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第3話 ボランティア令嬢、書庫に入る
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「図書館の、お手伝い……でございますか?」
老司書長の眉が、もともと細い線をさらに細くした。
アリアは、応接室の椅子の端に品よく腰掛けながら、こくりと頷く。
「はい。もともと読書は好きですし、先日伺ったとき、蔵書のお手入れが大変そうでしたから。もしお役に立てるのなら、少しでも力になりたくて」
——好印象40。
——警戒度22。
——戸惑い33。
司書長の頭上には、そんな数字が並んでいる。
(慎重にいかないと)
アリアは、にっこりと笑顔を深めた。
「もちろん、正式な職員としてではなく、あくまでボランティアとして。わたくしがこちらにいられるのは限られた時間ですし、図書館の規則も尊重いたします」
「は、はぁ……しかし、エルネル家のご令嬢に、そんな雑務をお願いするわけには……」
「雑務だなんて、とんでもない。知識の保管は、この国の宝を守ることですもの。とても崇高なお仕事だと思いますわ」
さらりと甘い言葉を乗せると、司書長の頭上の数字が、少しだけ変化する。
——誇り度+15。
——受け入れ傾き45。
そこへ、控えていたユリウスが口を開いた。
「司書長。蔵書の修復や整理に、人手が必要なのは事実です」
落ち着いた声だが、その中に、ほんの少しだけ真剣な響きが混ざっている。
アリアは横目で彼を見た。
(あら、擁護してくれるの?)
ユリウスの頭上には相変わらず何も浮かばないが、その言葉選びからは、彼なりの意志が見て取れる。
「もちろん、安全面には十分配慮いたします。高いところの本の出し入れや、重い荷物の運搬は僕たちが行いますし、アリア様には、机上での目録整理や、紙の状態確認などをお願いできればと」
「……ふむ」
司書長は白い顎ひげを撫でながら、じっとアリアを見つめた。
数字では測れない沈黙。
けれど、アリアにはその間に、司書長があれこれと思考をめぐらせているのがわかった。
——「貴族の令嬢を受け入れたときの責任」。
——「図書館にとってのメリットとリスク」。
——「若い司書たちの負担が減ること」。
それらは数字よりもむしろ、重さや温度として伝わってくる。
(ここで、背中を押すひと言)
アリアは、ほんの少しだけ姿勢を正した。
「わたくしも、もう子どもではありません。もし何かあれば、自己責任であることも理解しておりますわ。……それに」
一呼吸おいて、ぽつりと本音を混ぜる。
「この場所が、とても好きになってしまったのです。昨日、初めて足を踏み入れたばかりなのに、不思議なくらい落ち着いて……。もし許されるなら、この静けさの中で、少しでもお役に立ちたいのです」
司書長の目が、わずかに柔らかくなった。
——信頼度40。
——受け入れ決定85。
「……そこまで仰るのであれば」
やがて、司書長は深く息を吐いた。
「条件付きで、お受けしましょう。ただし、本格的な修復作業や、危険な薬品を扱う仕事はお任せできません。あくまで補助的な作業に限る。それでよろしいですか?」
「はい、十分ですわ」
アリアは、花がほころぶような笑顔を浮かべた。
ふと横を見ると、ユリウスがほんの少しだけ表情を和らげているのが見える。
やっぱり、数字は出ない。
でも、不思議と「良かったですね」と言われたような気がした。
*
こうして、「心読み令嬢のボランティア勤務」は、翌日から始まった。
最初の仕事は、「紙の状態確認」だった。
「こちらが、状態を見ていただきたい本です」
書庫の一角で、ユリウスが机の上に数冊の本を並べる。
古びた革の装丁、色あせた背表紙。
ページの端は、ところどころ黄ばんだり、欠けたりしている。
「表紙の傷み具合、ページの破れ、インクの滲み。気になる箇所があれば、この表に印をつけてください。修復が必要なものから優先して対応します」
「わかりましたわ」
アリアは袖を少し捲り、慎重に本を開いた。
紙の触り心地は、想像以上に繊細だった。
指先に、ほんの少しざらりとした感触と、薄い粉のようなものが残る。
「力を入れすぎると破れてしまうので、ゆっくりめくってくださいね」
「はい」
素直に頷きながらも、アリアの頭上には小さな数字が浮かんでいる。
——緊張度45。
——慎重度70。
——楽しみ度25。
(数字にしたら、意外と悪くないわね)
やがて、彼女は紙の表面のかすかな波を見分けられるようになっていった。
湿気を含んでいるもの、乾燥しすぎてひび割れかけているもの。
(これって、人の心と同じだわ)
そう気づいたとき、ふと笑いがこみあげた。
「何か、おかしかったでしょうか?」
いつの間にか隣に来ていたユリウスが、首を傾げている。
アリアは慌てて首を横に振った。
「いいえ。ただ、紙の状態を見ているのに、気づけば“誰かの心”のことを考えていて。……わたくし、やっぱり少し変なのかもしれませんわね」
「変、でしょうか」
ユリウスは、少しの間考えてから、静かに言った。
「僕には、とても自然なことのように思えます。言葉も、本も、人の心から生まれたものですから。似ていて当たり前だと思いますよ」
(……この人、本当に“天然”なの?)
