今日の分を、あなたに

星乃和花

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第七話 「迎え」

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その日は、私は“奥”に行く前に、表のカウンターで少し手間取っていた。

朗読会が終わってから、なぜか「この店、落ち着く」と言って来るお客さんが増えた。
本を探す人と、ただ座って息をつく人。
そのどちらにも、私はなるべく同じ温度で声をかける。

「こちらの棚は、寄贈本なので――」
「今日のおすすめは、甘さ控えめです」
「お水、置きますね」

そうやって動いているうちに、奥の扉の存在が少し遠くなる。

――今日は、遅くなるかもしれない。

その瞬間、胸の奥がきゅっとする。
“来てほしい”と言われた言葉が、まだ温かいから。

私は最後のお客さんにお礼を言って、カップを洗い終えて、やっと奥の扉へ向かった。

……と。

扉の前に、彼がいた。

奥の人が、奥の外にいる。
その事実だけで、私は一瞬、立ち止まってしまった。

彼は壁に背をつけるように立っていて、手には紙コップがひとつ。
そして、私を見た途端、少しだけ息を吐いた。

「……おつかれさまです」

「おつかれさま。え、どうしたの?」

彼は一拍置いて、言った。

「……迎えに来ました」

迎え。

その言葉が胸に落ちる。
甘いのに、静かで、逃げ道がない。

「迎えに……?」

私が聞き返すと、彼は紙コップを差し出した。

「熱すぎないものです。……表の仕事が終わったら、飲んでほしいので」

言い訳がない。
“効率”がない。
ただの欲が、ちゃんと形になっている。

私は受け取って、両手で包んだ。

「……ありがとう。嬉しい」

彼の目が少しだけ揺れて、それから小さく頷く。

「……よかった」

“よかった”が、もう逃げない。

私は奥の扉を指さして、笑って言った。

「じゃあ、奥に行こ」

「……はい」

二人で奥へ入る。
その数歩が、いつもより近い。
歩幅の合わせ方が、もう“迎える”人のそれだ。

席に座ろうとすると、彼が先に椅子を引いた。

「あ、え……」

私が驚くと、彼は淡々と言う。

「……昨日、あなたが届かなかった棚があるので。今日は同じことが起きないように」

つまり、私を“困らせない”ために、先回りしてる。

「それ、効率?」

私が笑うと、彼はほんの少しだけ眉を寄せて――

「……違います」

また、違います。

私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、軽く言った。

「じゃあ、なに?」

彼は一拍置いて、目を逸らした。

「……迎え、です」

迎え、を繰り返す。
もう、今日の彼は逃げる気がない。

私はコップを一口飲んで、ふっと息を吐いた。
温度がちょうどいい。甘さもちょうどいい。

「観察、満点」

言った瞬間、しまったと思ったけど――
彼は今日は逃げなかった。

「……点数にしないでください」

淡々と言いながら、どこか柔らかい。

「ごめん。じゃあ、言い直す。……ありがとう。すごく、ちょうどいい」

“ちょうどいい”は、点数じゃない。
彼が大事にしている基準のほうだ。

彼は小さく頷いた。

「……ちょうどいい、を覚えるのが、今の僕の仕事です」

その言い方が、やけに真面目で。
私は笑いそうになって、でもちゃんと受け取った。

「うん。じゃあ私は、あなたが迎えに来たのを、受け取る練習する」

彼が一瞬、目を上げる。

「……迎えを、受け取る練習」

「うん。だって私、迎えられるの慣れてない」

ほんとは慣れてないわけじゃない。
ただ、迎えられると、嬉しくて怖い。
この恋が“本気”になる感じがするから。

彼は少し黙ってから、ぽつりと言った。

「……慣れなくていいです」

「え」

「……慣れなくていい。毎回、嬉しいって言ってください」

……え?

それ、もう主導じゃん。

私は思わず目を見た。

「それ、お願い?」

彼は頷いた。

「……お願いです」

お願い、を言った。
欲を、欲のまま出した。

私は胸の奥が熱くなって、でも平然を装って頷く。

「うん。言う」

言った瞬間、彼の肩がほんの少しだけ下がった。
安心したみたいに。

「……助かります」

最後に安全な言葉で締めるの、彼らしい。
でも今日は、そこに“逃げ”が混ざっていない。

私は資料を開いた。

「じゃあ、今日の区切り、どこにする?」

彼はすっと指で示した。

「ここまで。ここを終えたら、今日は終わりにしましょう」

「え、終わりを決めるの、あなた?」

「はい」

即答。
“終わり”を決めるのは、彼が私を守るための主導だ。

「……私が頑張りすぎないように?」

彼は一拍置いて頷いた。

「……はい。嫌なので」

嫌。
そこだけ、確定。

私は嬉しくて、少しだけ困って、笑ってしまった。

「分かった。じゃあ、あなたの主導に従います」

「……ありがとうございます」

言ったあとで、彼が付け足す。

「……その代わり」

代わり。
帳尻の匂いがして、私は身構える。

でも、彼の次の言葉は違った。

「……区切りがついたら、少しだけ外に出ませんか」

外。

それは、彼の“迎え”の続き。
表に出るのが苦手な彼が、自分から言う外。

私の心臓が少しだけ跳ねた。

「……いいの?」

「……混んでない時間帯を選びます」

最後に効率の皮をかぶせたけど、
目はもう、逃げていない。

「うん。行く」

私がそう言うと、彼は小さく頷いた。

「……予約、ありがとうございます」

予約。

可愛い言葉で、未来を確保する。

私は笑ってしまった。

「なにそれ」

彼は少し困った顔をして、でも言い直さない。

「……今日の分を、先に取っておきたかったので」

先に取っておきたかった。

その言葉が、胸に落ちた。
静かで、でも熱い。
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