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1話:風船広告が空を占拠する
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朝、役所の塔はいつもより早く目を覚ました。
――正確に言えば、“目を覚まさされる”の方が近い。
鐘楼の上で眠っていた鳩たちが、いっせいに羽音を立てて飛び立つ。塔の窓という窓が、風でぱたぱた鳴る。見上げれば、空が騒がしい。
その騒がしさの正体は、ぱん、と一つ。軽い破裂音。
次に、ぱん、ぱん、ぱん。まるで朝の合図みたいに音が続き――
ふわぁ、と、青空のど真ん中に、巨大な文字が浮かび上がった。
《本日、王都の空にて特別セール》
……いや、空は掲示板じゃない。
役所監査課の窓際で、レオンは目を細めた。窓枠に肘をつき、空を見上げる。その姿勢だけは優雅だが、目つきは完全に職務のそれだ。
「誰が許可を出した」
背後で、同僚が肩をすくめる。
「許可? そんなもの、追いついてませんよ。ここ、王都ですし」
「追いつかせるのが俺の仕事だ」
レオンは窓を開け、顔を外へ出した。甘い匂いは今日はまだ控えめ。代わりに、ゴムと紙の匂いがする。風船の匂い。
空には、ありえない数の風船が浮いていた。
一つ二つではない。百どころでもない。雲より少し下の高さに、ぷかぷかと、ぷかぷかと。まるで空に“屋台”が広がってしまったみたいだ。
しかも、その風船たちが、紐で繋がり合って巨大な文字を作っている。
《にこにこ企画堂 新企画受付中!》
……結局宣伝じゃないか。
レオンが頭痛の予告を受け取ったその瞬間、風が吹いた。
王都の風は、自由だ。
自由な風は、風船も自由にする。
「……来るぞ」
レオンが呟いたときにはもう遅い。
文字の端っこ――「堂」の最後の丸い部分が、ふわりと崩れ、紐がほどけたように揺れた。揺れは波になって文字全体へ伝わり、ぷかぷかしていた風船が、わずかに傾く。
傾いた風船の群れは、次の瞬間。
役所の塔へ向かって、ふわああ、と押し寄せた。
「おい」
レオンは窓から身を乗り出し、空を指差した。誰に言うでもなく、ただ現実に言った。
「おい。こっちに来るな」
現実は返事をしない。代わりに風船が来た。
ふわ。
ふわふわ。
そして――ぐるん。
塔の上部にある装飾の尖った部分に、風船の紐が、まるで恋人の腕みたいに絡みついた。
「……」
レオンは窓を閉め、すぐに扉へ向かった。
「監査官、どこへ」
「現場だ。いつもどおり」
いつもどおり。赴任してまだ日が浅いのに、“いつもどおり”ができてしまっている自分が怖い。
階段を駆け上がる。塔の内部は薄暗く、石の匂いがする。上へ上へ。鐘楼の上、外へ出る扉まで。
扉を開けた瞬間、風が髪を乱した。
風船は、塔の周りをぐるぐると回っていた。絡まった紐を起点に、風船の列が渦を描く。まるで役所の塔が、巨大な風船広告の“支柱”になってしまったみたいだ。
しかも――
「時計が見えない!」
下から叫ぶ声。役所の時計塔が、風船で半分隠れている。
「鳩が怒ってる!」
「そりゃ怒るだろ!」
あちこちで小さな混乱が起きているが、王都の人々はまだ笑っている。笑いながら困っている。これが一番厄介だ。緊急性が伝わりにくい。
レオンは状況を見て、即座に判断した。
切る。……が、ダメだ。風船はただの風船じゃない。もし中に“文字保持用”の軽い魔力が入っていたら、破裂した瞬間に紙吹雪や粉が散る可能性がある。役所の上で散らすわけにはいかない。
つまり、回収。
「ロープを持ってこい!」
レオンの声が塔の上から落ちる。すぐに衛兵が動き、下から太いロープが投げられた。レオンはそれを掴み、腰に回す。結び目を確認。結びは堅牢。彼はこういうことだけは無駄に得意だ。
