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2話:屋台の香りが強すぎて人が列を離れない
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その日、王都の空気は――甘かった。
いつもの甘さではない。屋台の焼き菓子や、果実酒(もちろん子どもは飲めないやつ)の匂いが混ざった、祭りの“普通の甘さ”とも違う。
もっと、ずるい甘さだ。
ふわ、と鼻に触れた瞬間、頭の中に「しあわせ」という文字が浮かぶような匂い。
しかも、その匂いが、やたらと“筋が良い”。
鼻先を撫でるだけじゃない。人を歩かせる。人を並ばせる。人を待たせる。
役所監査課の廊下を歩いていたレオンは、ふと足を止めた。
「……ん」
匂いが、ここまで来ている。
しかも、胸の奥が、ほんの少しゆるむ。いつもの眉間の力が抜ける。脳が「まあ、今日くらいいいか」と言い始める。
――いや、よくない。
レオンは自分の顔を両手で軽く叩いた。監査官にとって、匂いで機嫌が良くなるのは危険信号だ。可愛い魔法ほど危険だ。風船で学んだ。
「監査官、顔叩いてます?」
「……気のせいだ」
同僚の視線を無視し、レオンは窓へ近づく。
通りを見下ろすと、異変が一目で分かった。
人が、動いていない。
列ができているのではない。列が“固定”されている。
大通りの真ん中に、屋台が一つ。いや、屋台というより、屋台っぽい小さな家。看板には、丸い文字でこうある。
《ほっぺが落ちる焼き菓子 にこにこ香彩堂》
……香彩堂?
レオンは嫌な予感を握りしめた。
その屋台の前から、長い列が伸びている。列は曲がり、曲がり、道を塞ぎ、ついには交差点を占拠して、馬車の通行まで止めている。
馬車の御者が困っているのに、列の人々は困っていない。
むしろ、にこにこしている。
肩を寄せ合って、ふわふわした顔で待っている。
「……まずい」
レオンは手帳を掴み、階段を下りた。現場へ。いつものとおり。もう、完全に“いつものとおり”になっている。
現場に近づくほど、匂いは濃くなった。
甘くて、あたたかい。焦げていないのに香ばしい。ミルクとバターと、蜂蜜と、焼きたてのパンのような――いや、パンよりももっと“心の隙間”に入り込む匂い。
人が並ぶ理由が分かる。分かりすぎて、腹が立つ。
レオンは列の端へ行き、通行を塞いでいることを確認した。
そして、列の中の人々に声をかけた。
「すみません。道が塞がっています。少しずつ右へ寄って――」
「はい……」
返事はする。素直に頷く。なのに、足が動かない。
動かないというより、“動かしたくない”顔をしている。
「もうすぐ焼き上がるんです……」
「ここ、幸せの場所なんです……」
「鼻が、天国……」
天国じゃない。道路だ。
レオンは手帳に書いた。
『誘導香の疑い。通行妨害。列固定現象。』
固定現象、って何だ。条例にない言葉を書くな。だが他に表現がない。
レオンは深く息を吸った。
匂いが肺に入った。
……あ、だめだ。
胸の奥が、ふわっと軽くなる。肩が落ちる。全身から力が抜ける。
「……」
レオンは一歩、列の方向へ踏み出してしまった。
踏み出してしまってから、気づく。
――並ぶな。
監査官が列に並ぶな。
レオンはぐっと踏みとどまり、視線を上げた。
屋台の前に、見覚えのあるエプロン姿があった。
ミア。
案の定だ。
彼女は、屋台の中で忙しそうに手を動かしている。焼き型を並べ、粉をふり、香りの瓶を開け――瓶を開けるたび、空気が一段甘くなる。
そして、屋台の横にはオーナーがいた。
腕を組み、満足そうに頷いている。背中には「祭りは大きいほどいい」と書かれた布がなぜか縫い付けられている。誰が縫った。
レオンは、列をかき分けて屋台の前へ進んだ。
進むたびに、列の人が「どうぞ」と道を開けてくれる。みんな優しい。優しいのが怖い。
屋台の前に着くと、ミアが顔を上げた。