思わず、疑いたくなるほどの言葉の選び方だ。
褒めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、そこにある事実を丁寧に言葉にしているだけ。
それなのに、アリアの胸のどこかが、じんわりと温かくなる。
「それに」
ユリウスは、机の上の本を一冊手にとった。
「紙は、傷んでいても修復できます。……人の心は、もっと難しいのかもしれませんが」
「えぇ。とても」
「でも、誰かがそばで見ていてくれるだけで、少し持ちこたえられることもあると思います」
さりげなく添えられた一文に、アリアは言葉を失った。
——支えられた感覚45。
——涙腺刺激25。
普段なら、こんな数字は即座に切り捨てる。
弱さを自覚した瞬間、そこに蓋をしてしまうのが、アリアのやり方だった。
けれど今は、不思議と、蓋を閉めるのが惜しい。
「……ユリウス様は、どなたかの“そばで見ている人”でいたいのですか?」
つい、そんなことを訊いてしまう。
ユリウスは、少し驚いたように目を瞬き、それから視線を落とした。
「そう、ですね。できれば、そうありたいとは思っています」
「その“誰か”は、もう決まっているのかしら?」
思わず、一歩踏み込んでしまった。
自分でも意外なほど、胸がざわりと揺れる。
ユリウスは、しばらく無言のまま本の背表紙を撫でていた。
沈黙のあいだ、アリアの頭上に、ぐるぐると数字が動き回る。
——後悔度?
——迷い度?
——照れくささ?
けれど結局、そのどれも確かめられないまま——ユリウスは、ごく簡潔に答えた。
「今は、図書館そのものかもしれません」
「図書館?」
「はい。この場所は、色々な人の“居場所”になりますから。誰にとっても、変わらずそこにあってほしいと思うんです」
期待していたような答えではなかったのに、妙に腑に落ちる返事だった。
——誠実度80。
——嘘の気配0。
(わたくしを“特別な誰か”だと言ってほしいなんて……)
そんなの、傲慢だ。
そう言い聞かせながらも、どこかで物足りなさを感じる自分がいる。
(やっぱり、わたくし、少しずつおかしくなっているのかもしれないわ)
最適解からはずれた感情が、じわじわと増えている。
数字に置き換えられない部分が、胸の中で領土を広げている。
*
昼下がり。
アリアが状態確認の仕事にひと区切りつけた頃、閲覧室から小さな騒ぎが聞こえてきた。
「お、おい、泣かせちゃまずいって……!」
「だって、この子、勝手に——」
ユリウスとアリアが顔を見合わせ、そのまま足早に廊下を戻る。
閲覧室の一角では、小さな男の子が目に涙を溜めて立っており、その前で若手司書がオロオロしていた。
男の子の頭上には、「悲しみ60」「恥ずかしさ70」「怒り25」の数字がびっしり。
「ごめんね? ここは走っちゃいけない場所なんだよ」
「……でも」
男の子は、ぎゅっと本を抱きしめたまま、つん、と唇を尖らせる。
——言い分を聞いてほしい度85。
——怒られたショック40。
(あぁ、これは——)
アリアは、息を吸うタイミングも忘れずに、すっと男の子の前にしゃがみ込んだ。
「こんにちは、坊や。わたくし、アリアと申します。お名前を伺ってもいいかしら?」
男の子は鼻をすすりながら、こくんと頷いた。
「……レオン」
「レオン様ね。素敵なお名前ですわ。……レオン様は、どうして走ってしまったのかしら?」