――そういう仕事をしている。
「監査官、上で何してるの!?」
聞き覚えのある声が、塔の下から弾むように響いた。
レオンが覗き込むと、そこにいたのはミアだった。にこにこ企画堂の看板娘。今日も粉を頬につけている。何かを作っていた証拠だ。証拠が可愛いのが腹立たしい。
ミアは両手を大きく振っている。
「すごい! 空の看板が役所にくっついた!」
「くっついたんじゃない。絡んだ」
「えへへ、やっぱり役所って目立つから! 宣伝に――」
「やめろ」
レオンの声は低いが、風で上手く届かない。ミアはきょとんとし、それでも笑う。
「だって、みんな見てます! ほら、あそこ!」
ミアが指差した先には、確かに人だかりができていた。空を見上げて、拍手している人もいる。わざわざパンを持ってきて“鑑賞会”を始めている老人までいる。
王都は自由だ。本当に自由だ。
レオンは眉間を揉んだ。
「ミア! お前の企画だな!」
「はい! 風船広告です! 空って、使ってないじゃないですか!」
「使う前提じゃないんだよ!」
ツッコミが、空へ吸われる。
ミアは「なるほど!」という顔をした。何がなるほどなんだ。
レオンは腹を決める。
「今から俺が回収する。下は下で、群衆を退かせろ。あと、爆発系の粉、今日は使ってないな」
「今日はキラキラ紙だけです! 食べられるやつ!」
「食べられるものを空から降らせるな!」
レオンはロープを手繰り、塔の外へ身を出した。足場は狭い。風は強い。だが、風船の紐の結び目は塔の装飾にしっかり絡んでいる。絡みすぎている。
まずは紐をほどく。ほどいた瞬間、風船群が一気に風に持っていかれる。だがロープで制御すれば――
「……いける」
レオンは片手で装飾を掴み、もう片手で紐を手繰った。
風船が、ふわり、と揺れる。
その揺れに合わせて、空の文字が少し崩れた。
《にこにこ企画堂》が、一瞬《にこ…企画…》になり、次に《にこにこ、企画、どう?》みたいな間抜けな配置になる。
下から笑い声が上がった。
――笑うな。仕事中だ。
レオンは歯を食いしばり、紐をほどく。
一つ、ほどけた。
二つ、ほどけた。
だが、三つ目で。
風が、意地悪をした。
突然の強風が、風船群を大きく引っ張り、レオンの身体が外へ引かれる。足場が滑る。
「……っ!」
その瞬間、下から甲高い声が飛んだ。
「監査官さん!!」
ミアだった。
レオンの視界の端で、ミアが駆け出すのが見えた。何をする気だ。やめろ。下からどうにかできる状況じゃない。
だが、ミアは止まらなかった。
彼女は塔の入口へ飛び込み、信じられない勢いで階段を駆け上がってきた。
「来るな!」と叫びたいのに、風が声を散らす。レオンはロープを握り直し、体勢を立て直した。ロープが腰に食い込み、痛い。だが――
滑った足が、戻る。
戻った瞬間、レオンは紐を強く引いた。
絡まっていた結び目が、ほどけた。
風船群がふわっと浮き、塔から離れる。
「よし――」
しかし、離れた風船群は、自由な風に乗って、今度は鐘楼の鐘に向かってふわふわと漂い始めた。
鐘に絡んだら、鳴る。鳴ったら、王都の一日が“祭りの開始”として確定する。確定してはいけない。
レオンはロープを引き、風船を制御しようとした。
そのとき――
塔の扉が開いて、ミアが飛び出してきた。
息が切れているのに、目はきらきらしている。
「監査官さん! ロープ、持ちます!」
「持つな! 危ない!」
「でも、落ちそうだった!」
落ちそうだったのは事実だ。だから否定できない。否定できないのが悔しい。
ミアは、レオンの横に立った。足場の狭さを見て、普通なら怖がる。だが、彼女は怖がらない。怖がる前に、風船を見ている。
「わあ……空って、きれい。風船って、ほんとに飛ぶんだ」
