【霧の王太子は花の令嬢にほどける】冷徹王太子×天然令嬢:じれ甘×宮廷癒しファンタジー。

星乃和花

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第一章 星灯温室の邂逅

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 夜の霧が王宮の回廊をやわらかく噛み、音を吸いこんでいく。
 シリウス・ルミナは、星灯(せいとう)温室の扉を押し開けた。夜だけほの青く発光する苔が床に点々と灯り、ガラスの天蓋(てんがい)には薄い雲の流れが映っている。静寂は秩序だ。乱れない場所では、心もまた均される。彼はそう信じてきた。

 けれど今夜、その秩序の真ん中に、人影があった。

「こんばんは、殿下」

 淡い蜂蜜色の髪。泥のついた裾を気にしていない。小ぶりのランタンを下げたその令嬢は、まるでここが自室のような顔で温室中央の作業台を占領し、湯気を立てるポットの前に立っていた。

「ここは王族の私室扱いだ。誰の許可で」

「ミレイユ・クローバーです。許可は、星灯に。——ほら、明るい人に優しい場所でしょう?」

 理屈として成立していない。シリウスは眉間に浅い皺を寄せる。だがそれを気にした様子もなく、令嬢は銀のトレイにカップを二つのせ、すっと差し出した。

「“ご機嫌の魔法”です。まずは温まること。それから、眉間に住む小さなカラスを黙らせること」

「……小さな何を」

「カァっていうやつ。殿下のは賢そう。やや頑固そうでもあります」

 不敬といえば不敬だ。けれど、カップから立ちのぼる紅茶と温乳の混ざる香りは、霧の冷たさを溶かす種類の甘さだった。彼は受け取らないつもりだったのに、掌が先に動いた。
 温かい。指先に戻る血の気とともに、胸のうちで“律(りつ)”が微かにゆるむ。王族の魔法、秩序を描く幾何紋——それは感情の波立ちにも影響される。彼はそれを誰よりも知っている。

「……騒がしい。だが続けろ」

「はい。今日は“ご機嫌の作法”の第一歩です。温まること。誰かと分けること。そして——」

 彼女は彼の手帳をちらりと見た。革装の表紙。内側のびっしり詰まった予定。

「星印をつけること」

「星印?」

「“またやろう”の印です。空白がほとんどありませんね。霧に似ています。明かりを点ければ、そんなに怖くないのに」

 令嬢は笑い、ポケットから小さな金のしおりを取り出した。星型。
 彼は無言で手帳を閉じる。許可なく触れるべきではない。けれど言葉は喉の奥でほどけ、別の音になって出た。

「名を、もう一度」

「ミレイユ・クローバー。辺境クローバー家の、時々王都で迷子になる者です」

「迷子で王宮の私室に入るな」

「迷子になると灯りを探すでしょう? ここは夜でも灯るから」

 彼女は温室奥の大鉢へ歩いてゆく。縁にひびが入り、金色の接ぎ目が光る。金継ぎ——割れを隠さず、むしろ美に変える修繕。

「殿下。割れたからこそ、綺麗になるものもあります」

「王の器に割れは不要だ」

「器は割れますよ。人間が使うのですから。だから、直せるように作ってあります」

 ミレイユは隣の植え台に腰かけ、足をぶらぶらさせた。作法に反していない。裾は乱さず、背筋は伸びている。ただ、比喩が奔放で、ことばがよく跳ねる。

「殿下、少しだけ目を閉じてみませんか」

「断る」

「では半分だけ。片目だけ閉じて、音をよく聴いてみてください」

 彼は黙った。彼女は目を細め、どこか遠くを見るように息を吸い——小さな歌を口ずさみはじめた。言葉にならない高さと低さ、猫をあやす時のようなやわらかい節。
 温室の光苔が、歌に呼応するみたいにふ、と明るさを増す。シリウスの手の甲に、薄く刻まれた律紋が淡く光り、そして静まった。