怒るのではなく、理由を訊く。
それだけで、「聞いてもらえた」ことが数字に表れる。
——安心度+20。
——自己主張したい度80。
「だって……」
レオンと名乗った少年は、ぎゅっと胸元の本を抱きしめた。
「この本、続きを早く読みたかったから……。昨日、途中で帰らなきゃいけなくなって、ここで終わってて。だから、はやくここに来たくて……!」
アリアは思わず、ふふ、と笑ってしまいそうになる。
その肩越しに、若手司書の頭上に「困惑70」「罪悪感45」が浮かんでいるのが見えた。
「読みたかったのね、その続き」
「……うん」
「それなら、とっても素敵な理由ですわね」
アリアはそっとレオンの目線に合わせ、にこりと微笑んだ。
「図書館は、走る場所ではないけれど——本を好きでいてくれることを、きっと喜ぶ場所ですわ。だから、次からは“本に会いに来るときの歩き方”で来てくださる?」
「……“本に会いに来るときの歩き方”?」
「えぇ。背筋を伸ばして、胸を少しだけ張って。大切なお友だちに会いに行くみたいに、丁寧に一歩ずつ歩くのですわ」
レオンの頭上の数字が、くるりと形を変える。
——想像してみたい度50。
——素直度65。
「……やってみる」
「ありがとうございます、レオン様。きっと、本も喜びますわ」
アリアが立ち上がると、若手司書の数字も少し落ち着いていた。
「す、すみません、アリア様……」
「いいえ。レオン様の足が速すぎたのでしょう。次からは、ここに小さな目印を置いて、“ここからは静かな歩き方でお願いします”と書いてみては?」
「……なるほど!」
若手司書の頭上に、「学び度75」「助かった度80」が弾ける。
(よし)
アリアは内心で軽くガッツポーズを取った。
数字の流れは、きれいに整った。
そのとき。
「アリア様」
すぐ横から、ユリウスの声がした。
「はい?」
「今の……どうして、あそこまで上手く収められたんですか?」
「え?」
アリアは瞬きをした。
「どうして、と仰いますと?」
「レオンくんが“怒られた”のではなく、“わかってもらえた”と感じているのが、顔を見ていてわかりました。……僕には、そこまでうまく言葉を選べないので」
謙遜ではない、本気の声音だった。
アリアは、「どうして」と言われてしまうと、それが「当然」だった自分とのギャップに戸惑う。
(どうしてって……)
数字が見えるから。
相手が何を求めているのか、どんな言葉であれば一番傷が少なく済むのか、なんとなくわかってしまうから。
でも、それをそのまま言うわけにはいかない。
「少し……人の表情を見ているのが、好きなだけですわ」
アリアは、やんわりと微笑んだ。
「それに、単純ですわね。怒るよりも、“理由を聞く”ほうが、たいていはうまくいきますもの」
「……そうかもしれません」
ユリウスは納得したように頷いた。
でも、その瞳の奥には、まだ何か考え込むような影が宿っている。
(あ)
気づいたときには、遅かった。
彼の頭上には数字が見えない代わりに、その沈黙の濃度だけがはっきりと感じ取れる。
「ユリウス様?」
「いえ……」
ユリウスは少しだけ視線を落とし、それから言った。
「やっぱり、アリア様はすごい方だなと、思いました」
「すごい、だなんて」
アリアは笑って受け流す。
けれど内心では、むず痒いものを感じていた。
