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第一章 月と祈りのはじまり
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王国の朝は、少し冷たい。
月は夜を片づけ忘れたみたいに空に居座って、石畳の上に青い光をこぼす。白い息をひとつ吐くたび、空気が「おはよう」と返事をする気がした。
礼拝堂の扉を開ける鍵束が、からんと鳴る。
管理人の彼は、いつものように油差しと布切れを片手に、戸口の蝶番にそっと指を這わせる。石の床は正直で、磨けば磨いただけ小さく光った。色硝子の星座から差す淡い光が長いベンチを横切り、蝋燭の匂いが鼻先でちいさく丸くなる。
そのとき、靴音が、ひとつ。
まだ朝の鐘も鳴っていないのに、誰よりも早く礼拝堂に現れる影がある。彼女だ。背筋がまっすぐで、歩幅はそっと。彼女が足を運ぶたび、石がほんのり喜んでいるみたいに、軽い音を返す。
「おはようございます」
彼女の声は、光よりもやわらかく、温室の土の上を歩くみたいな響きだった。
彼は管理人らしく、控えめに会釈する。言葉は多くない方がいい。鍵束が揺れてまた小さく鳴った。
彼女は一番前の席に腰を下ろすと、手袋を外し、両の手を胸の前で組む。目を閉じるより先に、ふっと笑う。ここにいるよ、と誰かに伝える合図のように。
祈りの言葉は、彼にはわからない。わからないはずなのに、彼女の沈黙が始まると、礼拝堂は急に豊かになった。雪解けの水が見えないところを流れていくときの、静かな音。そんなものが確かにあった。
彼は蝋燭の芯を短く切りそろえるふりをして、横目で彼女の背中を見てしまう。
(まっすぐだな)
そのまっすぐさは刃物ではなく、茎の強さだった。細いのに、折れない。風が吹けばしなって、また立ち上がる種類のまっすぐ。
祈りが終わると、彼女は目を開け、くちびるに小さな「ありがとう」を乗せた。誰に向けてのものなのか、彼にはわからない。けれど、言葉は空中でほどけて、色硝子の星座へと吸い込まれていった。
「寒くないですか?」
気づけば、彼はそう言っていた。管理人としての気遣いに見せかけた、ただの心配。彼女はこくりとうなずいて、頬に白い息をかけながら両手をこすり合わせる。
「冷たいけれど、ここはやさしい匂いがします」
「蝋と、古い木の匂いでしょうか」
「それも。あと――」と彼女は少し考え、嬉しそうに目を細める。「月の光の匂いです」
彼は少し笑った。月に匂いがあるのなら、それはきっと彼女しか嗅ぎ分けられない。
ベンチの端に落ちた蝋を彼女が指でそっとはがす。くるりと巻かれた白い欠片は、どこか花びらに似ていた。彼女はそれを掌にのせると、名残惜しそうに見つめてから、灯り台の根元に“おかえり”とでも言うように置いた。
「いつも、早いですね」
「うん、祈るのが日課だから」
彼女は当たり前のように言う。彼は鍵束を握り直し、もう一度だけ質問を探した。
「そんなに、まっすぐに、何を――」
自分でも驚くほど、言葉が喉でつっかえた。彼女は首を傾げ、笑った。
「なにって、神さま。…ここ」
そう言って、胸の真ん中を指さす。
「神さまは、わたしの胸にいるよ」
月が少しだけ近づいた気がした。
彼は喉のつっかえが嘘みたいに消えて、代わりに胸のどこかが、ぽ、と灯るのを感じた。奇妙な、けれど痛くない熱。あたたかな土に指を差し込んだときに伝う温度に似ている。
「胸に」
「うん。だから、寒い朝でも平気。…あのね」
彼女はちょっとだけいたずらっぽい顔をした。「ここは秘密だけど、温室の土も、似た匂いがするの。しずかで、あったかい匂い」
温室。彼はその場所を知っている。王宮の裏庭の、古い温室。
(土の匂い、か)
彼の生活に土はない。あるのは石と木と蝋と、鍵の金属だけだ。だからこそ、その言葉は胸の灯りにゆっくり混ざって、知らない色になった。
「君は…温室が好きなんですね」
「うん。そこだと、心がしゃがんでも、ちゃんと芽がでるよって思えるから」
彼女のたとえは、すとんと彼の中に落ちていった。やさしいけれど、甘すぎない。
彼は、もっと訊きたい言葉を何個か並べてみたが、どれもすこしだけ野暮に思えて、飲み込んだ。
