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第十二章 選ぶという祈り
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嵐の翌朝、王国の空気は洗われたみたいに澄んでいた。
月は薄衣を脱いで、すこし恥ずかしそうな顔で残っている。
温室のガラスは無事で、留め木の新しい傷が、夜を静かに語っていた。
「おはよう、温室さん」
彼女は指で名札を順に撫でる。〈帰っておいで〉、〈忘れない忘れもの〉、〈半歩ひろげる〉。
“月の水たまり”は浅く揺れて、光を小さく割った。
「おはようございます」
扉の向こうから、律が白い息を連れて現れた。濡れたコートはもう乾いて、鍵束の麻糸が少し色を濃くしている。
「寝られましたか」
「少し。土の匂いが、眠り方を教えてくれました」
彼はベンチに置いてある“静かな心”を見つけ、手のひらにのせた。
「預かってくれて、ありがとう」
「うん。……返すね」
「いいえ」律は首を振る。「“返す”より、“分ける”にしたい」
そう言って、鍵束の輪に白い麻糸をもう一本、彼女と同じ結び方で重ねた。
「君の“だいじょうぶ”を、ここに残しておきたい。遠祭のとき、迷ったら触ります」
彼女は微笑んだ。「じゃあ、こっちは――」
扉の内側の白い輪を指で確かめる。「律さんの“帰っておいで”を、ここに残すね」
律はうなずき、鍵束を握り直した。からん。音は丸い。
「昼には出立します。その前に、礼拝堂へ。叔父に、僕の言葉で伝えたいことがある」
「いっしょに行く?」
「はい。……いっしょに」
⸻
礼拝堂は、昨夜の嵐が嘘みたいに整っていた。
銀は乾いた光を持ち、星座の幕はしわひとつない。
叔父は祭壇の脇で帳面を閉じ、二人を見ると目を細めた。
「律。温室の娘さん」
律は一歩進み、鍵束に親指を置いて、短く吸う。
(静かな心)
「おじさん。僕は――定められた言葉を、これからも揃えるつもりです。人の肩が軽くなるなら、僕の“得意”を使いたい」
叔父は無言でうなずく。
「でも、僕の胸は、神を信じてはいません。……それでも礼拝堂にいていいか、ずっと怖かった」
空気が薄く澄む。彼の声は短く、素朴で、隠し場所がない。
「昨夜、僕は温室で“抱っこしてもらう祈り”を覚えました。救いじゃなくても、やさしくしてくれる祈りです。
だから、僕は選びます。
“開く。守る。渡す。帰る”――この短い合図を、僕の祈りの芯にします。
そして……」
彼は横に立つ彼女を見る。
「君を信じる僕を、信じたい。
君といるときの僕は、嘘を言いません。迷っても、帰れる道を思い出せる。
その僕で、礼拝堂に立ちたい。許されますか」
叔父はゆっくりと息を吐き、しわだらけの指で燭台の脚を撫でた。
「許すも何も、わしらは最初から“いまここ”で生きておる。
信じる形はひとつではない。祈りは、人の肩を軽くしたかどうかで測ればよい。
――律、お前が置く“短い合図”は、人々にも必要だ。
遠祭の前文として、正式に残そう」
律は目を見開き、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
叔父は彼女の方に目を向ける。
「君。あの子の“帰り道”を、君の言葉で守ってやってくれ」
「はい」
彼女は胸の前で小さく指を組む。「“だいじょうぶ”を置いておきます。いつでも、帰っておいで」
礼拝堂の空気が、ひと呼吸ぶんだけ温かくなった。
律は鐘楼の縄に手を添え、彼女にも手を差し出す。
二人で、ほんの少しだけ引く。
――コウン。
内緒の合図が、石に丸くひろがる。
「行ってきます」
鐘の余韻の中で、律が言う。
「いってらっしゃい」
彼女は返す。それは、祈りよりも日常に近い所作だった。
⸻
出立の刻まで、二人はもう一度温室へ寄った。
“星の苗床”の角に、あの空白の札が一本だけ立っている。
律が墨を含ませ、少し迷ってから、短く書いた。
〈選ぶ祈り〉
文字は素直で、強がらない。
「……長くしても、言い切れなくなるから」
「短いの、すき」
彼女は笑い、札の根元をそっと押さえた。土が小さく深呼吸する。
