月の礼拝堂と温室の君 ーー呼べば、届く。救われなくても、やさしい。

星乃和花

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第二章 白い息の温室

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礼拝堂から裏庭へ抜ける小径は、霜の粉をはたいたみたいに白かった。
彼は巡回用の帳面を片手に、もう片方で鍵束を鳴らしながら歩く。月はまだ空にあり、枝先で固く丸まる蕾の上に静かな光を落としている。

温室の扉に掌を当てると、内側からやわらかな湿り気が伝わった。
(ここだけ、季節が違う)
鍵をまわすと、温い空気がふわりと顔に触れる。彼は思わず、深く息を吸った。蝋や古木ではない匂い――湿った土、若い茎、ひらいたばかりの緑の匂い。

「おはよう、温室さん」
先にいた彼女が、扉の内側でそっと挨拶した。誰にでも敬称をつけるみたいなやさしさだ。
「失礼します。排水口の確認を」
彼は管理人らしい言い訳を置いてから、長靴の足先で床の溝を確かめた。言い訳は、だいたい本当になっていく。温室のガラスは端が白く曇り、朝露がつくる細い道が何本も垂れていた。

「今日は“星の苗床”に、お水を足してあげたいの」
彼女が指さした隅の一角には、浅い木の箱が並び、細かい砂と土が層になっている。名札がいくつも立っていた。
〈朝の涙〉〈つきのすみか〉〈ほしのことり〉
彼は、名付けられたものが少しだけ力を得る顔を見た気がした。

「どれも、いい名前ですね」
「ほんとう?」
「ええ。…“ことり”はどうして」
「風が通ると、葉っぱが小さく鳴くの。ことりが寝てるみたいな音がするから」
彼女は耳を澄ます仕草をして、笑った。温室の奥で、確かにかすかな囁きがした。彼は黙って、その音を心に置いた。

「よかったら、これ。お水係り」
彼女は小さな金色のじょうろを差し出した。取っ手の内側が少し欠けて、紙で補修してある。彼は受け取りながら、手の甲で金属の冷たさを測った。

「根元を狙って、葉っぱには雨みたいに。…あ、でも“朝の涙”は逆」
「逆」
「葉っぱから落ちた滴が、土に勇気を渡すから」
彼女の比喩は、絵のように具体的だ。彼は頷いて、口を引き結ぶ。祈りはわからない。でも、やり方は教えてもらえる。

じょうろから細い水糸がほどける。彼は慎重に角度を変え、根元に雨雫のまねごとを落とした。土が小さく吸い、色を濃くする。
「上手」
「手順を覚えるのは得意なんです」
口にしてから、少し胸がきゅっとした。手順ばかりが増えて、言葉が置いていかれた子ども時代の感触が、背中を通り過ぎていく。

「でも、ここは手順より、機嫌を見るのが大事だよ」
「機嫌」
「うん。今日の“ことり”は、どんな顔?って聞くの。…あ、ほら」
彼女が身を屈めて、葉裏の小さな影を指す。ほんのひと粒の新芽が、土の継ぎ目から顔を出しかけていた。
「こんにちは」
彼女の声は芽に向かっていて、芽はそれに応えるみたいに微かに震えた。もちろん、偶然だ。それでも彼は、そういう偶然のやさしさにすぐ負ける。

「……こんにちは」
気づけば彼もつられていた。自分の声が、礼拝堂より半音柔らかい。
彼女は嬉しそうに笑い、名札を一本増やす。「“こんにちは”って返してくれた日だから――」と、迷いなく文字を書く。
〈鐘のしずく〉
「礼拝堂の鐘が鳴るたびに、ここまで届くの。ちいさな音だけど、届くの」
「届くんですね」
「うん。だから、呼ばれてるときは、わたしも返事する」
彼は、その“届く”という言い方を、胸の裏側で何度か転がしてみた。届く、というのは、信じるの仲間なのだろうか。

「……!」
手元がわずかに滑った。彼は“ことり”の鉢のへりにじょうろの口を当ててしまい、土がほんの少し崩れた。
「ごめん」
咄嗟に謝った彼の手を、彼女がそっと取った。小さな刷毛をどこからか取り出して、手の甲についた土をやさしく掃う。
「土は温かいから、びっくりしないで」
彼は呼吸の仕方を一瞬忘れ、慌てて息を吸った。土の粒が皮膚の上で移動し、刷毛の柔らかい先がしゅっ、と音を立てる。
「……温かい」
素朴な言葉が先に出た。飾れないときの自分の声だ。
「ね。…大丈夫、崩れた分は、ここに帰せばいいから」
彼女は指先で土の縁を整え、こぼれた分をそっと戻した。その所作は、祈りに似ていた。誰にも見せびらかさない、静かな手の祈り。