「監査官さん! いらっしゃいませ! 今日は“香りの焼き菓子”です!」
目がきらきら。頬もきらきら。粉のせいで。
レオンは言う。
「……列が動かない」
「はい! すごいでしょう!」
「すごくない」
ミアは首を傾げた。
「でも、みんな幸せそうですよ?」
「幸せそうだから問題なんだ」
ミアの表情が「どういうこと?」になった。
レオンは、屋台の横を指差した。
「道が塞がってる。馬車が通れない。救急車が――」
「救急車?」
「救護車だ。王都にもあるだろ」
「あっ……」
ミアの眉が、ほんの少しだけ寄った。珍しい。反省の兆し。レオンはそこを逃さない。
「何を使った」
「えっと……焼き菓子の香りです」
「それは分かる。香りの“強度”だ」
ミアは、屋台の棚の上に置かれた瓶を指差した。
透明な瓶。中に、淡い金色の液体。
ラベルに、丸い字で書かれている。
《誘導香:合法ギリギリ》
……自分で書くな。
レオンは目を閉じた。頭痛が確定した。
「合法ギリギリって何だ」
「合法のギリギリです!」
「説明になってない」
オーナーが横から口を挟む。
「いやあ、監査官。よく来た! これはな、“香りで人を迷わせず導く”画期的な企画なのだ! 列も整然! 誰も争わない! 平和!」
「平和のせいで通行不能なんだよ!」
レオンの声が上ずった。上ずった瞬間、屋台の中から、焼きたての香りがふわりと出た。
――ふわり。
鼻が、勝手に吸う。胸が勝手にゆるむ。
レオンは、一瞬だけ、言葉を忘れた。
目の前の焼き菓子は、黄金色だ。表面がきらりと光っている。焦げていないのに香ばしい。たぶん、蜂蜜。たぶん、バター。たぶん、人生に必要なやつ。
ミアがトレーを差し出した。
「焼き上がりました! 監査官さんも、ひとつ……味見、します?」
“味見”という言葉が、ここまで甘いとは思わなかった。
レオンの手が、動きかける。
動きかけて、止まる。
監査官は、味見で買収されない。
……買収じゃない。これは確認だ。安全確認。味の安全確認。匂いの安全確認。違反の証拠採取。
レオンの頭の中で、言い訳の会議が始まり、全会一致で可決された。
彼は焼き菓子を一つ、取った。
ミアの目が、ぱあっと明るくなる。
「わあ!」
「これは業務だ」
「はい! 業務、大事です!」
業務で焼き菓子を食べる監査官がどこにいる。いるかもしれない。王都なら。
レオンは一口かじった。
……負けた。
いや、負けたというか、勝てる要素がない。
香りが口の中で広がり、舌の上でほどけて、胸の奥が、ふわっと溶けた。眉間の皺が勝手にほどける。肩が落ちる。視界が少し優しくなる。
「……」
レオンは咀嚼しながら、絶対に表情を変えないように努力した。
だが、ミアは見逃さない。
「おいしい顔してます」
「してない」
「してます」
「してない」
言い合いをしている間に、列の人々がざわざわし始めた。
「監査官さんも食べた!」
「じゃあ安全!」
「最高!」
「もっと並ぼう!」
並ぶな。
レオンは急いで本題に戻った。
「ミア。香りの強度を下げろ。誘導香は――」
「合法ギリギリですよ?」
「ギリギリをやめろ。道を空けろ。列を“流す”んだ。今すぐ」
ミアは唇を尖らせた。けれど、焼き菓子を見て、列を見て、馬車を見て――最後に、レオンの目を見た。
「……わかりました」
珍しく、素直だった。
そして、ミアは屋台の奥から小さなスイッチのついた箱を取り出した。箱にはこう書かれている。
《香り強度:MAX》
また自分で書くな。
ミアはスイッチを、ちょこん、と下げた。
《MAX》が、《にこにこ》になった。
……基準が曖昧すぎる。
しかし。
次の瞬間、空気が変わった。
甘さは残る。でも、人を引っ張る力が弱まる。鼻が喜ぶけれど、足が止まらない程度。ちょうどいい“祭りの匂い”になる。
列の人々が、ふわっと現実に戻ったように瞬きをした。
「あれ……道、塞いでた?」
「ほんとだ、馬車止まってた」