「もう一本、名前を書いてもいい?」
彼女が新しい札を持つ。
彼の顔を見る目は、可愛いのに芯がある。
「いいですよ」
彼女はさらさらと書いた。
〈律の帰り道〉
律は息をのむ。それから照れたように笑った。
「忘れません」
「忘れない忘れもの、だもん」
扉の内側の白い輪に、彼は指を通してそっと引いた。
鳴らない合図。
「君の輪は、僕の鍵よりあたたかい」
「息が多いからね」
二人は笑う。笑いは、鐘より軽い合図。
「出発の前に、ひとつだけ」
律は彼女の前で、胸に手を置いた。
「吸って、“いまここ”。吐いて、“だいじょうぶ”。
……僕は、君を信じる僕を、信じる」
言い切る。
短い言葉は、鍵の音みたいに正直だ。
彼女は頷く。
「わたしは、胸の神さまに、律さんの言い方を教えてもらうね。
救いじゃなくても、やさしくする。
信じるは、二人で半分こでも、まるごとでも、どちらでもいいから」
外は、もう旅支度の風だ。
石畳は冷たく、月は昼の顔をしながらそこにいる。
律は鍵束を鳴らす。からん。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
「――帰ってきます」
「うん。帰っておいで」
彼は頷き、礼拝堂の方角へ歩き出した。
足音は、揃ってはいないけれど、同じリズムを知っている人の歩き方だ。
扉が静かに閉まり、温室は深く息をつく。
“月の水たまり”が、ひとしずく分だけ明るくなった気がした。
彼女は名札をもう一本、苗床の端にそっと差す。
〈だいじょうぶの種〉
「ゆっくりでいいよ。芽がでるの、待ってるから」
土は返事をしないけれど、白い息がやさしくほどけた。
礼拝堂では、叔父が短い前文を帳面に写していた。
――“開く。守る。渡す。帰る。
いまここにある肩が、少しでも軽くなりますように。”
律は鐘楼の縄に手を添え、胸の中の輪と鍵を確かめる。
(選ぶ祈り)
それは、証明しない強さでできていた。
月は相変わらず空にいて、王国はそれを当たり前のように受け入れる。
救われるかどうかは、まだわからない。
でも、やさしくある道は、もう選んだ。
呼べば、届く。
帰る場所は、確かに増えた――胸の中と、温室と、鐘の下に。
月は薄衣を脱いで、すこし恥ずかしそうな顔で残っている。
温室のガラスは無事で、留め木の新しい傷が、夜を静かに語っていた。
「おはよう、温室さん」
彼女は指で名札を順に撫でる。〈帰っておいで〉、〈忘れない忘れもの〉、〈半歩ひろげる〉。
“月の水たまり”は浅く揺れて、光を小さく割った。
「おはようございます」
扉の向こうから、律が白い息を連れて現れた。濡れたコートはもう乾いて、鍵束の麻糸が少し色を濃くしている。
「寝られましたか」
「少し。土の匂いが、眠り方を教えてくれました」
彼はベンチに置いてある“静かな心”を見つけ、手のひらにのせた。
「預かってくれて、ありがとう」
「うん。……返すね」
「いいえ」律は首を振る。「“返す”より、“分ける”にしたい」
そう言って、鍵束の輪に白い麻糸をもう一本、彼女と同じ結び方で重ねた。
「君の“だいじょうぶ”を、ここに残しておきたい。遠祭のとき、迷ったら触ります」
彼女は微笑んだ。「じゃあ、こっちは――」
扉の内側の白い輪を指で確かめる。「律さんの“帰っておいで”を、ここに残すね」
律はうなずき、鍵束を握り直した。からん。音は丸い。
「昼には出立します。その前に、礼拝堂へ。叔父に、僕の言葉で伝えたいことがある」
「いっしょに行く?」
「はい。……いっしょに」
⸻
礼拝堂は、昨夜の嵐が嘘みたいに整っていた。
銀は乾いた光を持ち、星座の幕はしわひとつない。
叔父は祭壇の脇で帳面を閉じ、二人を見ると目を細めた。
「律。温室の娘さん」
律は一歩進み、鍵束に親指を置いて、短く吸う。
(静かな心)
「おじさん。僕は――定められた言葉を、これからも揃えるつもりです。人の肩が軽くなるなら、僕の“得意”を使いたい」
叔父は無言でうなずく。
「でも、僕の胸は、神を信じてはいません。……それでも礼拝堂にいていいか、ずっと怖かった」