「感想を言うな。手を貸せ」
レオンは短く言った。声はいつもより少しだけ硬い。怖かったからだ。自分が、ではない。彼女が。ここに来たことが。
ミアは、はい!と元気よく頷き、ロープの端を掴んだ。
二人で息を合わせる。
レオンが引く。ミアが支える。
風船群が、ふわりと方向を変え、鐘から遠ざかる。
「……今だ。塔の側面に沿わせて下ろす」
「わかりました!」
ミアは、驚くほど素直に従った。こういうときだけ異様に優秀だ。この人、危険の方向が違う。
レオンがロープを少し緩める。ミアがそれを受け、結び目を作る。風船群が、塔の影をすべるように降りていく。
下から歓声が上がった。拍手。王都の人々は、何でもショーにする。
「すごーい! 監査官さん、かっこいい!」
「さすが役所!」
「今日も良い祭りだ!」
――祭りじゃない。事故だ。
レオンが心の中で呟いたとき、ミアが横で、ぽそっと言った。
「監査官さん、ほんとに……守ってくれるんですね」
その言葉に、レオンの指が一瞬止まった。
風船群は、ちょうど地上に届き、衛兵が回収に入る。危機は去った。空は元の青に戻り、役所の塔も役所の塔に戻る。
レオンは、ようやく息を吐いた。
「守ってるんじゃない。仕事だ」
いつもの返し。いつもの線引き。
なのに。
ミアは、まるで宝物をもらったみたいに、目をさらにきらきらさせた。
「仕事って、すごいですね」
「……何がだ」
「だって、危ないのを“危なくない”に変えられるんだもん。わたし、そういうの……好きです」
レオンは、思わず彼女を見た。
粉のついた頬。乱れた髪。息を切らしながら、それでも笑っている。
そして、彼を見上げる目が――
反省してない目じゃなかった。
“信じてる目”だった。
それが妙に胸の奥に残って、レオンは一拍だけ言葉を失った。
だが、監査官は監査官だ。取り戻す。
「ミア」
「はい!」
元気な返事。
「空の通行権を侵害した。浮遊物の回収用ひもも不備だ。申請もない。――是正命令。次やったら、店ごと止める」
ミアは少しだけ口を尖らせた。だが、すぐににこっと笑う。
「はい! 次は、もっと安全にします!」
「次を作るな」
「でも、今の、ちょっと楽しかったですよね?」
「楽しくない」
「えへへ」
楽しくないと言ったのに、ミアは楽しそうだった。
レオンは額を押さえた。頭痛の予告が、確定に変わりつつある。
塔の下では、回収された風船が山になっている。誰かが言った。
「これ、屋台にできるね!」
王都は自由だ。本当に自由だ。
レオンはロープをほどきながら、ため息をついた。
「……報告書が長くなる」
それを聞いて、ミアが顔を上げた。
「わたし、手伝います! 文字、きれいに書けます!」
違う。そういう意味じゃない。
レオンは言い返そうとして、ふと、彼女の手元を見た。
ロープを握っていた指が、少し赤くなっている。痛かったのだろう。けれど、彼女は痛い顔をしない。
監査官の仕事のせいで、彼女に傷を作るのは――
いや、違う。これは彼女が勝手に登ってきた――
ぐるぐると、言い訳が頭の中で回る。
レオンはその全部を飲み込み、短く言った。
「……次からは、登ってくるな」
「はい!」
即答。
「でも、監査官さんが落ちそうだったら……」
「落ちない」
「落ちそうだったら、来ます!」
ミアは胸を張った。
レオンは、負けた気がした。
風船事故の始末は終わった。空は静かになった。なのに彼の心だけ、ぷかぷかと落ち着かない。
――事故るたびに恋が進む。
その言葉を、誰かがどこかで笑いながら言っていた気がする。
レオンは、今日の報告書の一行目を、心の中で書き始めた。
『本日、空が占拠された。』
そして二行目。
『なお、企画屋の看板娘は反省していないように見えるが――』