「すみません!」
人が動き出す。道が少しずつ空く。救護車も通れるようになる。流れる。街が流れる。
レオンはほっとした。ほっとした瞬間、また香りが鼻をくすぐる。
――あ、やっぱり好きだ。匂い。
好きだと思ってしまった自分に腹が立つ。だが腹が立つほど、心が柔らかい。匂いって恐ろしい。
レオンは、屋台の横に立つオーナーを睨んだ。
「次は事前申請しろ」
「おお、申請か! 良い! 祭りの申請は大きいほど――」
「大きいほどじゃない。細かいほどだ」
ミアが横で、手を挙げた。
「申請書、わたし書きます! 文字きれいです!」
「……それは知ってる」
風船の報告書の字が異様に整っていたのを思い出す。腹が立つほど読みやすかった。
レオンは手帳を開き、短く言った。
「で、これは違反だ」
「はい……」
「だが――」
言いかけて、レオンは一瞬迷った。
“香りで幸せになってしまった”という事実を、監査官として記録するべきか。
いや、するべきではない。公文書に載せるな。絶対に載せるな。自分の尊厳のために。
レオンは咳払いをして、言葉を変えた。
「……香りは、危険だ。人を止める。だから、使い方を間違えるな」
ミアは、じっとレオンを見た。
「監査官さん、今日……優しいですね」
「優しくない」
「優しいです。香り、好きなんでしょう?」
レオンの頬が、ほんの少し熱くなった。
「好きじゃない」
「じゃあ、なんでさっき、眉間の皺が消えたんですか?」
「……消えてない」
「消えてました。ふわって」
ミアが、自分の頬を両手で包んで“ふわ”の顔をして見せる。
それが、可愛すぎて、レオンは負けたくなった。
負けたくないのに、もう負けている。
レオンは焼き菓子をもう一つ取った。取ってしまった。業務だ。業務の延長だ。
ミアの目が、星みたいに光った。
「監査官さん、負けましたね」
「負けてない」
「負けです。香りに負けです」
レオンは、焼き菓子を口に入れたまま、ぼそっと言った。
「……報告書には書かない」
ミアはくすっと笑った。
「じゃあ、わたしの心の報告書に書いておきます」
「そんなものは提出しなくていい」
「提出します。監査官さんのところに」
そう言って、ミアは胸に手を当てて、真面目な顔をした。
「本日、監査官さんは香りで幸せになりました。以上!」
列の向こうで、誰かが拍手した。
王都は自由だ。本当に自由だ。
レオンはため息をついた。ため息が、甘い匂いと混ざって、少しだけ優しくなった気がした。
――事故るたびに恋が進む。
今日は爆発じゃない。風船でもない。
ただ、匂いで負けただけ。
それが悔しくて、でも――
なぜか、少しだけ嬉しかった。
いつもの甘さではない。屋台の焼き菓子や、果実酒(もちろん子どもは飲めないやつ)の匂いが混ざった、祭りの“普通の甘さ”とも違う。
もっと、ずるい甘さだ。
ふわ、と鼻に触れた瞬間、頭の中に「しあわせ」という文字が浮かぶような匂い。
しかも、その匂いが、やたらと“筋が良い”。
鼻先を撫でるだけじゃない。人を歩かせる。人を並ばせる。人を待たせる。
役所監査課の廊下を歩いていたレオンは、ふと足を止めた。
「……ん」
匂いが、ここまで来ている。
しかも、胸の奥が、ほんの少しゆるむ。いつもの眉間の力が抜ける。脳が「まあ、今日くらいいいか」と言い始める。
――いや、よくない。
レオンは自分の顔を両手で軽く叩いた。監査官にとって、匂いで機嫌が良くなるのは危険信号だ。可愛い魔法ほど危険だ。風船で学んだ。
「監査官、顔叩いてます?」
「……気のせいだ」
同僚の視線を無視し、レオンは窓へ近づく。
通りを見下ろすと、異変が一目で分かった。
人が、動いていない。
列ができているのではない。列が“固定”されている。
大通りの真ん中に、屋台が一つ。いや、屋台というより、屋台っぽい小さな家。看板には、丸い文字でこうある。
《ほっぺが落ちる焼き菓子 にこにこ香彩堂》
……香彩堂?
