今日の分を、あなたに

星乃和花

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第二話 「帳尻」

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翌日、私は“奥”の扉をノックする前に、少しだけ立ち止まった。

昨日の「空けておきます」が、胸の奥でまだ熱い。
あれは、ただの業務連絡のはずなのに。
なのに私の心は、勝手に“確保”という言葉を恋に変換してしまう。

――だから、落ち着け。

私は自分に言い聞かせて、いつもより丁寧にノックした。

コン、コン。

「……どうぞ」

扉を開けると、彼はもうそこにいた。
机の上に、見慣れないものが整然と並んでいる。

・朗読会用の資料(昨日より綺麗に整理されている)
・会場配置図(ちゃんと縮尺がついている)
・付箋の束(色分けされている)
・そして、なぜか私のための椅子の背もたれに、薄いブランケットが掛かっている

……え。何これ。

「おはようございます」

彼は淡々と挨拶した。淡々と、淡々と。
ただし、私の椅子を一瞬見て、すぐ視線を逸らした。

「……空けておきます、って、これのことでした?」

笑って聞くと、彼は小さく頷く。

「はい。空いてたので」

空いてたので、の語尾が妙に硬い。
硬いのに、やってることが優しい。
優しいのに、本人は“優しさ”として扱う気がない。

私は資料を手に取り、目を走らせた。

「配置図まで……すごい。助かります」

素直に言うと、彼の指先が少しだけ止まった。
それから、何でもないことみたいに、書類の角を揃え直す。

「……昨日、把握したので。ついでです」

ついで。
便利な言い訳だ。

私は椅子に座り、ブランケットに触れる。
ぬくぬくする。ぬくぬくが、罠みたいだ。

「これ、私の?」

問いかけると、彼は瞬きをした。

「寒いと集中が落ちるので」

「私の?」

「……あなたのです」

観念したみたいに言う。
その声が、少しだけ小さくなった。

よし。
今日の私の仕事は、恋を急がないこと。
でも、彼の“返さなきゃ”が暴走しないように、ちゃんと止めること。

私は昨日の付箋を思い出して、同じように、紙を一枚引き出した。

ルール:
①差し入れは「今日の分」(返礼不要)
②準備は「共同作業」(返礼ではない)
③ブランケットは……相談

そして、わざと声に出して読んだ。

「③ブランケットは……相談、って書きました」

彼は、ぴたりと動きを止めた。

「相談、とは……」

「うん。これは、返礼?」

私は笑って聞いた。
責めてない。冗談の顔をして、でも核心だけは外さない。

彼は少し考えてから、淡々と答えた。

「……返礼では、ないです」

「じゃあ何?」

「……効率です」

私は吹きそうになって、口元を手で押さえた。
効率。出た。彼の万能免罪符。

「なるほど。じゃあ私は、効率のために今日もカフェオレを置いていいですか?」

彼は反射的に言いかけた。

「それは――」

言いかけて、止まる。
止まった瞬間、彼の顔にほんの少しだけ“困った”が出た。

あぁ、ここだ。
ここが、彼の“ルール”の入り口だ。

私は声の熱を落として言う。

「ね、私さ。あなたに何かあげると、あなたがすぐ“返さなきゃ”って顔をするの、分かるよ」

彼は何も言わない。
否定もしない。
ただ、ペン先を持つ指が少しだけ白くなった。

「だから、提案。……受け取る練習を、一緒にしない?」

彼の視線が、ゆっくり上がってくる。

「受け取る練習……」

「うん。私があげたいものを、あなたが受け取ってくれる練習。あなたが“返礼”に変換しない練習」

言いながら、私のほうが少し怖くなる。
言葉って、押しつけになりやすい。
だから私は最後に、逃げ道をちゃんと残す。

「嫌なら、やめる。これは提案」

彼は息を吸って、吐いた。

「……嫌じゃないです」

その言い方が、すごく慎重で、すごく正直で。
私は胸の奥がじわっと温かくなるのを感じた。

「じゃあ、今日の“受け取る練習”ね」

私は紙コップを机の端に置いた。
昨日と同じ、ミルク多めのカフェオレ。

「今日の分。返さなくていい。……今ここで帳尻を合わせないで」

彼の目が、紙コップと私の間を揺れる。

「……帳尻」

ぽつりと言ってから、彼は小さく笑った。
笑うというより、諦めに似た、ほどけ。

「……分かりました」

そして、紙コップに手を伸ばした。

受け取った。

その瞬間、私は“成功”を喜びすぎないように、また資料に視線を落とした。
でも心の中では、ちょっとだけ万歳していた。
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