そこまで書いて、レオンは言葉を止めた。
続きが、まだ、自分でも分からなかった。
――正確に言えば、“目を覚まさされる”の方が近い。
鐘楼の上で眠っていた鳩たちが、いっせいに羽音を立てて飛び立つ。塔の窓という窓が、風でぱたぱた鳴る。見上げれば、空が騒がしい。
その騒がしさの正体は、ぱん、と一つ。軽い破裂音。
次に、ぱん、ぱん、ぱん。まるで朝の合図みたいに音が続き――
ふわぁ、と、青空のど真ん中に、巨大な文字が浮かび上がった。
《本日、王都の空にて特別セール》
……いや、空は掲示板じゃない。
役所監査課の窓際で、レオンは目を細めた。窓枠に肘をつき、空を見上げる。その姿勢だけは優雅だが、目つきは完全に職務のそれだ。
「誰が許可を出した」
背後で、同僚が肩をすくめる。
「許可? そんなもの、追いついてませんよ。ここ、王都ですし」
「追いつかせるのが俺の仕事だ」
レオンは窓を開け、顔を外へ出した。甘い匂いは今日はまだ控えめ。代わりに、ゴムと紙の匂いがする。風船の匂い。
空には、ありえない数の風船が浮いていた。
一つ二つではない。百どころでもない。雲より少し下の高さに、ぷかぷかと、ぷかぷかと。まるで空に“屋台”が広がってしまったみたいだ。
しかも、その風船たちが、紐で繋がり合って巨大な文字を作っている。
《にこにこ企画堂 新企画受付中!》
……結局宣伝じゃないか。
レオンが頭痛の予告を受け取ったその瞬間、風が吹いた。
王都の風は、自由だ。
自由な風は、風船も自由にする。
「……来るぞ」
レオンが呟いたときにはもう遅い。
文字の端っこ――「堂」の最後の丸い部分が、ふわりと崩れ、紐がほどけたように揺れた。揺れは波になって文字全体へ伝わり、ぷかぷかしていた風船が、わずかに傾く。
傾いた風船の群れは、次の瞬間。
役所の塔へ向かって、ふわああ、と押し寄せた。
「おい」
レオンは窓から身を乗り出し、空を指差した。誰に言うでもなく、ただ現実に言った。
「おい。こっちに来るな」
現実は返事をしない。代わりに風船が来た。
ふわ。
ふわふわ。
そして――ぐるん。
塔の上部にある装飾の尖った部分に、風船の紐が、まるで恋人の腕みたいに絡みついた。
「……」
レオンは窓を閉め、すぐに扉へ向かった。
「監査官、どこへ」
「現場だ。いつもどおり」
いつもどおり。赴任してまだ日が浅いのに、“いつもどおり”ができてしまっている自分が怖い。
階段を駆け上がる。塔の内部は薄暗く、石の匂いがする。上へ上へ。鐘楼の上、外へ出る扉まで。
扉を開けた瞬間、風が髪を乱した。
風船は、塔の周りをぐるぐると回っていた。絡まった紐を起点に、風船の列が渦を描く。まるで役所の塔が、巨大な風船広告の“支柱”になってしまったみたいだ。
しかも――
「時計が見えない!」
下から叫ぶ声。役所の時計塔が、風船で半分隠れている。
「鳩が怒ってる!」
「そりゃ怒るだろ!」
あちこちで小さな混乱が起きているが、王都の人々はまだ笑っている。笑いながら困っている。これが一番厄介だ。緊急性が伝わりにくい。
レオンは状況を見て、即座に判断した。
切る。……が、ダメだ。風船はただの風船じゃない。もし中に“文字保持用”の軽い魔力が入っていたら、破裂した瞬間に紙吹雪や粉が散る可能性がある。役所の上で散らすわけにはいかない。
つまり、回収。
「ロープを持ってこい!」
レオンの声が塔の上から落ちる。すぐに衛兵が動き、下から太いロープが投げられた。レオンはそれを掴み、腰に回す。結び目を確認。結びは堅牢。彼はこういうことだけは無駄に得意だ。
――そういう仕事をしている。
「監査官、上で何してるの!?」
聞き覚えのある声が、塔の下から弾むように響いた。
