契約妻のはずが、毎日“構って”条項で抱きしめられています

星乃和花

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第5話:体調不良の夫が“契約の鬼”になる

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その日の朝。

フィアは、嫌な予感がしていた。

屋敷の空気が妙に静かで、使用人たちの足音が柔らかい。
それは「朝が平和」という意味ではない。

――「嵐が来る前の静けさ」だ。

フィアが廊下を歩いていると、執事がそっと近づいてきた。
いつもより声が小さい。

「奥さま」
「何ですか」

執事は慈愛の表情で、しかし深刻そうに言った。

「公爵さまが……少々、熱を」
「……え?」

フィアは足を止めた。

(来た)

来てしまった。

(わざと熱を出したら怒るって言ったのに)

いや、違う。
さすがにわざとではないはず。
この人は合理的だ。病気は非効率。

しかし――

「今朝から少し青白く……」
「……呼吸は?」
「規則的ですが、“抱擁”を求めておられます」

求めてるんだ。

熱より先に、抱擁が来るんだ。

フィアは額を押さえた。

「……やれやれ」

執事が微笑む。

「奥さまの出番でございます」
「出番って言わないでください」

フィアは早足で、レオンハルトの寝室へ向かった。

 ◆

扉をノックして入ると、空気がいつもと違った。

香りの良い薬草茶の匂い。
薄暗い室内。
そしてベッドの上に――

レオンハルトがいた。

いつもの完璧な公爵ではない。

髪は少し乱れ、シャツの首元もゆるい。
顔色が白くて、目の下にかすかな影。
なのに、視線だけはいつも通り鋭い。

フィアはベッド脇まで行き、覗き込む。

「……公爵さま」
「フィア」

名前を呼ぶ声が低い。
少しだけ掠れている。

それだけで、胸がきゅっとなるのが悔しい。

「熱、ありますよね」
「ある」
「どれくらい?」
「君が来たら下がる」

下がるか。

フィアは冷静な声で言う。

「医者を呼びます」
「呼ばなくていい」
「だめです」
「君がいる」
「それ医療じゃないです」
「処置です」

処置。

ああ、出た。

フィアは深く息を吐いた。

「……契約書、持ってきてませんよね?」
「ある」

フィアの目が細くなる。

「……あるんですか」
「枕の下」

枕の下に契約書を入れて寝る病人がいるか。

フィアが手を伸ばそうとすると、レオンハルトが小さく咳をした。

「……やめろ」
「え?」
「取らないで」

弱い声なのに、意志が強い。
それがずるい。

フィアは仕方なく手を引っ込める。

「……わかりました。じゃあ、まず水分」
「いらない」
「いります」
「抱きしめるなら飲む」

……取引するな。

フィアは目を閉じて、数秒だけ自分を整えた。

(やれやれ)

そして、淡々と言った。

「わかりました。飲んだら抱きしめます」
「逆だ」
「逆?」
「抱きしめてから飲む」

順序にこだわるな。

フィアは諦めて、グラスを置いた。

「……じゃあ、まず抱きしめます」
「うん」

返事が、子どもみたいだった。

フィアはベッドの端に腰を下ろし、
そっと腕を伸ばして、レオンハルトを抱き寄せた。

熱い。

体温が、普段より少し高い。
それが手のひらに伝わって、フィアの心がざわつく。

レオンハルトは静かに息を吐いた。

「……助かる」
「はいはい」
「今日、世界が揺れるくらい疲れた」
「熱のせいです」

フィアがツッコミを入れると、
レオンハルトは目を閉じたまま小さく言った。

「君がいないと、揺れる」

またそれ。

フィアは眉間に力を入れた。

「……病人は黙って寝てください」
「無理」
「……無理って便利ですね」
「君が必要だから」

ああもう。
熱のせいでいつもより素直で、ずるい。

フィアは腕を緩めて、少し距離を取ろうとした。

「抱きしめは一日一回です」
「第八条」
「……え?」

レオンハルトが枕の下から、ぺらりと紙を出した。

薄い紙。
追加の条項。

フィアの顔が引きつる。

「……それ、いつ作ったんですか」
「さっき」

発熱中に、契約条項を増やすな。

レオンハルトは掠れた声で読み上げた。

「第八条。夫の疲労・ストレス増大時、妻は抱擁・撫で・褒めの処置を許可する」
「知ってます!既にあります!」
「今、増大している」
「増大の申告は医者にしてください」
「君に申告する」

