今日の分を、あなたに

星乃和花

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第四話 「撤収後」

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朗読会が始まる前、僕の心臓はずっと落ち着かなかった。

やることは分かっている。
手順も決めた。
チェックリストも作った。
“失敗しないための努力”は十分にした。

それなのに、怖い。

理由は簡単だ。
人がいる。
評価がある。
空気が動く。

子どもの頃、家の中の空気が動くと、だいたい良くないことが起きた。
だから僕は空気が動かないようにしていた。
静かに。目立たず。迷惑をかけず。

今日も同じだ。

――迷惑をかけない。

それだけを胸に置いて、僕は淡々と準備を進めた。

彼女は受付で笑っていた。
人に話しかけ、頷き、目を合わせる。
周りの空気が柔らかくなる。

彼女のそういうところを見ていると、胸の奥が温かくなる。

同時に、少しだけ怖い。

彼女はみんなに必要とされる。
僕よりずっと、当たり前に。

朗読が終わって拍手が起きたとき、彼女がほっと息を吐いたのを見て、僕の胸も少しだけ軽くなった。

うまくいった。
迷惑をかけなかった。

……なのに、心臓が落ち着かない。

彼女が「ありがとう」と言ったからだ。

ありがとうは、点数じゃないと言い聞かせても、身体が反射する。
返さなきゃ。
帳尻を合わせなきゃ。

だから僕は、段ボールを取った。

「効率です」

言い訳を口にすると、少し楽になる。
欲しいと言うのは怖い。
でも、効率なら言っていい。

本当は、こう思っていた。

――重そうにしてほしくない。
――疲れた顔をしてほしくない。
――今日の分を、守りたい。

撤収が終わりに近づいた頃、彼女が言った。

「撤収後、飲み物、行く?」

約束だ。
メモにも書いた。
だから行く。効率だ。

でも、胸の奥では別の言葉がうるさい。

――行きたい。

行きたい、は怖い。
自分の欲を言うと、減点される気がする。
嫌な顔をされる気がする。

だから僕は、メモを指で押さえて言った。

「……予定通りです」

予定通り、と言えば、欲じゃない。
手順だ。共同作業だ。

彼女は笑って、「予定通り」と返した。
僕は少しだけ救われた。

外に出る準備をしていると、彼女が上着を探しているのが見えた。

僕は無言で、彼女のコートを取って差し出した。
その手が少し震えたのは、寒さじゃなくて――

こういうことをすると、僕の気持ちが見える気がするからだ。

「ありがとう」

彼女が言った。

僕は目を合わせずに答えた。

「……どういたしまして」

そして付け足したくなった。

“来てくれて助かった”の次の言葉。
“ありがとう”の次の言葉。

けれど、喉に引っかかって出ない。

代わりに、僕は言った。

「……熱すぎないものにしますか」

彼女がぱっと僕を見る。

「え、覚えてたの?」

覚えている。
ミルク多め。猫舌。熱すぎないのが好き。

それを覚えている自分が、少し怖い。
でも、嫌じゃない。

「……観察です」

彼女が笑った。

「観察、上手」

点数じゃない褒め方。
条件のない、軽い声。

僕の胸の針が、また少し丸くなる。
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