レオンが覗き込むと、そこにいたのはミアだった。にこにこ企画堂の看板娘。今日も粉を頬につけている。何かを作っていた証拠だ。証拠が可愛いのが腹立たしい。
ミアは両手を大きく振っている。
「すごい! 空の看板が役所にくっついた!」
「くっついたんじゃない。絡んだ」
「えへへ、やっぱり役所って目立つから! 宣伝に――」
「やめろ」
レオンの声は低いが、風で上手く届かない。ミアはきょとんとし、それでも笑う。
「だって、みんな見てます! ほら、あそこ!」
ミアが指差した先には、確かに人だかりができていた。空を見上げて、拍手している人もいる。わざわざパンを持ってきて“鑑賞会”を始めている老人までいる。
王都は自由だ。本当に自由だ。
レオンは眉間を揉んだ。
「ミア! お前の企画だな!」
「はい! 風船広告です! 空って、使ってないじゃないですか!」
「使う前提じゃないんだよ!」
ツッコミが、空へ吸われる。
ミアは「なるほど!」という顔をした。何がなるほどなんだ。
レオンは腹を決める。
「今から俺が回収する。下は下で、群衆を退かせろ。あと、爆発系の粉、今日は使ってないな」
「今日はキラキラ紙だけです! 食べられるやつ!」
「食べられるものを空から降らせるな!」
レオンはロープを手繰り、塔の外へ身を出した。足場は狭い。風は強い。だが、風船の紐の結び目は塔の装飾にしっかり絡んでいる。絡みすぎている。
まずは紐をほどく。ほどいた瞬間、風船群が一気に風に持っていかれる。だがロープで制御すれば――
「……いける」
レオンは片手で装飾を掴み、もう片手で紐を手繰った。
風船が、ふわり、と揺れる。
その揺れに合わせて、空の文字が少し崩れた。
《にこにこ企画堂》が、一瞬《にこ…企画…》になり、次に《にこにこ、企画、どう?》みたいな間抜けな配置になる。
下から笑い声が上がった。
――笑うな。仕事中だ。
レオンは歯を食いしばり、紐をほどく。
一つ、ほどけた。
二つ、ほどけた。
だが、三つ目で。
風が、意地悪をした。
突然の強風が、風船群を大きく引っ張り、レオンの身体が外へ引かれる。足場が滑る。
「……っ!」
その瞬間、下から甲高い声が飛んだ。
「監査官さん!!」
ミアだった。
レオンの視界の端で、ミアが駆け出すのが見えた。何をする気だ。やめろ。下からどうにかできる状況じゃない。
だが、ミアは止まらなかった。
彼女は塔の入口へ飛び込み、信じられない勢いで階段を駆け上がってきた。
「来るな!」と叫びたいのに、風が声を散らす。レオンはロープを握り直し、体勢を立て直した。ロープが腰に食い込み、痛い。だが――
滑った足が、戻る。
戻った瞬間、レオンは紐を強く引いた。
絡まっていた結び目が、ほどけた。
風船群がふわっと浮き、塔から離れる。
「よし――」
しかし、離れた風船群は、自由な風に乗って、今度は鐘楼の鐘に向かってふわふわと漂い始めた。
鐘に絡んだら、鳴る。鳴ったら、王都の一日が“祭りの開始”として確定する。確定してはいけない。
レオンはロープを引き、風船を制御しようとした。
そのとき――
塔の扉が開いて、ミアが飛び出してきた。
息が切れているのに、目はきらきらしている。
「監査官さん! ロープ、持ちます!」
「持つな! 危ない!」
「でも、落ちそうだった!」
落ちそうだったのは事実だ。だから否定できない。否定できないのが悔しい。
ミアは、レオンの横に立った。足場の狭さを見て、普通なら怖がる。だが、彼女は怖がらない。怖がる前に、風船を見ている。
「わあ……空って、きれい。風船って、ほんとに飛ぶんだ」
「感想を言うな。手を貸せ」
レオンは短く言った。声はいつもより少しだけ硬い。怖かったからだ。自分が、ではない。彼女が。ここに来たことが。
ミアは、はい!と元気よく頷き、ロープの端を掴んだ。