レオンは嫌な予感を握りしめた。
その屋台の前から、長い列が伸びている。列は曲がり、曲がり、道を塞ぎ、ついには交差点を占拠して、馬車の通行まで止めている。
馬車の御者が困っているのに、列の人々は困っていない。
むしろ、にこにこしている。
肩を寄せ合って、ふわふわした顔で待っている。
「……まずい」
レオンは手帳を掴み、階段を下りた。現場へ。いつものとおり。もう、完全に“いつものとおり”になっている。
現場に近づくほど、匂いは濃くなった。
甘くて、あたたかい。焦げていないのに香ばしい。ミルクとバターと、蜂蜜と、焼きたてのパンのような――いや、パンよりももっと“心の隙間”に入り込む匂い。
人が並ぶ理由が分かる。分かりすぎて、腹が立つ。
レオンは列の端へ行き、通行を塞いでいることを確認した。
そして、列の中の人々に声をかけた。
「すみません。道が塞がっています。少しずつ右へ寄って――」
「はい……」
返事はする。素直に頷く。なのに、足が動かない。
動かないというより、“動かしたくない”顔をしている。
「もうすぐ焼き上がるんです……」
「ここ、幸せの場所なんです……」
「鼻が、天国……」
天国じゃない。道路だ。
レオンは手帳に書いた。
『誘導香の疑い。通行妨害。列固定現象。』
固定現象、って何だ。条例にない言葉を書くな。だが他に表現がない。
レオンは深く息を吸った。
匂いが肺に入った。
……あ、だめだ。
胸の奥が、ふわっと軽くなる。肩が落ちる。全身から力が抜ける。
「……」
レオンは一歩、列の方向へ踏み出してしまった。
踏み出してしまってから、気づく。
――並ぶな。
監査官が列に並ぶな。
レオンはぐっと踏みとどまり、視線を上げた。
屋台の前に、見覚えのあるエプロン姿があった。
ミア。
案の定だ。
彼女は、屋台の中で忙しそうに手を動かしている。焼き型を並べ、粉をふり、香りの瓶を開け――瓶を開けるたび、空気が一段甘くなる。
そして、屋台の横にはオーナーがいた。
腕を組み、満足そうに頷いている。背中には「祭りは大きいほどいい」と書かれた布がなぜか縫い付けられている。誰が縫った。
レオンは、列をかき分けて屋台の前へ進んだ。
進むたびに、列の人が「どうぞ」と道を開けてくれる。みんな優しい。優しいのが怖い。
屋台の前に着くと、ミアが顔を上げた。
「監査官さん! いらっしゃいませ! 今日は“香りの焼き菓子”です!」
目がきらきら。頬もきらきら。粉のせいで。
レオンは言う。
「……列が動かない」
「はい! すごいでしょう!」
「すごくない」
ミアは首を傾げた。
「でも、みんな幸せそうですよ?」
「幸せそうだから問題なんだ」
ミアの表情が「どういうこと?」になった。
レオンは、屋台の横を指差した。
「道が塞がってる。馬車が通れない。救急車が――」
「救急車?」
「救護車だ。王都にもあるだろ」
「あっ……」
ミアの眉が、ほんの少しだけ寄った。珍しい。反省の兆し。レオンはそこを逃さない。
「何を使った」
「えっと……焼き菓子の香りです」
「それは分かる。香りの“強度”だ」
ミアは、屋台の棚の上に置かれた瓶を指差した。
透明な瓶。中に、淡い金色の液体。
ラベルに、丸い字で書かれている。
《誘導香:合法ギリギリ》
……自分で書くな。
レオンは目を閉じた。頭痛が確定した。
「合法ギリギリって何だ」
「合法のギリギリです!」
「説明になってない」
オーナーが横から口を挟む。
「いやあ、監査官。よく来た! これはな、“香りで人を迷わせず導く”画期的な企画なのだ! 列も整然! 誰も争わない! 平和!」
「平和のせいで通行不能なんだよ!」
レオンの声が上ずった。上ずった瞬間、屋台の中から、焼きたての香りがふわりと出た。
――ふわり。
鼻が、勝手に吸う。胸が勝手にゆるむ。
レオンは、一瞬だけ、言葉を忘れた。
目の前の焼き菓子は、黄金色だ。表面がきらりと光っている。焦げていないのに香ばしい。たぶん、蜂蜜。たぶん、バター。たぶん、人生に必要なやつ。
ミアがトレーを差し出した。
「焼き上がりました! 監査官さんも、ひとつ……味見、します?」
“味見”という言葉が、ここまで甘いとは思わなかった。
レオンの手が、動きかける。
動きかけて、止まる。
監査官は、味見で買収されない。
……買収じゃない。これは確認だ。安全確認。味の安全確認。匂いの安全確認。違反の証拠採取。
レオンの頭の中で、言い訳の会議が始まり、全会一致で可決された。
