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第2話 お茶の導線(“帰る場所”を作る)
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翌朝。
ミレアは、自分の部屋で目を覚まして——まず最初に思い出した。
(……手、離さなかった……)
昨夜の当主、レオニス。
机に突っ伏したまま眠って、毛布を掛けられて、手首を掴んで。
「行かないで」
あの声は、いまだに耳の奥に残っている。
ミレアは、軽く頬を叩いた。
(だめよ。可愛いとか、危ないとか、感情で動いたら負ける。私はメイド)
メイドは、生活を整える存在。
当主の心を整える、なんて言ったら、それは仕事の範囲を超えてしまう。
でも。
(……範囲って、誰が決めるのかしらね)
ミレアは鏡に向かって、ふわっと微笑んだ。
いつもの“無害な顔”。
波風を立てない、丸い目元。
そして、その内側で、静かに宣言する。
(孤独は放置厳禁。今日も囲う。優しく)
◆
朝食の時間。
屋敷のダイニングは広くて、音が吸われる。
椅子の引く音も、カトラリーの触れ合う音も、遠くの出来事みたいだった。
当主はもう席についていた。
「おはようございます、当主さま」
「……おはよう。ミレアさん」
眠そう。相変わらず。
けれど——ミレアは見逃さなかった。
当主の指に、ほんの少しだけ力が入っている。
机の端を撫でる癖。
なにかを考えすぎて、戻ってこれていない手つき。
(眠いんじゃない。“ひとりに戻ってる”のよ)
優しい人の眠そうは、だいたい心の“省エネ”だ。
自分を守るための、静かな防御。
ミレアは当主の斜め後ろに回って、そっとコーヒーの代わりに紅茶を置いた。
「紅茶でございます」
「……僕、頼んだっけ」
「いいえ。今朝は、紅茶が似合いそうでしたので」
「……そっか」
当主は否定しない。
受け取ってしまう。
そしてその受け取り方が、少しだけぎこちない。
(甘やかされ慣れてない人の受け取り方)
ミレアは内心で頷く。
こういう人は、何かを差し出すと、必ず“対価”を探そうとする。
申し訳なさそうに。
礼儀正しく。
優しさを、自分の負担に変えてしまう。
だから——
ミレアは最初から、逃げ道を用意する。
「飲まなくても大丈夫です。置いておくだけで」
当主はカップを見つめて、眉を少しだけ動かした。
「……置いておくだけ?」
「はい。“ある”ってだけで、心が落ち着くこともありますので」
当主は、ふっと笑った。
小さな笑いだった。
でもミレアの胸の内では、鐘が鳴る。
(効いてる)
囲い込みの第一歩は、“存在”を許可すること。
飲むかどうか、役に立つかどうか、そういう判断を外してあげる。
ただ、そこにある。
ただ、そこにいていい。
当主は、しばらくカップを眺めてから——小さく口をつけた。
ひと口。
それだけで、少し目元が柔らかくなる。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
ミレアはにこりと笑った。
その笑顔の下で、策士は淡々と次の工程へ進む。
(よし。“受け取る練習”、一回目)
◆
午前中。
ミレアは屋敷の中を回りながら、当主の動きを観察した。
書斎。廊下。寝室。書庫。庭。
当主は、どこにでも“ひとり”でいる。
けれど昨日と違う点がひとつある。
当主は、書斎に入る前に一度、廊下で止まって、ダイニングの方向を見た。
ほんの一瞬。
まるで、あそこに何かがあると確認するみたいに。
(帰れる場所の確認)
ミレアは気づかないふりをした。
気づいてしまうと、当主が引っ込めてしまうから。
人は、見られると恥ずかしくなる。
恥ずかしいと、またひとりに戻る。
囲い込みは、見えないくらいがちょうどいい。
◆
昼過ぎ。
書斎にお茶を運ぶと、当主は机に向かったまま、書類の間に沈んでいた。
眠そうな顔で、文字を追いかけている。
ミレアはそっと近づいた。
「当主さま。お茶でございます」
「……ありがとう」
昨日と同じ言葉。
でも今日は、昨日より少しだけ声が軽い。
ミレアはカップを置く位置を、また“ちょうどいいところ”に調整した。