空気が薄く澄む。彼の声は短く、素朴で、隠し場所がない。
「昨夜、僕は温室で“抱っこしてもらう祈り”を覚えました。救いじゃなくても、やさしくしてくれる祈りです。
だから、僕は選びます。
“開く。守る。渡す。帰る”――この短い合図を、僕の祈りの芯にします。
そして……」
彼は横に立つ彼女を見る。
「君を信じる僕を、信じたい。
君といるときの僕は、嘘を言いません。迷っても、帰れる道を思い出せる。
その僕で、礼拝堂に立ちたい。許されますか」
叔父はゆっくりと息を吐き、しわだらけの指で燭台の脚を撫でた。
「許すも何も、わしらは最初から“いまここ”で生きておる。
信じる形はひとつではない。祈りは、人の肩を軽くしたかどうかで測ればよい。
――律、お前が置く“短い合図”は、人々にも必要だ。
遠祭の前文として、正式に残そう」
律は目を見開き、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
叔父は彼女の方に目を向ける。
「君。あの子の“帰り道”を、君の言葉で守ってやってくれ」
「はい」
彼女は胸の前で小さく指を組む。「“だいじょうぶ”を置いておきます。いつでも、帰っておいで」
礼拝堂の空気が、ひと呼吸ぶんだけ温かくなった。
律は鐘楼の縄に手を添え、彼女にも手を差し出す。
二人で、ほんの少しだけ引く。
――コウン。
内緒の合図が、石に丸くひろがる。
「行ってきます」
鐘の余韻の中で、律が言う。
「いってらっしゃい」
彼女は返す。それは、祈りよりも日常に近い所作だった。
⸻
出立の刻まで、二人はもう一度温室へ寄った。
“星の苗床”の角に、あの空白の札が一本だけ立っている。
律が墨を含ませ、少し迷ってから、短く書いた。
〈選ぶ祈り〉
文字は素直で、強がらない。
「……長くしても、言い切れなくなるから」
「短いの、すき」
彼女は笑い、札の根元をそっと押さえた。土が小さく深呼吸する。
「もう一本、名前を書いてもいい?」
彼女が新しい札を持つ。
彼の顔を見る目は、可愛いのに芯がある。
「いいですよ」
彼女はさらさらと書いた。
〈律の帰り道〉
律は息をのむ。それから照れたように笑った。
「忘れません」
「忘れない忘れもの、だもん」
扉の内側の白い輪に、彼は指を通してそっと引いた。
鳴らない合図。
「君の輪は、僕の鍵よりあたたかい」
「息が多いからね」
二人は笑う。笑いは、鐘より軽い合図。
「出発の前に、ひとつだけ」
律は彼女の前で、胸に手を置いた。
「吸って、“いまここ”。吐いて、“だいじょうぶ”。
……僕は、君を信じる僕を、信じる」
言い切る。
短い言葉は、鍵の音みたいに正直だ。
彼女は頷く。
「わたしは、胸の神さまに、律さんの言い方を教えてもらうね。
救いじゃなくても、やさしくする。
信じるは、二人で半分こでも、まるごとでも、どちらでもいいから」
外は、もう旅支度の風だ。
石畳は冷たく、月は昼の顔をしながらそこにいる。
律は鍵束を鳴らす。からん。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
「――帰ってきます」
「うん。帰っておいで」
彼は頷き、礼拝堂の方角へ歩き出した。
足音は、揃ってはいないけれど、同じリズムを知っている人の歩き方だ。
扉が静かに閉まり、温室は深く息をつく。
“月の水たまり”が、ひとしずく分だけ明るくなった気がした。
彼女は名札をもう一本、苗床の端にそっと差す。
〈だいじょうぶの種〉
「ゆっくりでいいよ。芽がでるの、待ってるから」
土は返事をしないけれど、白い息がやさしくほどけた。
礼拝堂では、叔父が短い前文を帳面に写していた。
――“開く。守る。渡す。帰る。
いまここにある肩が、少しでも軽くなりますように。”
律は鐘楼の縄に手を添え、胸の中の輪と鍵を確かめる。
(選ぶ祈り)
それは、証明しない強さでできていた。
月は相変わらず空にいて、王国はそれを当たり前のように受け入れる。
救われるかどうかは、まだわからない。
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