(すごいのは、この力よ。わたくしじゃない)
数字がなければ、こんなふうに立ち回ることはできない。
だから、褒められるたびに、ほんの少しだけ罪悪感が生まれる。
(本当は、ずるいのに)
最適解を知っているから選んでいるだけ。
それを、「優しさ」と呼ばれたくはなかった。
しかし、その胸のもやもやをどう言葉にすればいいのか、アリアにはまだわからない。
「……わたくしは、“最適解”を知っているだけですわ」
ぽつりと、かろうじて絞り出した言葉は、それくらいだった。
「最適解、ですか」
「えぇ。もっとも丸くおさまる選択。誰も大きく傷つかずに済むような。人生なんて、それを選び続けていけば、おおむね楽勝ですもの」
自嘲を隠しながら言うと、ユリウスは少しだけ黙り込んだ。
「……僕は」
やがて、彼は静かに口を開いた。
「最適解、というものが、まだよくわかりません」
「まぁ」
「本を守ることも、人を守ることも、全部“正しく”やろうとすると、何かがこぼれ落ちてしまう気がして。だから、つい、自分の中の“これがしたい”を優先してしまうんです」
それは「非効率宣言」のようにも聞こえた。
アリアは思わず、言葉を詰まらせる。
「……それで、困ったことにはなりませんの?」
「なっているのかもしれませんね」
ユリウスは、少し照れたように笑った。
「でも、後悔はしていません」
その笑みは、数字にできないほどまっすぐだった。
(最適解より、“後悔しない”を選ぶ人)
アリアは、初めてそこに、ユリウスという人の輪郭を見た気がした。
(わたくしは、“傷つかない”を選んできたのに)
自分との違いが、くっきりと浮かび上がる。
それは、不思議なほど眩しくて、少し、羨ましい。
閲覧室の喧騒が再び静かになっていく中で、アリアは胸の中で、そっとひとつの数字を書き換えた。
——ユリウス・ノア:
「興味」から「もっと知りたい」へ。
最適解の外側にある、その人の選択を。
これから、もっと見ていたいと思ってしまったのだ。
それが、またひとつの誤差を生むことを知りながら。
老司書長の眉が、もともと細い線をさらに細くした。
アリアは、応接室の椅子の端に品よく腰掛けながら、こくりと頷く。
「はい。もともと読書は好きですし、先日伺ったとき、蔵書のお手入れが大変そうでしたから。もしお役に立てるのなら、少しでも力になりたくて」
——好印象40。
——警戒度22。
——戸惑い33。
司書長の頭上には、そんな数字が並んでいる。
(慎重にいかないと)
アリアは、にっこりと笑顔を深めた。
「もちろん、正式な職員としてではなく、あくまでボランティアとして。わたくしがこちらにいられるのは限られた時間ですし、図書館の規則も尊重いたします」
「は、はぁ……しかし、エルネル家のご令嬢に、そんな雑務をお願いするわけには……」
「雑務だなんて、とんでもない。知識の保管は、この国の宝を守ることですもの。とても崇高なお仕事だと思いますわ」
さらりと甘い言葉を乗せると、司書長の頭上の数字が、少しだけ変化する。
——誇り度+15。
——受け入れ傾き45。
そこへ、控えていたユリウスが口を開いた。
「司書長。蔵書の修復や整理に、人手が必要なのは事実です」
落ち着いた声だが、その中に、ほんの少しだけ真剣な響きが混ざっている。
アリアは横目で彼を見た。
(あら、擁護してくれるの?)