作業はすぐ日課になった。彼が水を運び、彼女が名札を書き、二人で機嫌を伺う。話題は土の目の粗さ、光の角度、今夜の冷え方――礼拝堂では出てこない種類の言葉ばかりだ。
彼は、自分の口が覚える言葉が変わるのを、不思議に思いながら少し嬉しく思った。

「祭の準備、忙しい?」
“鐘のしずく”の上で水が丸く弾けるのを眺めながら、彼女が訊いた。
「もうすぐ“月祈の祭”ですから。…中央の祭壇に、飾り付けを」
「どんな飾り?」
「星座の幕と、銀の燭台。それから、捧げものの花」
「花」
彼女の目がぱっと明るくなる。
「もし、よかったら。温室からも、少し…」
言いながら、彼は急に躊躇った。家の名と役目を思い出す。捧げものは決められた手順で、決められた場所から――
「うん。やめよう、かな」
「どうして」
「…手順が、あるから」
素朴に言ってしまった。彼女は「そっか」と頷き、悲しむでも反発するでもなく、土を撫でた。
「じゃあ、温室からは、祈りだけおくるね」
「祈り」
「うん。水をあげるとき、祭壇があったまるようにって。…ね、管理人さん」
「はい」
「祈りって、救われるためだけじゃないと思うんだ。救いじゃなくても、あったかくなること、あるよ」
彼女の言う“あったかい”は、目に見えないけれど、たしかだ。彼は頷く代わりに、じょうろをもう一度満たした。

作業の合間、彼は鍵束をベンチに置いた。両手を使わないと、古い栓が固くて開かない。
「持ってていい?」
彼女が何気なく鍵束を指した。
「どうぞ」
彼は差し出す。金属の重さが彼女の掌に移り、鈍い鈴のような音が一度だけ鳴った。
「わあ。たくさん」
「礼拝堂の扉、祭壇、鐘楼、保管庫、裏門…」
「それぞれに、名前をつけたくなるね」
「名前」
「うん。鍵も、安心したいかも」
彼は笑った。鍵が安心を欲しがる、という発想は初めてだった。
「どんな名前を」
「この丸いのは“月の輪”。長いのは“星の梯子”。――あ、これは“帰っておいで”」
彼女は一番よく擦れている鍵を選び、そう呼んだ。
帰っておいで。
その言葉は、彼の胸の灯りの近くへまっすぐ落ちた。彼は思わず、鐘の綱の手触りを思い出す。引けば、響く。呼べば、届く。

「管理人さん」
「はい」
「もし、困った日が来たら。わたし、鐘の下と……ここにいるから」
彼女は温室の床を、掌でとん、と軽く叩いた。
「ここに、帰っておいで」
彼は頷くしかできなかった。言葉を増やすと、どこかがこぼれそうだった。

そのとき、遠くで一度だけ鐘が鳴った。礼拝堂が朝を数える合図だ。
彼女は鍵束を彼に返す。
「ありがとう。…“帰っておいで”」
「預けていたのは、鍵です」
「うん、鍵」
彼女は微笑んだ。たぶん、彼の言葉の奥を、わざと拾わないでいてくれる笑い方。

作業を終えるころ、ガラスに落ちる月の影が薄くなっていった。外の冷気が戻り、温室の温度計の針が少しだけ震える。
「今日は、時計台に寄るかも」
「時計台」
「うん。ちょっと、心をほどく日。…でも、大丈夫。ちゃんと戻るから」
彼女は首にマフラーを巻きなおし、扉の方へ歩いた。
「じゃあ――連れ戻しに行きます」
口にしてから、彼は一瞬だけ立ち止まる。言い過ぎだろうか、と。
彼女は振り返って、ゆっくり頷いた。
「うん。約束、ね」
約束。温室の空気が、その言葉をよく吸った。

扉が開き、白い息と一緒に彼女が外へ出る。
彼は少し遅れてあとを追い、扉を閉める前にもう一度だけ温室を振り返った。
名札が風に揺れ、“鐘のしずく”の文字が微かに踊る。
彼は鍵束を握り直し、静かにポケットへ収めた。重さはさっきより、少し軽い。不思議だ。

(困った日が来たら)
彼は月の薄い光の下で小さく息を吐き、礼拝堂の方角へ歩きだす。
鐘は一度だけ鳴って、すぐ黙る。
彼の胸の灯りは、黙ったまま、消えない。次に鳴る音を待つみたいに、あたたかくただそこにいた。
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