フィアは額を押さえた。

「……やれやれ……」

執事が扉の影からそっと顔を覗かせ、静かに頷いた。
“お願いします”という顔だ。

フィアは口を尖らせたまま、レオンハルトへ戻る。

「……じゃあ、処置します」
「ありがとう」

その“ありがとう”が、やけに弱くて。
胸がちくっとする。

フィアはレオンハルトの額に手を当てる。

「熱、結構ありますね」
「君の手が冷たい」
「冷たくないです」
「冷たい。好きだ」

好きだ、まで言うな。

フィアは顔を逸らした。

「……薬、飲みますよ」
「抱きしめるなら」
「今抱きしめてます」
「もっと」

もっと。

病人のくせに要求が明確だ。

フィアはため息をついて、腕に力を入れた。
レオンハルトがふっと安心したように息を吐く。

「……うん」
「……満足ですか」
「まだ」
「まだ!?」

フィアが声を上げると、レオンハルトは目を開け、真面目に言った。

「撫でが足りない」

足りないとか言うな。

「褒めも」
「……褒め!?」
「必要」

必要、って言えば何でも通ると思ってる。

フィアは肩を落とし、諦めた。

「……わかりました。撫でます。褒めます。だから寝てください」
「うん」

返事が素直すぎる。
それがもう、可愛い。

悔しい。

フィアはそっと、彼の髪を撫でた。
指先でゆっくり。落ち着かせるように。

レオンハルトが小さく目を細める。

「……いい」
「いいんですね」
「君が上手い」

褒めの要求をしておいて、褒め返してくる。
ずるい。

フィアは照れを隠すために、少しだけ強い声を出した。

「はいはい。寝てください」
「褒めて」
「……まだ言う」
「褒めて」

フィアは視線を逸らしたまま、ぽつりと言った。

「……頑張ってますよ」
「もっと」
「……え?」
「具体的に」

具体的に褒めろ?

フィアは心の中で叫んだ。

(これ、看病じゃなくて調教なのでは!?)

しかし、熱で弱っているレオンハルトの目は、少しだけ不安そうで。
いつもみたいな“余裕のない顔”だった。

フィアの胸が、少し柔らかくなる。

フィアは小さく息を吐き、声を落とした。

「……公爵さまは、いつも頑張りすぎです」
「うん」
「今日も、社交界の後始末とか…いろいろ…」
「うん」
「ちゃんと、偉いです」

言った瞬間、フィアの耳が熱くなった。
自分が恥ずかしい。

なのに、レオンハルトの目がふっとほどける。

「……好きだ」

病人が、そんな言葉を言うな。

フィアは布団を持ち上げて、半分レオンハルトの顔にかぶせた。

「寝てください!!」
「うん」

布団の向こうから、くすっと笑う気配がした。

フィアは悔しくて、でも心が温かくて。
またそっと髪を撫でた。

 ◆

しばらくして。

レオンハルトの呼吸が落ち着いてきた。

寝た――と思った瞬間。

「フィア」
「……起きてるじゃないですか」

布団の中から声がする。
弱いのに、芯がある。

「来て」
「来てじゃないです。寝なさい」
「ここ」

布団の端が、ほんの少しだけ持ち上がる。
招き入れられる。

フィアは固まった。

「……まさか」
「ここ」

まさかの、添い寝要求。

フィアは顔を真っ赤にして、声が震える。

「……それは契約に……」
「第八条」
「万能すぎる!!」

レオンハルトが布団の中で小さく咳をして言う。

「……寒い」
「さっき熱いって言いましたよね!?」
「今は寒い」
「……嘘ですよね」
「本当」

本当か嘘か、もうわからない。
でもこの人は、弱っている。
そして今、少しだけ子どもみたいだ。

フィアは降参した。

「……やれやれ」

ベッドに乗り、布団の端に入る。
すぐに腕が回され、フィアは引き寄せられた。

近い。
危険。
熱い。
でも――落ち着く。

レオンハルトが小さく囁く。

「……ありがとう」
「……契約なので」
「契約じゃなくても言う」

またそれ。

フィアは返せなかった。
心がいっぱいで。

フィアは小さく息を吐いて、
彼の胸に額を寄せた。

「……早く治してください」
「治る」
「絶対ですよ」
「君がいるから」

言い切る声が、少しだけ強くなった。

フィアは目を閉じる。

(私、甘やかし禁止とか言ってたのに)

結局、全部やっている。
抱きしめて、撫でて、褒めて、添い寝まで。

なのに、嫌じゃない。

悔しいくらい――幸せだ。

 ◆

夕方。

熱は少し下がっていた。

レオンハルトが起き上がり、薄い笑みを浮かべる。

「回復した」
「良かったですね」
「君のおかげ」
「……医者の薬のおかげです」
「君も効いた」

フィアは咳払いをして、冷静に言う。

「じゃあ、もう今日は終わりです」
「何が」
「処置が」
「終わりません」
「え?」
「繰り越し分がある」

フィアの目が見開かれる。

「……繰り越し?」
「今朝、短かった」
「十分だったはずです!」
「体感時間は不足だった」

またそれ!

フィアは膝から崩れ落ちそうになった。

「……病人、治った途端それですか」
「治ったから言える」

卑怯。

フィアは顔を覆いながら、呻いた。

「……やれやれ……!!」

レオンハルトが静かに、でも嬉しそうに言った。

「フィア」
「……何ですか」
「明日も、よろしく」

その言い方が、あまりに素直で。
ずるくて。

フィアは顔を赤くしたまま、でも小さく頷いた。

「……はいはい。契約なので」
「ありがとう」

――その夜、フィアは思った。

契約って、こんなに甘いものだったっけ。

たぶん違う。
甘いのは契約じゃない。
この人だ。



=======
(第6話予告)
次回は、熱が下がったことで
レオンハルトの“構ってアピール”が高度化します。
• ため息で呼び出し
• ネクタイ緩めで申告
• 無言でソファ占拠
• そして最後に「必要です」
フィアのツッコミが追いつきません(甘)
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