ユリウスの頭上には相変わらず何も浮かばないが、その言葉選びからは、彼なりの意志が見て取れる。
「もちろん、安全面には十分配慮いたします。高いところの本の出し入れや、重い荷物の運搬は僕たちが行いますし、アリア様には、机上での目録整理や、紙の状態確認などをお願いできればと」
「……ふむ」
司書長は白い顎ひげを撫でながら、じっとアリアを見つめた。
数字では測れない沈黙。
けれど、アリアにはその間に、司書長があれこれと思考をめぐらせているのがわかった。
——「貴族の令嬢を受け入れたときの責任」。
——「図書館にとってのメリットとリスク」。
——「若い司書たちの負担が減ること」。
それらは数字よりもむしろ、重さや温度として伝わってくる。
(ここで、背中を押すひと言)
アリアは、ほんの少しだけ姿勢を正した。
「わたくしも、もう子どもではありません。もし何かあれば、自己責任であることも理解しておりますわ。……それに」
一呼吸おいて、ぽつりと本音を混ぜる。
「この場所が、とても好きになってしまったのです。昨日、初めて足を踏み入れたばかりなのに、不思議なくらい落ち着いて……。もし許されるなら、この静けさの中で、少しでもお役に立ちたいのです」
司書長の目が、わずかに柔らかくなった。
——信頼度40。
——受け入れ決定85。
「……そこまで仰るのであれば」
やがて、司書長は深く息を吐いた。
「条件付きで、お受けしましょう。ただし、本格的な修復作業や、危険な薬品を扱う仕事はお任せできません。あくまで補助的な作業に限る。それでよろしいですか?」
「はい、十分ですわ」
アリアは、花がほころぶような笑顔を浮かべた。
ふと横を見ると、ユリウスがほんの少しだけ表情を和らげているのが見える。
やっぱり、数字は出ない。
でも、不思議と「良かったですね」と言われたような気がした。
*
こうして、「心読み令嬢のボランティア勤務」は、翌日から始まった。
最初の仕事は、「紙の状態確認」だった。
「こちらが、状態を見ていただきたい本です」
書庫の一角で、ユリウスが机の上に数冊の本を並べる。
古びた革の装丁、色あせた背表紙。
ページの端は、ところどころ黄ばんだり、欠けたりしている。
「表紙の傷み具合、ページの破れ、インクの滲み。気になる箇所があれば、この表に印をつけてください。修復が必要なものから優先して対応します」
「わかりましたわ」
アリアは袖を少し捲り、慎重に本を開いた。
紙の触り心地は、想像以上に繊細だった。
指先に、ほんの少しざらりとした感触と、薄い粉のようなものが残る。
「力を入れすぎると破れてしまうので、ゆっくりめくってくださいね」
「はい」
素直に頷きながらも、アリアの頭上には小さな数字が浮かんでいる。
——緊張度45。
——慎重度70。
——楽しみ度25。
(数字にしたら、意外と悪くないわね)
やがて、彼女は紙の表面のかすかな波を見分けられるようになっていった。
湿気を含んでいるもの、乾燥しすぎてひび割れかけているもの。
(これって、人の心と同じだわ)
そう気づいたとき、ふと笑いがこみあげた。
「何か、おかしかったでしょうか?」
いつの間にか隣に来ていたユリウスが、首を傾げている。
アリアは慌てて首を横に振った。
「いいえ。ただ、紙の状態を見ているのに、気づけば“誰かの心”のことを考えていて。……わたくし、やっぱり少し変なのかもしれませんわね」
「変、でしょうか」
ユリウスは、少しの間考えてから、静かに言った。
「僕には、とても自然なことのように思えます。言葉も、本も、人の心から生まれたものですから。似ていて当たり前だと思いますよ」
(……この人、本当に“天然”なの?)
思わず、疑いたくなるほどの言葉の選び方だ。
褒めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、そこにある事実を丁寧に言葉にしているだけ。
それなのに、アリアの胸のどこかが、じんわりと温かくなる。
「それに」
ユリウスは、机の上の本を一冊手にとった。
「紙は、傷んでいても修復できます。……人の心は、もっと難しいのかもしれませんが」
「えぇ。とても」
「でも、誰かがそばで見ていてくれるだけで、少し持ちこたえられることもあると思います」
さりげなく添えられた一文に、アリアは言葉を失った。
——支えられた感覚45。
——涙腺刺激25。
普段なら、こんな数字は即座に切り捨てる。
弱さを自覚した瞬間、そこに蓋をしてしまうのが、アリアのやり方だった。
けれど今は、不思議と、蓋を閉めるのが惜しい。
「……ユリウス様は、どなたかの“そばで見ている人”でいたいのですか?」
つい、そんなことを訊いてしまう。
ユリウスは、少し驚いたように目を瞬き、それから視線を落とした。
「そう、ですね。できれば、そうありたいとは思っています」
「その“誰か”は、もう決まっているのかしら?」
思わず、一歩踏み込んでしまった。
自分でも意外なほど、胸がざわりと揺れる。
ユリウスは、しばらく無言のまま本の背表紙を撫でていた。
沈黙のあいだ、アリアの頭上に、ぐるぐると数字が動き回る。
——後悔度?
