今日の分を、あなたに

星乃和花

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第六話 「増える」

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翌日。
奥の扉をノックしようとして、私は手を止めた。

扉の向こうが、やけに静かだったから。
いつもなら紙の擦れる音とか、ペンの先が机を叩く小さな音とか、何かしら“彼の整える音”がするのに。

――もしかして、いない?

そんなことを考えた瞬間、自分の胸がきゅっとなる。
「足りない」って言ったのは彼なのに、足りなくなるのは私の方が早い。

私は、息を整えてノックした。

コン、コン。

「……どうぞ」

返ってきた声が、いつもより近い。
扉を開けると、彼は机の前じゃなく、扉のすぐ横に立っていた。

待ってたみたいに。

「おはよう」

私が言うと、彼は一拍置いて言った。

「……おはようございます」

そして、昨日より少しだけ低い声で、続けた。

「……来てくれて、助かります」

助かります。
安全な言葉。
でも、目が違う。逃げる目じゃない。

私は荷物を置いて、椅子に座った。
そしてすぐ気づいた。

机の上に、カップが二つ置いてある。
いつもよりちゃんとしたカップ。
湯気が立っていて、甘い匂いがする。

「え……もう作ってたの?」

彼は頷いた。

「熱すぎないように……時間を逆算しました」

逆算。
可愛いの頂点に来た。

「それ、効率?」

私が笑うと、彼は一瞬だけ視線を泳がせ、それから珍しく――言い訳を探さなかった。

「……違います」

え。

「違うの?」

「……あなたが来たら、すぐ渡したかったので」

胸の奥が、静かに熱くなる。

渡したかった。
欲じゃん。
言い訳なしで、欲じゃん。

私はカップを両手で受け取った。
温度がちょうどいい。ミルク多め。甘い。

「ありがとう。……嬉しい」

“嬉しい”を、ちゃんと言葉にする。
彼の「足りない」を受け取ったんだから、私も隠さない。

彼は少しだけ目を伏せた。

「……よかった」

それだけ。
でも、その“よかった”が、昨日より確定している。

私たちはしばらく黙って飲んだ。
黙って飲めることが、すでに恋っぽい。

私は資料を広げた。

「じゃあ、在庫整理のリスト、作ってくれるんだよね」

彼は頷いて、紙束を差し出した。
数字と棚番号。淡々としているのに、なぜか優しい手つき。

「ここから先、順番に見ていけば終わります」

「うん。効率」

「……効率です」

ここは言った。
言ったけど、声が少し柔らかい。

棚を動かして、在庫を確認して、紙に丸をつけていく。
作業は地味なのに、変に心が落ち着く。

私は棚の奥の段を見ようとして、背伸びをした。

「……届かない」

その瞬間、彼が何も言わずに近づいて、私の横に手を伸ばした。
棚の上の箱を、すっと取る。

「はい」

「ありが――」

ありがとうと言いかけて、私は止めた。
昨日の彼の“帳尻”を思い出したから。

私は、代わりに言った。

「共同作業、助かります」

彼は一瞬固まって、それから小さく頷いた。

「……はい」

そして、箱を渡す時に、ほんの少しだけ手が触れた。

触れたのは一瞬。
でも、触れたまま離れないみたいに、胸の奥がじわっと熱くなる。

――増える。

今日の分が。
昨日より、確実に。

そう思ったところで、彼がぽつりと言った。

「……あの」

「ん?」

「……今日、どれくらいまで居られますか」

え。

それは、確認の形をした――欲だ。

私は一瞬、言葉を探した。
ここで軽く答えたら、彼はきっと「じゃあその時間内で最大効率を」と言い訳にする。
でも重く答えすぎたら、彼は怖がる。

私はちょうどいい熱で、言った。

「今日は、区切りがつくまで。あなたは?」

彼は少しだけ目を伏せる。

「……同じです」

同じです。
同じ、って言った。
対等の言葉。

私は笑って頷いた。

「じゃあ、区切りまで一緒にいる」

彼の喉が小さく動いた。

「……はい」

それだけ。
でも、それが昨日より強い返事だった。
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