朝の鐘が、はじめの一度だけ鳴った。
礼拝堂の空気が震えて、色硝子の星座が壁にゆっくり揺れる。彼女は振り向き、鐘の方向を見上げる。目が合った。彼は慌てて視線を逸らす――ふりをして、逸らしきれなかった。
「鐘の音、好き」
「どうしてです」
「呼ばれてるみたいだから。ねえ、管理人さん」
「はい」
「困った日があったら、わたし、鐘の下にいるね」
彼は頷いた。礼拝堂の中心を担う家で育った彼にとって、“困った日”は大抵、誰かの期待が重なってやってくる。祈りの言葉を覚えるより先に、祈りの手順を覚えた。神さまは遠くて、式次第は近かった。
「今日は温室へ?」
気づけば、彼はもう一歩、彼女の世界に足を入れていた。
「うん。お水、あげに。寒い朝の水は、起こすみたいに効くから」
彼女はマフラーの端をきゅっと結び直す。袖口に、うすく土がついていた。昨日もそこにいたのだろう。彼はその土が拭われる前に、目でそっと拾い上げて覚える。
「…いってらっしゃい」
「いってきます」
扉がまた、からんと鳴って、彼女は月の下へ戻っていった。
彼はしばらくその音の余韻を聴いていた。礼拝堂には彼と鍵束と、揺れの落ち着いた光だけが残る。胸の灯りは、不思議と消えなかった。
(胸の中に、神さま)
呟いた声は、自分のものらしくなかった。けれど嫌いではない。
忘れないように、彼は仕事に戻る。蝋燭の高さを揃え、布で欄干を磨く。すべては式のため、誰かのため。…その「誰か」の中に、今、ほんの少しだけ自分が混ざった気がする。
外はまだ冷たい。月は相変わらず居座ったまま。
扉を閉めるまえ、彼は足を止める。礼拝堂から裏庭への小径は、いつもより静かだ。
(温室)
彼は鍵束を握り直した。からん。音が小さく勇気を出す。管理人の巡回という名目は、いくらでも作れる。
彼は扉を静かに閉め、鐘の綱にほんの少しだけ触れる。
呼べば、届く。
その合図が自分にも向く日が来るのだろうか――と考え、考えすぎだと苦笑して、彼は月明かりの小径へ踏み出した。
朝は、少しずつ、明るくなる。
今日も、ここからはじまる。
祈りと、鍵束と、まだ名前のない灯りと。
そして、温室へ向かう小さな足音。
月は夜を片づけ忘れたみたいに空に居座って、石畳の上に青い光をこぼす。白い息をひとつ吐くたび、空気が「おはよう」と返事をする気がした。
礼拝堂の扉を開ける鍵束が、からんと鳴る。
管理人の彼は、いつものように油差しと布切れを片手に、戸口の蝶番にそっと指を這わせる。石の床は正直で、磨けば磨いただけ小さく光った。色硝子の星座から差す淡い光が長いベンチを横切り、蝋燭の匂いが鼻先でちいさく丸くなる。
そのとき、靴音が、ひとつ。
まだ朝の鐘も鳴っていないのに、誰よりも早く礼拝堂に現れる影がある。彼女だ。背筋がまっすぐで、歩幅はそっと。彼女が足を運ぶたび、石がほんのり喜んでいるみたいに、軽い音を返す。
「おはようございます」
彼女の声は、光よりもやわらかく、温室の土の上を歩くみたいな響きだった。
彼は管理人らしく、控えめに会釈する。言葉は多くない方がいい。鍵束が揺れてまた小さく鳴った。
彼女は一番前の席に腰を下ろすと、手袋を外し、両の手を胸の前で組む。目を閉じるより先に、ふっと笑う。ここにいるよ、と誰かに伝える合図のように。
祈りの言葉は、彼にはわからない。わからないはずなのに、彼女の沈黙が始まると、礼拝堂は急に豊かになった。雪解けの水が見えないところを流れていくときの、静かな音。そんなものが確かにあった。
彼は蝋燭の芯を短く切りそろえるふりをして、横目で彼女の背中を見てしまう。
(まっすぐだな)
そのまっすぐさは刃物ではなく、茎の強さだった。細いのに、折れない。風が吹けばしなって、また立ち上がる種類のまっすぐ。
祈りが終わると、彼女は目を開け、くちびるに小さな「ありがとう」を乗せた。誰に向けてのものなのか、彼にはわからない。けれど、言葉は空中でほどけて、色硝子の星座へと吸い込まれていった。
「寒くないですか?」
気づけば、彼はそう言っていた。管理人としての気遣いに見せかけた、ただの心配。彼女はこくりとうなずいて、頬に白い息をかけながら両手をこすり合わせる。