——迷い度?
——照れくささ?
けれど結局、そのどれも確かめられないまま——ユリウスは、ごく簡潔に答えた。
「今は、図書館そのものかもしれません」
「図書館?」
「はい。この場所は、色々な人の“居場所”になりますから。誰にとっても、変わらずそこにあってほしいと思うんです」
期待していたような答えではなかったのに、妙に腑に落ちる返事だった。
——誠実度80。
——嘘の気配0。
(わたくしを“特別な誰か”だと言ってほしいなんて……)
そんなの、傲慢だ。
そう言い聞かせながらも、どこかで物足りなさを感じる自分がいる。
(やっぱり、わたくし、少しずつおかしくなっているのかもしれないわ)
最適解からはずれた感情が、じわじわと増えている。
数字に置き換えられない部分が、胸の中で領土を広げている。
*
昼下がり。
アリアが状態確認の仕事にひと区切りつけた頃、閲覧室から小さな騒ぎが聞こえてきた。
「お、おい、泣かせちゃまずいって……!」
「だって、この子、勝手に——」
ユリウスとアリアが顔を見合わせ、そのまま足早に廊下を戻る。
閲覧室の一角では、小さな男の子が目に涙を溜めて立っており、その前で若手司書がオロオロしていた。
男の子の頭上には、「悲しみ60」「恥ずかしさ70」「怒り25」の数字がびっしり。
「ごめんね? ここは走っちゃいけない場所なんだよ」
「……でも」
男の子は、ぎゅっと本を抱きしめたまま、つん、と唇を尖らせる。
——言い分を聞いてほしい度85。
——怒られたショック40。
(あぁ、これは——)
アリアは、息を吸うタイミングも忘れずに、すっと男の子の前にしゃがみ込んだ。
「こんにちは、坊や。わたくし、アリアと申します。お名前を伺ってもいいかしら?」
男の子は鼻をすすりながら、こくんと頷いた。
「……レオン」
「レオン様ね。素敵なお名前ですわ。……レオン様は、どうして走ってしまったのかしら?」
怒るのではなく、理由を訊く。
それだけで、「聞いてもらえた」ことが数字に表れる。
——安心度+20。
——自己主張したい度80。
「だって……」
レオンと名乗った少年は、ぎゅっと胸元の本を抱きしめた。
「この本、続きを早く読みたかったから……。昨日、途中で帰らなきゃいけなくなって、ここで終わってて。だから、はやくここに来たくて……!」
アリアは思わず、ふふ、と笑ってしまいそうになる。
その肩越しに、若手司書の頭上に「困惑70」「罪悪感45」が浮かんでいるのが見えた。
「読みたかったのね、その続き」
「……うん」
「それなら、とっても素敵な理由ですわね」
アリアはそっとレオンの目線に合わせ、にこりと微笑んだ。
「図書館は、走る場所ではないけれど——本を好きでいてくれることを、きっと喜ぶ場所ですわ。だから、次からは“本に会いに来るときの歩き方”で来てくださる?」
「……“本に会いに来るときの歩き方”?」
「えぇ。背筋を伸ばして、胸を少しだけ張って。大切なお友だちに会いに行くみたいに、丁寧に一歩ずつ歩くのですわ」
レオンの頭上の数字が、くるりと形を変える。
——想像してみたい度50。
——素直度65。
「……やってみる」
「ありがとうございます、レオン様。きっと、本も喜びますわ」
アリアが立ち上がると、若手司書の数字も少し落ち着いていた。
「す、すみません、アリア様……」
「いいえ。レオン様の足が速すぎたのでしょう。次からは、ここに小さな目印を置いて、“ここからは静かな歩き方でお願いします”と書いてみては?」
「……なるほど!」
若手司書の頭上に、「学び度75」「助かった度80」が弾ける。
(よし)
アリアは内心で軽くガッツポーズを取った。
数字の流れは、きれいに整った。
そのとき。
