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第十話 「合図」
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私
朝、店のベルが鳴る音が、いつもより多かった。
天気のせいか、季節のせいか、理由は分からない。でも、こういう日はある。
――今日は、奥に行けるかな。
そう思った瞬間に、胸の奥がきゅっと鳴る。
自分でも分かる。私はもう、“奥に行く”を作業じゃなくて、今日の分として数えてしまっている。
カウンターに立って、注文を受けて、本を探して、返却をまとめて。
体は勝手に動くのに、心の一部だけがずっと扉のほうを向いている。
ふと、レジ横の小さな棚に、見慣れない付箋が置かれているのに気づいた。
白い付箋。文字は短い。
落ち着いたら、来て。
……え。
たったそれだけ。署名もない。言い訳もない。
でも、分かる。彼の字だ。整いすぎてて、息をしていないみたいに真っ直ぐな字。
私は付箋を指で押さえて、笑いそうになるのをこらえた。
表で忙しい私に、奥から手を伸ばしてきた。
“迎え”が、ここまで来た。
(落ち着いたら、来て)
――“来てほしい”を、急かさない形にしたんだ。
私はその優しさが嬉しくて、同時に少しだけ怖い。
彼の主導が、もう「予定通り」じゃない。
今、この瞬間に選んで出した言葉だからだ。
カウンター越しに店の人が小声で言った。
「さっき、彼がこれ置いてったよ。『見えたら嬉しい』って」
……見えたら嬉しい。
私は胸の奥があたたかくなって、付箋をそっと元の場所に戻した。
その場所は、お客さんからは見えにくい。
でも私には、ちゃんと見える。
「……うん。見えた。嬉しい」
小さく呟いて、私はまた仕事に戻った。
忙しさは消えない。
でも、呼吸は整う。
“落ち着いたら”があるだけで、
私は自分のペースで、奥へ向かう道を確保できる。
昼過ぎ、波が一度引いた。
私は手を拭いて、付箋を一度だけ見た。
そして、扉のほうに歩き出した。
*
扉の前に立つと、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かで、
私はノックの前に、ほんの少しだけ息を整えた。
コン、コン。
「……どうぞ」
扉を開けた瞬間、彼は机の前ではなく、壁際に立っていた。
最近増えた、あの位置。迎える位置。
「おつかれさま」
私が言うと、彼は一拍置いて頷いた。
「……落ち着きましたか」
「うん。落ち着いた」
言った瞬間、彼の肩がほんの少しだけ下がった。
安心したみたいに。
机の上に、粉が入ったカップが二つ。
湯はまだ注がれていない。
「……今日は、まだです」
彼が先に言った。
「熱すぎないように、あなたが来てからにしようと思って」
今日の分の温度が、私の到着に合わせて待機していた。
それが、なんだか胸にくる。
「……合図、見たよ」
私が言うと、彼の目が少しだけ揺れた。
「……見えましたか」
「見えた。嬉しかった」
“毎回、嬉しいって言ってください”
そのお願いを、私はちゃんと守る。
彼は小さく頷いて、それから、珍しく言い訳なしで言った。
「……僕も、嬉しいです」
え。
「僕も」って言った。
私だけじゃなくて、彼も。
私は胸の奥が静かに熱くなって、言葉が少し遅れる。
「……そっか」
彼は湯を注ぎながら、淡々と続けた。
「迎えに出るのは、今日は無理でした。人が多かったので」
「うん」
「でも……迎えたい気持ちは、消したくなかったので」
付箋。合図。
彼にとっての“迎え”の別形態。
私はカップを受け取って、両手で包んだ。
「迎え、受け取った」
彼は小さく頷いた。
「……迎え、できました」
その言い方が、今日はいちばん確定して聞こえた。
朝、店のベルが鳴る音が、いつもより多かった。
天気のせいか、季節のせいか、理由は分からない。でも、こういう日はある。
――今日は、奥に行けるかな。
そう思った瞬間に、胸の奥がきゅっと鳴る。
自分でも分かる。私はもう、“奥に行く”を作業じゃなくて、今日の分として数えてしまっている。
カウンターに立って、注文を受けて、本を探して、返却をまとめて。
体は勝手に動くのに、心の一部だけがずっと扉のほうを向いている。
ふと、レジ横の小さな棚に、見慣れない付箋が置かれているのに気づいた。
白い付箋。文字は短い。
落ち着いたら、来て。
……え。
たったそれだけ。署名もない。言い訳もない。
でも、分かる。彼の字だ。整いすぎてて、息をしていないみたいに真っ直ぐな字。
私は付箋を指で押さえて、笑いそうになるのをこらえた。
表で忙しい私に、奥から手を伸ばしてきた。
“迎え”が、ここまで来た。
(落ち着いたら、来て)
――“来てほしい”を、急かさない形にしたんだ。
私はその優しさが嬉しくて、同時に少しだけ怖い。
彼の主導が、もう「予定通り」じゃない。
今、この瞬間に選んで出した言葉だからだ。
カウンター越しに店の人が小声で言った。
「さっき、彼がこれ置いてったよ。『見えたら嬉しい』って」
……見えたら嬉しい。
私は胸の奥があたたかくなって、付箋をそっと元の場所に戻した。
その場所は、お客さんからは見えにくい。
でも私には、ちゃんと見える。
「……うん。見えた。嬉しい」
小さく呟いて、私はまた仕事に戻った。
忙しさは消えない。
でも、呼吸は整う。
“落ち着いたら”があるだけで、
私は自分のペースで、奥へ向かう道を確保できる。
昼過ぎ、波が一度引いた。
私は手を拭いて、付箋を一度だけ見た。
そして、扉のほうに歩き出した。
*
扉の前に立つと、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静かで、
私はノックの前に、ほんの少しだけ息を整えた。
コン、コン。
「……どうぞ」
扉を開けた瞬間、彼は机の前ではなく、壁際に立っていた。
最近増えた、あの位置。迎える位置。
「おつかれさま」
私が言うと、彼は一拍置いて頷いた。
「……落ち着きましたか」
「うん。落ち着いた」
言った瞬間、彼の肩がほんの少しだけ下がった。
安心したみたいに。
机の上に、粉が入ったカップが二つ。
湯はまだ注がれていない。
「……今日は、まだです」
彼が先に言った。
「熱すぎないように、あなたが来てからにしようと思って」
今日の分の温度が、私の到着に合わせて待機していた。
それが、なんだか胸にくる。
「……合図、見たよ」
私が言うと、彼の目が少しだけ揺れた。
「……見えましたか」
「見えた。嬉しかった」
“毎回、嬉しいって言ってください”
そのお願いを、私はちゃんと守る。
彼は小さく頷いて、それから、珍しく言い訳なしで言った。
「……僕も、嬉しいです」
え。
「僕も」って言った。
私だけじゃなくて、彼も。
私は胸の奥が静かに熱くなって、言葉が少し遅れる。
「……そっか」
彼は湯を注ぎながら、淡々と続けた。
「迎えに出るのは、今日は無理でした。人が多かったので」
「うん」
「でも……迎えたい気持ちは、消したくなかったので」
付箋。合図。
彼にとっての“迎え”の別形態。
私はカップを受け取って、両手で包んだ。
「迎え、受け取った」
彼は小さく頷いた。
「……迎え、できました」
その言い方が、今日はいちばん確定して聞こえた。
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