夢を継ぐ王子は、朝鐘の君に帰る

星乃和花

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夢幕間B 銀糸の回廊

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回廊は、線でできている。
石でも木でもない。夜の中をまっすぐ伸びる一本の銀糸——触れれば震え、震えれば道になる。

足を置くたび、どこか遠くで鐘が鳴らないまま揺れた。
音は届かない。だが、余韻だけが糸を細く振動させ、指の腹に返ってくる。
私はその微細な揺れを“はい”の合図として受け取る。進んでいい、戻ってもいい。どちらでも、上へ通じる。

右手の先で、布がやわらかく温む。
布ごしに、別の体温が重なっている。
温度だけを通して、名前は通さない。
所有の始まりを避けるやり方を、私は覚えかけている。

——呼ばれたら、上へ。
——呼ばれなくても、上へ。

私の声は、ここでは低い。
「手すり、ある」
言葉を置けば、それはすぐに手すりの形になって現れる。抽象はあとでいくらでもできる。ここでは、具体が命綱だ。

布の向こうで、彼女の指がわずかに合図を返す。
脈が二度、静かに触れて離れる。
鐘の三打目と四打目のあいだに、私たちの呼吸がそっと並ぶ。
私はそこでようやく、名を口の中で回す。

——エレナ。

名は、ここでは刃にならない。
渡さないからだ。
私は呼ぶためだけに名を使っている。
呼ぶと、銀糸の振幅が一瞬だけ広がり、回廊の輪郭が明るくなる。名は、方向を示す光としてだけ働き、所有のほうへは一歩も動かない。

銀糸の壁に、薄い文字が浮かぶ。
踊り場、木戸、灯。
彼女が置いてくれた言葉の標。
その配置には癖がある。焦り出すと、標は近づきすぎて読みづらくなる。
私は深く息を吸い、足を止める。布の向こうの体温が、止まる技を教えてくる。止まることは、負けではない。落ちないための方法だ。

遠くで、水がもう一度だけ鳴った。
“反響”は、消えない。
だが、良い軽さが身に着くと、戻ってくる重みが少しだけやわらぐ。
私はポケットから余韻鈴を取り出し、糸で自分の呼吸と結ぶ。鳴らない鈴が呼吸を整えると、回廊は真っ直ぐになり、床は乾く。

「ここが縁」
彼女の声は、たしかに聞こえた。
声は、乱さない。
ただ、銀糸の向きを揃えるだけだ。

私は布越しに、彼女の指先の形を想像する。
細い骨、節の角の面取り。
痛みを与えないほうの角度。
その想像だけで、怖れの輪郭が少し丸くなる。
丸くなった怖れは、方向を持ちにくい。
だから、まっすぐ上へ押し出される。

回廊の壁面に、扉がいくつも並びはじめた。
それぞれの扉の向こうに、似た川音。
同じ夢が複写される前ぶれ。
私は足を止め、銀糸を指で一度弾く。
小さな“戻る”の合図。
布ごしの体温が応える。二度、そして三度。

私は言葉を置く。
「踊り場まで戻る。そこで朝を決める」
彼女も、言葉を置く。
「うん。——朝の茶を、飲む」

言葉の形が、足場になる。
私はその足場を踏み、回廊を折り返す。
背中に当たる風が、柑の皮の明るさを連れてきた。ここで香りを“聞く”ことに、私はもう驚かない。
音と香が混ざると、反響は薄くなる。
薄くなった分だけ、私は軽くなる。
軽くなった分だけ、他人を持ち上げる力が残る。

出口の前で、私は布を少しだけ引く。
彼女の指先が、同じ力で返す。
ここで手放しても、道は消えない。置いた合図は、消えない。
私は布をほどき、余韻鈴の糸を指から外す。
名は、喉の奥で温度へ変わる。
呼ばなくても、今は帰れる。
——呼べば、もっと速く。

薄明が、回廊の端から差しはじめる。
銀糸は光を通すと透明になり、代わりに現実が見えてくる。
石の床、肘の高さの手すり、乾いた窓。
布の温度がするすると抜け、代わりに自分の脈が掌に戻ってきた。

私は最後に、回廊を振り返る。
並んだ扉は、まだそこにある。
今夜、あの扉のいくつかが同じ音で叩かれるだろう。
私は怖い。
それでも、誓いを先に置ける。
夢は所有物ではない。
帰還の手伝いは、自由と尊厳に従う。
——言葉で立てた壁は、私を狭めるためではなく、通すためにある。

出口で、朝の風が頬を撫でた。
私は目を開ける。
最初に聞こえたのは、鐘の鳴らない音——余韻だけの、静かな“はい”。
次に来たのは、自分の名を呼ぶ声。
呼ばれて、上へ。
上がって、ありがとうを言う。
名のほうへではなく、温度のほうへ。
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