当主の利き手の側。
机の端から少しだけ内側。
手を伸ばしたとき、紙の山にぶつからない距離。
当主はカップを見て、ぽつりと言った。
「……ミレアさんって、魔法みたいだね」
ミレアは瞬きをした。
(魔法……)
その言葉は、彼女の心の中で静かに点いた。
灯りみたいに。
でも、顔には出さない。
メイドは、あくまで無害でなければならない。
「魔法ではございません。慣れているだけで」
「……慣れてる、ってことは……今までにも、こういう人を?」
当主が、言いかけて止まる。
珍しい。
ミレアはすぐに答えない。
沈黙を少しだけ置いて、“会話の圧”を弱める。
そして、ふわっと柔らかく返した。
「……ええ。ひとりで頑張りすぎる人は、珍しくありませんので」
当主の指先が、ペンを回す。
目線が一度落ちる。
「……僕、頑張りすぎてる?」
来た。
この問いは、当主が自分で自分を見始めた証拠だ。
今までなら、「困らない」「大丈夫」で終わっていたはず。
ミレアは、甘い答えを用意する。
「はい」
即答。
当主の目が少し丸くなる。
「……即答なんだ」
「はい。即答です」
「……怒られた」
「怒っておりません。……ただ、囲いたいだけです」
ミレアは言ってから、しまったと思った。
(いま、言葉が素直すぎた)
囲いたい、なんて。
メイドが当主に言う言葉ではない。
けれど当主は、怒らなかった。
むしろ——少しだけ、困った顔をした。
眠そうな顔のまま。
「……囲うって、なに?」
「……毛布とか、お茶とか、灯りとかで」
「それ、監禁じゃない?」
当主の声は穏やかだった。
でも内容は、妙に鋭い。
ミレアは内心で感心する。
(出た。決める時だけ鋭い)
そして、微笑んで答える。
「はい。優しい監禁です」
「……こわいね、ミレアさん」
「こわくありません。逃げ道もございますので」
当主がカップを持つ。
少しだけ飲んで、そして、また机に戻る。
でもその動作は、昨日よりゆっくりだった。
急いでいない。
自分を削っていない。
ミレアは、心の中で小さく拍手した。
(受け取る練習、二回目)
◆
夜。
ミレアは書斎の前で足を止めた。
昨日と同じ時間。
同じ薄い光。
でも今日は、扉の向こうから聞こえるのは紙の音だけではなかった。
——湯気の音。
当主が、ポットを使っている。
(え……)
ミレアは思わず扉に耳を近づけた。
カップを置く音。
そして、ふっと息をつく音。
当主が自分でお茶を淹れている。
それは、ただの行動の変化ではない。
“ひとりで抱える癖”を、少しだけ変えた証拠。
自分に優しさを許した証拠。
ミレアはそっと息を吐いた。
(やっと、帰る導線ができた)
自分が淹れたお茶じゃなくてもいい。
自分が掛けた毛布じゃなくてもいい。
当主が“自分を守る方法”を覚えるなら。
それが、ミレアの望みだ。
——望みのはずだった。
でも、扉の向こうから、当主の眠そうな声が聞こえた。
「……ミレアさん」
呼ばれている。
ミレアは扉を開けた。
「はい。当主さま」
レオニスは机に向かったまま、こちらを振り返らずに言う。
「……昨日の毛布、今日も、ある?」
ミレアの胸が、きゅっとなる。
それは、欲しいと言ったのと同じだ。
甘やかしてほしい、と言ったのと同じだ。
受け取る練習は、もう練習じゃなくなり始めている。
ミレアは、いつもの無害な笑みで答えた。
「もちろんでございます。……囲いますね」
毛布を手に取る。
ふわっと広げる。
当主の背中に、優しく掛ける。
そして——
やっぱり、手だけは離さなかった。
今度は、眠っていないのに。
当主の指先が、ミレアの袖を、そっとつまんだ。
「……行かないで、って言ったら、困る?」
ミレアは、少しだけ目を丸くしてから、笑った。
「困りません」
すぐに答えると、当主の肩がふっと緩んだ。
まるで、許されたみたいに。
ミレアは思う。
(……あぁ。もう囲い込みは、作戦じゃなくなってる)
この人を冷たい空気から守りたい。
孤独を増やしたくない。
ただ、それだけ。
でも、当主の手が袖をつまむたびに。
ミレアの心は、少しずつ捕まっていく。
囲っているのは自分のはずなのに。