「アリア様」
すぐ横から、ユリウスの声がした。
「はい?」
「今の……どうして、あそこまで上手く収められたんですか?」
「え?」
アリアは瞬きをした。
「どうして、と仰いますと?」
「レオンくんが“怒られた”のではなく、“わかってもらえた”と感じているのが、顔を見ていてわかりました。……僕には、そこまでうまく言葉を選べないので」
謙遜ではない、本気の声音だった。
アリアは、「どうして」と言われてしまうと、それが「当然」だった自分とのギャップに戸惑う。
(どうしてって……)
数字が見えるから。
相手が何を求めているのか、どんな言葉であれば一番傷が少なく済むのか、なんとなくわかってしまうから。
でも、それをそのまま言うわけにはいかない。
「少し……人の表情を見ているのが、好きなだけですわ」
アリアは、やんわりと微笑んだ。
「それに、単純ですわね。怒るよりも、“理由を聞く”ほうが、たいていはうまくいきますもの」
「……そうかもしれません」
ユリウスは納得したように頷いた。
でも、その瞳の奥には、まだ何か考え込むような影が宿っている。
(あ)
気づいたときには、遅かった。
彼の頭上には数字が見えない代わりに、その沈黙の濃度だけがはっきりと感じ取れる。
「ユリウス様?」
「いえ……」
ユリウスは少しだけ視線を落とし、それから言った。
「やっぱり、アリア様はすごい方だなと、思いました」
「すごい、だなんて」
アリアは笑って受け流す。
けれど内心では、むず痒いものを感じていた。
(すごいのは、この力よ。わたくしじゃない)
数字がなければ、こんなふうに立ち回ることはできない。
だから、褒められるたびに、ほんの少しだけ罪悪感が生まれる。
(本当は、ずるいのに)
最適解を知っているから選んでいるだけ。
それを、「優しさ」と呼ばれたくはなかった。
しかし、その胸のもやもやをどう言葉にすればいいのか、アリアにはまだわからない。
「……わたくしは、“最適解”を知っているだけですわ」
ぽつりと、かろうじて絞り出した言葉は、それくらいだった。
「最適解、ですか」
「えぇ。もっとも丸くおさまる選択。誰も大きく傷つかずに済むような。人生なんて、それを選び続けていけば、おおむね楽勝ですもの」
自嘲を隠しながら言うと、ユリウスは少しだけ黙り込んだ。
「……僕は」
やがて、彼は静かに口を開いた。
「最適解、というものが、まだよくわかりません」
「まぁ」
「本を守ることも、人を守ることも、全部“正しく”やろうとすると、何かがこぼれ落ちてしまう気がして。だから、つい、自分の中の“これがしたい”を優先してしまうんです」
それは「非効率宣言」のようにも聞こえた。
アリアは思わず、言葉を詰まらせる。
「……それで、困ったことにはなりませんの?」
「なっているのかもしれませんね」
ユリウスは、少し照れたように笑った。
「でも、後悔はしていません」
その笑みは、数字にできないほどまっすぐだった。
(最適解より、“後悔しない”を選ぶ人)
アリアは、初めてそこに、ユリウスという人の輪郭を見た気がした。
(わたくしは、“傷つかない”を選んできたのに)
自分との違いが、くっきりと浮かび上がる。
それは、不思議なほど眩しくて、少し、羨ましい。
閲覧室の喧騒が再び静かになっていく中で、アリアは胸の中で、そっとひとつの数字を書き換えた。
——ユリウス・ノア:
「興味」から「もっと知りたい」へ。
最適解の外側にある、その人の選択を。
これから、もっと見ていたいと思ってしまったのだ。
それが、またひとつの誤差を生むことを知りながら。
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