が、その手を取る。
——布ごしに、もうひとつの手の温度が重なる。
三つ目の合図がそろう。胸の内側で、鐘の三打目が遅れて落ちる。

目を開ける。
天井は見慣れた天井で、脈は数えられる速さに戻っている。
水音はない。けれど、睡蓮の光だけが、瞼の裏に残っている。
そこに彼女の名はまだない。
名のないまま、私はその光を“朝”と呼ぶことにした。

朝は、帰る方向を指す。
私の怖れが消えるわけではない。
助けたい願いが弱まるわけでもない。
ただ、縁が見える。
それだけで、夢の中の距離は短くなる。

私は指を握り、掌の真ん中に残った温度を確かめた。
夢は所有物ではない——祖母の言葉が、睡蓮の影みたいに静かに敷かれる。
所有しないで帰還だけを手伝う。
そのやり方なら、私の脆さは、刃ではなく糸になる。
切らずに、結べるほうの。

水面が閉じる。
私は今夜も、鐘の三打目を遅らせないように息を整える。
遠くで海が鳴る。
あの声は、きっとまた縁に来る。
名を呼ばれたら、上へ。
名を呼ばれなくても、上へ。
そして、上がれたら——ありがとうを言う。
名のない“朝”にではなく、私を朝へ押し出した温度に。
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