二人で息を合わせる。
レオンが引く。ミアが支える。
風船群が、ふわりと方向を変え、鐘から遠ざかる。
「……今だ。塔の側面に沿わせて下ろす」
「わかりました!」
ミアは、驚くほど素直に従った。こういうときだけ異様に優秀だ。この人、危険の方向が違う。
レオンがロープを少し緩める。ミアがそれを受け、結び目を作る。風船群が、塔の影をすべるように降りていく。
下から歓声が上がった。拍手。王都の人々は、何でもショーにする。
「すごーい! 監査官さん、かっこいい!」
「さすが役所!」
「今日も良い祭りだ!」
――祭りじゃない。事故だ。
レオンが心の中で呟いたとき、ミアが横で、ぽそっと言った。
「監査官さん、ほんとに……守ってくれるんですね」
その言葉に、レオンの指が一瞬止まった。
風船群は、ちょうど地上に届き、衛兵が回収に入る。危機は去った。空は元の青に戻り、役所の塔も役所の塔に戻る。
レオンは、ようやく息を吐いた。
「守ってるんじゃない。仕事だ」
いつもの返し。いつもの線引き。
なのに。
ミアは、まるで宝物をもらったみたいに、目をさらにきらきらさせた。
「仕事って、すごいですね」
「……何がだ」
「だって、危ないのを“危なくない”に変えられるんだもん。わたし、そういうの……好きです」
レオンは、思わず彼女を見た。
粉のついた頬。乱れた髪。息を切らしながら、それでも笑っている。
そして、彼を見上げる目が――
反省してない目じゃなかった。
“信じてる目”だった。
それが妙に胸の奥に残って、レオンは一拍だけ言葉を失った。
だが、監査官は監査官だ。取り戻す。
「ミア」
「はい!」
元気な返事。
「空の通行権を侵害した。浮遊物の回収用ひもも不備だ。申請もない。――是正命令。次やったら、店ごと止める」
ミアは少しだけ口を尖らせた。だが、すぐににこっと笑う。
「はい! 次は、もっと安全にします!」
「次を作るな」
「でも、今の、ちょっと楽しかったですよね?」
「楽しくない」
「えへへ」
楽しくないと言ったのに、ミアは楽しそうだった。
レオンは額を押さえた。頭痛の予告が、確定に変わりつつある。
塔の下では、回収された風船が山になっている。誰かが言った。
「これ、屋台にできるね!」
王都は自由だ。本当に自由だ。
レオンはロープをほどきながら、ため息をついた。
「……報告書が長くなる」
それを聞いて、ミアが顔を上げた。
「わたし、手伝います! 文字、きれいに書けます!」
違う。そういう意味じゃない。
レオンは言い返そうとして、ふと、彼女の手元を見た。
ロープを握っていた指が、少し赤くなっている。痛かったのだろう。けれど、彼女は痛い顔をしない。
監査官の仕事のせいで、彼女に傷を作るのは――
いや、違う。これは彼女が勝手に登ってきた――
ぐるぐると、言い訳が頭の中で回る。
レオンはその全部を飲み込み、短く言った。
「……次からは、登ってくるな」
「はい!」
即答。
「でも、監査官さんが落ちそうだったら……」
「落ちない」
「落ちそうだったら、来ます!」
ミアは胸を張った。
レオンは、負けた気がした。
風船事故の始末は終わった。空は静かになった。なのに彼の心だけ、ぷかぷかと落ち着かない。
――事故るたびに恋が進む。
その言葉を、誰かがどこかで笑いながら言っていた気がする。
レオンは、今日の報告書の一行目を、心の中で書き始めた。
『本日、空が占拠された。』
そして二行目。
『なお、企画屋の看板娘は反省していないように見えるが――』
そこまで書いて、レオンは言葉を止めた。
続きが、まだ、自分でも分からなかった。
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