囲われているのは、どちらなのか。
その答えはまだ、夜の灯りの中に隠れていた。
ミレアは、自分の部屋で目を覚まして——まず最初に思い出した。
(……手、離さなかった……)
昨夜の当主、レオニス。
机に突っ伏したまま眠って、毛布を掛けられて、手首を掴んで。
「行かないで」
あの声は、いまだに耳の奥に残っている。
ミレアは、軽く頬を叩いた。
(だめよ。可愛いとか、危ないとか、感情で動いたら負ける。私はメイド)
メイドは、生活を整える存在。
当主の心を整える、なんて言ったら、それは仕事の範囲を超えてしまう。
でも。
(……範囲って、誰が決めるのかしらね)
ミレアは鏡に向かって、ふわっと微笑んだ。
いつもの“無害な顔”。
波風を立てない、丸い目元。
そして、その内側で、静かに宣言する。
(孤独は放置厳禁。今日も囲う。優しく)
◆
朝食の時間。
屋敷のダイニングは広くて、音が吸われる。
椅子の引く音も、カトラリーの触れ合う音も、遠くの出来事みたいだった。
当主はもう席についていた。
「おはようございます、当主さま」
「……おはよう。ミレアさん」
眠そう。相変わらず。
けれど——ミレアは見逃さなかった。
当主の指に、ほんの少しだけ力が入っている。
机の端を撫でる癖。
なにかを考えすぎて、戻ってこれていない手つき。
(眠いんじゃない。“ひとりに戻ってる”のよ)
優しい人の眠そうは、だいたい心の“省エネ”だ。
自分を守るための、静かな防御。
ミレアは当主の斜め後ろに回って、そっとコーヒーの代わりに紅茶を置いた。
「紅茶でございます」
「……僕、頼んだっけ」
「いいえ。今朝は、紅茶が似合いそうでしたので」
「……そっか」
当主は否定しない。
受け取ってしまう。
そしてその受け取り方が、少しだけぎこちない。
(甘やかされ慣れてない人の受け取り方)
ミレアは内心で頷く。
こういう人は、何かを差し出すと、必ず“対価”を探そうとする。
申し訳なさそうに。
礼儀正しく。
優しさを、自分の負担に変えてしまう。
だから——
ミレアは最初から、逃げ道を用意する。
「飲まなくても大丈夫です。置いておくだけで」
当主はカップを見つめて、眉を少しだけ動かした。
「……置いておくだけ?」
「はい。“ある”ってだけで、心が落ち着くこともありますので」
当主は、ふっと笑った。
小さな笑いだった。
でもミレアの胸の内では、鐘が鳴る。
(効いてる)
囲い込みの第一歩は、“存在”を許可すること。
飲むかどうか、役に立つかどうか、そういう判断を外してあげる。
ただ、そこにある。
ただ、そこにいていい。
当主は、しばらくカップを眺めてから——小さく口をつけた。
ひと口。
それだけで、少し目元が柔らかくなる。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
ミレアはにこりと笑った。
その笑顔の下で、策士は淡々と次の工程へ進む。
(よし。“受け取る練習”、一回目)
◆
午前中。
ミレアは屋敷の中を回りながら、当主の動きを観察した。
書斎。廊下。寝室。書庫。庭。
当主は、どこにでも“ひとり”でいる。
けれど昨日と違う点がひとつある。
当主は、書斎に入る前に一度、廊下で止まって、ダイニングの方向を見た。
ほんの一瞬。
まるで、あそこに何かがあると確認するみたいに。
(帰れる場所の確認)
ミレアは気づかないふりをした。
気づいてしまうと、当主が引っ込めてしまうから。
人は、見られると恥ずかしくなる。
恥ずかしいと、またひとりに戻る。
囲い込みは、見えないくらいがちょうどいい。
◆
昼過ぎ。
書斎にお茶を運ぶと、当主は机に向かったまま、書類の間に沈んでいた。
眠そうな顔で、文字を追いかけている。
ミレアはそっと近づいた。
「当主さま。お茶でございます」
「……ありがとう」
昨日と同じ言葉。
でも今日は、昨日より少しだけ声が軽い。
ミレアはカップを置く位置を、また“ちょうどいいところ”に調整した。
当主の利き手の側。
机の端から少しだけ内側。
手を伸ばしたとき、紙の山にぶつからない距離。
当主はカップを見て、ぽつりと言った。
「……ミレアさんって、魔法みたいだね」
