今日の分を、あなたに

星乃和花

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第九話 「待てる」

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夕方、ようやく表が落ち着いて、私は奥へ向かった。

扉の前に立って、少しだけ胸が跳ねる。
彼がどんな顔をしているか、怖い。
“待った”の痛みが、顔に出ていたらどうしよう。

私はノックした。

コン、コン。

「……どうぞ」

扉を開けると、彼は机の前にいた。
でも、立ち上がらない。
迎えに来ない。

一瞬、胸がきゅっとなる。

――あ、怒ってる?

と思った瞬間、彼がゆっくり顔を上げた。

そして、いつもの淡々とした声で言った。

「……おつかれさまです」

その目が、逃げていない。
疲れているのに、険しくない。

私は息を吐いた。

「おつかれさま。遅くなってごめんね」

彼は小さく首を振った。

「……先に言ってくれたので。大丈夫です」

その言い方が、少しだけ誇らしそうで。
私は胸の奥が熱くなる。

「……待てた?」

私は小さく聞いた。
点数じゃなく、確認でもなく、ただ聞きたかった。

彼は一拍置いて、頷いた。

「……待てました」

たったそれだけの言葉なのに、
彼が自分で自分を認めたみたいで、泣きそうになる。

私は笑って、でも声を丁寧にした。

「えらい」

言った瞬間、しまったと思った。
“えらい”は点数の匂いがする。

でも彼は、今日は逃げなかった。

「……えらい、で……いいです」

いいです、って。
受け取る許可を、自分で出した。

私は椅子に座って、そっと言い直す。

「じゃあ、言い直す。……嬉しい。待てたって言ってくれて」

彼の指が、カップの縁に触れる。
粉だけ入ったままの二つのカップ。

「……今から、ちょうどよくします」

彼は立ち上がって、湯を注いだ。
手つきが丁寧で、温度を測るみたいに少し待つ。

「熱すぎないように……遅くなる想定で」

「想定」

「……想定です」

言い訳みたいに言うのに、目は柔らかい。

カップが渡される。
温度が、ちょうどいい。
ミルク多め。甘さもちょうどいい。

今日の分が、遅れて届く。
でも、ちゃんと今日の分だ。

私は両手で包んで言った。

「ありがとう。迎え、受け取った」

彼は少しだけ目を伏せて、言った。

「……迎え、できました」

できました。
それは報告じゃなくて、確定みたいに聞こえた。

私は小さく笑った。

「じゃあ私も、報告。……遅くなったけど、来られた」

彼が頷く。

「……来てくれて、助かります」

助かります。
安全な言葉。
でもその奥に、ちゃんと“うれしい”がいる。

私は一口飲んで、静かに言った。

「ね。今日、行けなさそうになった瞬間、私も足りなくなるの怖かった」

彼の目が少しだけ揺れる。

「……あなたも?」

「うん。だから先に言った。逃げないために」

彼はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。

「……先に言ってくれるの、安心します」

安心。
その言葉が、胸に落ちる。

私は頷いた。

「じゃあ、これからも言う。遅くなる日も、来られない日も」

彼は一拍置いて、低い声で言った。

「……待ちます」

言い切った。
でも、そのあとに小さく付け足す。

「……待つだけじゃなくて。迎えも、します」

迎えも。

主導権が、また少しだけ彼の手に移る音がした。

私は笑って言った。

「うん。迎えられる」

彼は頷いて、いつものように淡々と――でも今日は少しだけ違う声で言った。

「……今日の分、遅くても、今日の分なので」

私はカップを握り直して、ちゃんと受け取るように頷いた。

「うん。遅い今日の分も、好き」

彼の耳が、ほんのり赤くなる。
でも逃げない。

「……明日も」

彼が言いかけて、止まる。
言い方を選んでいる。

そして、確認の形に包まずに言った。

「……明日も、来てほしいです」

言い訳なし。
お願いの形の、主導。

私は胸の奥が熱くなって、でも平然を装って答えた。

「うん。行くよ」

その返事に、彼の肩がほんの少しだけ下がった。

待てた。
迎えられた。
そして、次も言えた。

今日の分は、確かに増えていた。
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