「冷たいけれど、ここはやさしい匂いがします」
「蝋と、古い木の匂いでしょうか」
「それも。あと――」と彼女は少し考え、嬉しそうに目を細める。「月の光の匂いです」
彼は少し笑った。月に匂いがあるのなら、それはきっと彼女しか嗅ぎ分けられない。
ベンチの端に落ちた蝋を彼女が指でそっとはがす。くるりと巻かれた白い欠片は、どこか花びらに似ていた。彼女はそれを掌にのせると、名残惜しそうに見つめてから、灯り台の根元に“おかえり”とでも言うように置いた。
「いつも、早いですね」
「うん、祈るのが日課だから」
彼女は当たり前のように言う。彼は鍵束を握り直し、もう一度だけ質問を探した。
「そんなに、まっすぐに、何を――」
自分でも驚くほど、言葉が喉でつっかえた。彼女は首を傾げ、笑った。
「なにって、神さま。…ここ」
そう言って、胸の真ん中を指さす。
「神さまは、わたしの胸にいるよ」
月が少しだけ近づいた気がした。
彼は喉のつっかえが嘘みたいに消えて、代わりに胸のどこかが、ぽ、と灯るのを感じた。奇妙な、けれど痛くない熱。あたたかな土に指を差し込んだときに伝う温度に似ている。
「胸に」
「うん。だから、寒い朝でも平気。…あのね」
彼女はちょっとだけいたずらっぽい顔をした。「ここは秘密だけど、温室の土も、似た匂いがするの。しずかで、あったかい匂い」
温室。彼はその場所を知っている。王宮の裏庭の、古い温室。
(土の匂い、か)
彼の生活に土はない。あるのは石と木と蝋と、鍵の金属だけだ。だからこそ、その言葉は胸の灯りにゆっくり混ざって、知らない色になった。
「君は…温室が好きなんですね」
「うん。そこだと、心がしゃがんでも、ちゃんと芽がでるよって思えるから」
彼女のたとえは、すとんと彼の中に落ちていった。やさしいけれど、甘すぎない。
彼は、もっと訊きたい言葉を何個か並べてみたが、どれもすこしだけ野暮に思えて、飲み込んだ。
朝の鐘が、はじめの一度だけ鳴った。
礼拝堂の空気が震えて、色硝子の星座が壁にゆっくり揺れる。彼女は振り向き、鐘の方向を見上げる。目が合った。彼は慌てて視線を逸らす――ふりをして、逸らしきれなかった。
「鐘の音、好き」
「どうしてです」
「呼ばれてるみたいだから。ねえ、管理人さん」
「はい」
「困った日があったら、わたし、鐘の下にいるね」
彼は頷いた。礼拝堂の中心を担う家で育った彼にとって、“困った日”は大抵、誰かの期待が重なってやってくる。祈りの言葉を覚えるより先に、祈りの手順を覚えた。神さまは遠くて、式次第は近かった。
「今日は温室へ?」
気づけば、彼はもう一歩、彼女の世界に足を入れていた。
「うん。お水、あげに。寒い朝の水は、起こすみたいに効くから」
彼女はマフラーの端をきゅっと結び直す。袖口に、うすく土がついていた。昨日もそこにいたのだろう。彼はその土が拭われる前に、目でそっと拾い上げて覚える。
「…いってらっしゃい」
「いってきます」
扉がまた、からんと鳴って、彼女は月の下へ戻っていった。
彼はしばらくその音の余韻を聴いていた。礼拝堂には彼と鍵束と、揺れの落ち着いた光だけが残る。胸の灯りは、不思議と消えなかった。
(胸の中に、神さま)
呟いた声は、自分のものらしくなかった。けれど嫌いではない。
忘れないように、彼は仕事に戻る。蝋燭の高さを揃え、布で欄干を磨く。すべては式のため、誰かのため。…その「誰か」の中に、今、ほんの少しだけ自分が混ざった気がする。
外はまだ冷たい。月は相変わらず居座ったまま。
扉を閉めるまえ、彼は足を止める。礼拝堂から裏庭への小径は、いつもより静かだ。
(温室)
彼は鍵束を握り直した。からん。音が小さく勇気を出す。管理人の巡回という名目は、いくらでも作れる。
彼は扉を静かに閉め、鐘の綱にほんの少しだけ触れる。
呼べば、届く。
その合図が自分にも向く日が来るのだろうか――と考え、考えすぎだと苦笑して、彼は月明かりの小径へ踏み出した。
朝は、少しずつ、明るくなる。
今日も、ここからはじまる。
祈りと、鍵束と、まだ名前のない灯りと。
そして、温室へ向かう小さな足音。
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