ミレアは瞬きをした。
(魔法……)
その言葉は、彼女の心の中で静かに点いた。
灯りみたいに。
でも、顔には出さない。
メイドは、あくまで無害でなければならない。
「魔法ではございません。慣れているだけで」
「……慣れてる、ってことは……今までにも、こういう人を?」
当主が、言いかけて止まる。
珍しい。
ミレアはすぐに答えない。
沈黙を少しだけ置いて、“会話の圧”を弱める。
そして、ふわっと柔らかく返した。
「……ええ。ひとりで頑張りすぎる人は、珍しくありませんので」
当主の指先が、ペンを回す。
目線が一度落ちる。
「……僕、頑張りすぎてる?」
来た。
この問いは、当主が自分で自分を見始めた証拠だ。
今までなら、「困らない」「大丈夫」で終わっていたはず。
ミレアは、甘い答えを用意する。
「はい」
即答。
当主の目が少し丸くなる。
「……即答なんだ」
「はい。即答です」
「……怒られた」
「怒っておりません。……ただ、囲いたいだけです」
ミレアは言ってから、しまったと思った。
(いま、言葉が素直すぎた)
囲いたい、なんて。
メイドが当主に言う言葉ではない。
けれど当主は、怒らなかった。
むしろ——少しだけ、困った顔をした。
眠そうな顔のまま。
「……囲うって、なに?」
「……毛布とか、お茶とか、灯りとかで」
「それ、監禁じゃない?」
当主の声は穏やかだった。
でも内容は、妙に鋭い。
ミレアは内心で感心する。
(出た。決める時だけ鋭い)
そして、微笑んで答える。
「はい。優しい監禁です」
「……こわいね、ミレアさん」
「こわくありません。逃げ道もございますので」
当主がカップを持つ。
少しだけ飲んで、そして、また机に戻る。
でもその動作は、昨日よりゆっくりだった。
急いでいない。
自分を削っていない。
ミレアは、心の中で小さく拍手した。
(受け取る練習、二回目)
◆
夜。
ミレアは書斎の前で足を止めた。
昨日と同じ時間。
同じ薄い光。
でも今日は、扉の向こうから聞こえるのは紙の音だけではなかった。
——湯気の音。
当主が、ポットを使っている。
(え……)
ミレアは思わず扉に耳を近づけた。
カップを置く音。
そして、ふっと息をつく音。
当主が自分でお茶を淹れている。
それは、ただの行動の変化ではない。
“ひとりで抱える癖”を、少しだけ変えた証拠。
自分に優しさを許した証拠。
ミレアはそっと息を吐いた。
(やっと、帰る導線ができた)
自分が淹れたお茶じゃなくてもいい。
自分が掛けた毛布じゃなくてもいい。
当主が“自分を守る方法”を覚えるなら。
それが、ミレアの望みだ。
——望みのはずだった。
でも、扉の向こうから、当主の眠そうな声が聞こえた。
「……ミレアさん」
呼ばれている。
ミレアは扉を開けた。
「はい。当主さま」
レオニスは机に向かったまま、こちらを振り返らずに言う。
「……昨日の毛布、今日も、ある?」
ミレアの胸が、きゅっとなる。
それは、欲しいと言ったのと同じだ。
甘やかしてほしい、と言ったのと同じだ。
受け取る練習は、もう練習じゃなくなり始めている。
ミレアは、いつもの無害な笑みで答えた。
「もちろんでございます。……囲いますね」
毛布を手に取る。
ふわっと広げる。
当主の背中に、優しく掛ける。
そして——
やっぱり、手だけは離さなかった。
今度は、眠っていないのに。
当主の指先が、ミレアの袖を、そっとつまんだ。
「……行かないで、って言ったら、困る?」
ミレアは、少しだけ目を丸くしてから、笑った。
「困りません」
すぐに答えると、当主の肩がふっと緩んだ。
まるで、許されたみたいに。
ミレアは思う。
(……あぁ。もう囲い込みは、作戦じゃなくなってる)
この人を冷たい空気から守りたい。
孤独を増やしたくない。
ただ、それだけ。
でも、当主の手が袖をつまむたびに。
ミレアの心は、少しずつ捕まっていく。
囲っているのは自分のはずなのに。
囲われているのは、どちらなのか。
その答えはまだ、夜の灯りの中に隠れていた。
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