彼は焼き菓子を一つ、取った。
ミアの目が、ぱあっと明るくなる。
「わあ!」
「これは業務だ」
「はい! 業務、大事です!」
業務で焼き菓子を食べる監査官がどこにいる。いるかもしれない。王都なら。
レオンは一口かじった。
……負けた。
いや、負けたというか、勝てる要素がない。
香りが口の中で広がり、舌の上でほどけて、胸の奥が、ふわっと溶けた。眉間の皺が勝手にほどける。肩が落ちる。視界が少し優しくなる。
「……」
レオンは咀嚼しながら、絶対に表情を変えないように努力した。
だが、ミアは見逃さない。
「おいしい顔してます」
「してない」
「してます」
「してない」
言い合いをしている間に、列の人々がざわざわし始めた。
「監査官さんも食べた!」
「じゃあ安全!」
「最高!」
「もっと並ぼう!」
並ぶな。
レオンは急いで本題に戻った。
「ミア。香りの強度を下げろ。誘導香は――」
「合法ギリギリですよ?」
「ギリギリをやめろ。道を空けろ。列を“流す”んだ。今すぐ」
ミアは唇を尖らせた。けれど、焼き菓子を見て、列を見て、馬車を見て――最後に、レオンの目を見た。
「……わかりました」
珍しく、素直だった。
そして、ミアは屋台の奥から小さなスイッチのついた箱を取り出した。箱にはこう書かれている。
《香り強度:MAX》
また自分で書くな。
ミアはスイッチを、ちょこん、と下げた。
《MAX》が、《にこにこ》になった。
……基準が曖昧すぎる。
しかし。
次の瞬間、空気が変わった。
甘さは残る。でも、人を引っ張る力が弱まる。鼻が喜ぶけれど、足が止まらない程度。ちょうどいい“祭りの匂い”になる。
列の人々が、ふわっと現実に戻ったように瞬きをした。
「あれ……道、塞いでた?」
「ほんとだ、馬車止まってた」
「すみません!」
人が動き出す。道が少しずつ空く。救護車も通れるようになる。流れる。街が流れる。
レオンはほっとした。ほっとした瞬間、また香りが鼻をくすぐる。
――あ、やっぱり好きだ。匂い。
好きだと思ってしまった自分に腹が立つ。だが腹が立つほど、心が柔らかい。匂いって恐ろしい。
レオンは、屋台の横に立つオーナーを睨んだ。
「次は事前申請しろ」
「おお、申請か! 良い! 祭りの申請は大きいほど――」
「大きいほどじゃない。細かいほどだ」
ミアが横で、手を挙げた。
「申請書、わたし書きます! 文字きれいです!」
「……それは知ってる」
風船の報告書の字が異様に整っていたのを思い出す。腹が立つほど読みやすかった。
レオンは手帳を開き、短く言った。
「で、これは違反だ」
「はい……」
「だが――」
言いかけて、レオンは一瞬迷った。
“香りで幸せになってしまった”という事実を、監査官として記録するべきか。
いや、するべきではない。公文書に載せるな。絶対に載せるな。自分の尊厳のために。
レオンは咳払いをして、言葉を変えた。
「……香りは、危険だ。人を止める。だから、使い方を間違えるな」
ミアは、じっとレオンを見た。
「監査官さん、今日……優しいですね」
「優しくない」
「優しいです。香り、好きなんでしょう?」
レオンの頬が、ほんの少し熱くなった。
「好きじゃない」
「じゃあ、なんでさっき、眉間の皺が消えたんですか?」
「……消えてない」
「消えてました。ふわって」
ミアが、自分の頬を両手で包んで“ふわ”の顔をして見せる。
それが、可愛すぎて、レオンは負けたくなった。
負けたくないのに、もう負けている。
レオンは焼き菓子をもう一つ取った。取ってしまった。業務だ。業務の延長だ。
ミアの目が、星みたいに光った。
「監査官さん、負けましたね」
「負けてない」
「負けです。香りに負けです」
レオンは、焼き菓子を口に入れたまま、ぼそっと言った。
「……報告書には書かない」
ミアはくすっと笑った。
「じゃあ、わたしの心の報告書に書いておきます」
「そんなものは提出しなくていい」
「提出します。監査官さんのところに」
そう言って、ミアは胸に手を当てて、真面目な顔をした。
「本日、監査官さんは香りで幸せになりました。以上!」
列の向こうで、誰かが拍手した。
王都は自由だ。本当に自由だ。
レオンはため息をついた。ため息が、甘い匂いと混ざって、少しだけ優しくなった気がした。
――事故るたびに恋が進む。
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