 彼は自覚する。自分の“冷徹”は、ただの均しではない。痛みの上に乗せた重し。
 小歌が終わる。

「……今のは何だ」

「暮らしの魔法。おばあさまに教わりました。難しいことはできませんけれど、ご機嫌を取り戻すのは得意です」

「王家の律に干渉はするな」

「していません。殿下のご機嫌にお願いしただけです」

 ミレイユはさらりと言って、カップを指さした。「殿下、ふうふうはご自分でお願いします。わたしがやると、さすがに礼法違反ですから」

 ふいに、足元からにゃあと短い鳴き声がする。温室の猫——黒白の斑(ぶち)に金色の目。尾を高く掲げ、ミレイユの足首に頬を寄せる。

「ルク、こんばんは。殿下の眉間のカラス、今日は静か」

「おまえは誰と何を友にしている」

「殿下が眉を上げるたびに、ルクが“成功”って顔をするから、たぶん友達です」

 彼は思わず片眉を上げる。ミレイユが一人、控えめに拍手した。乾いた音が二度、霧に吸われる。
 滑稽だ。だが、悪くない。
 シリウスは、己の喉から出る声の調子が少しだけ和らいだのを感じ、ほんのわずか視線を落とした。

「ミレイユ・クローバー。王宮に出入りする以上、礼法を守れ。夜の独り歩きも控えろ」

「はい。では殿下、付き添ってください。夜の霧は迷子を増やします」

「命令するのは俺だ」

「命令、お待ちしています」

 彼女は屈託なく微笑んで、作業台の引き出しをそっと閉じる。中には金色の粉と糊、継ぎの道具。温室のひび割れた鉢がひとつ、またひとつ、美しく直されている。
 王宮ですら、誰かに直してもらっている——そんな当たり前に、彼は今まで気づかなかった。

「……今夜はここまでだ。部屋まで送る」

「はい、殿下。ではその前に、星印を」

 彼女は自分の手帳を開き、小さな星型のスタンプを捺す。にこり。
「本日の“またやろう”完了。殿下の分は——」

「いらない」

「そのうち勝ちます」

 扉までの短い距離。彼女はランタンの灯を掲げ、猫のルクが先導する。
 回廊に出ると霧はさらに濃く、灯りの粒が浮かぶように見えた。ミレイユは歩幅を合わせ、時々何かを拾ってはポケットに入れる。落ちた木の実、短い羽、欠けたボタン。

「拾い癖か」

「直せるものが好きで。割れた器は継げるし、紛れたボタンは縫えるし、寂しい人は——」

 彼女はそこまで言って、言葉を飲みこんだ。足元の石畳が、ほんのわずか湿って光る。
 彼は黙って先を歩き、踵(きびす)を返す。短く言う。

「泣くな。命令だ」

「泣いていません。ただ、わたしの中に住んでいる小さな雨雲が、気圧の影響で」

「……説明が長い」

「すみません。でも、殿下が今のを言うと、雨雲はよく乾きます」

 宮廷の客間棟の角まで来たとき、遠くで鐘が一つ鳴った。
 彼は立ち止まり、ミレイユに向き直る。

「明日の朝、宰相代理と会う。“情は害”と繰り返す男だ」

「蜂蜜菓子を持っていきましょう。舌が甘くなると、言葉が丸くなります」

「会議に茶会を持ち込むな」

「おやつは武器ではなく、防具です」

 彼は息を小さく吐いた。笑ったのかもしれない。自分でも判別できないほどの変化。
 ミレイユは会釈し、扉の前でくるりと振り向いた。

「殿下。星灯温室のひびは、だいたい直りました。あとは——」

「何だ」

「殿下の手帳の空白。ほんの少しでいいので、わたしに借りてください」

「理由は」

「“またやろう”の印を、ふたりで増やしたいから」

 扉が閉まる。霧がため息のように流れ込む。
 残された彼の指先には、まだ微かな温かさが残っていた。紅茶の、彼女の、そして歌の余韻。

 星灯温室へ戻る。猫のルクが先回りして、金継ぎの鉢の横に転がる小さな布包みを見上げた。開くと、淡い色の糸と、星型の小さな刺繍枠。短い紙片が添えられている。

——殿下のマントのほつれ、次にほどけたら、これで。
——ミレイユ

 シリウスは布包みを握り、ふと天蓋越しの雲を見る。
 静寂は秩序だ。だが、温もりが混ざる静寂は、もっと強い。自分が知らなかった種類の強さ。彼はそれを観察に付し、ゆっくりと目を閉じた。

 霧の奥で、光苔が一つ、二つ、また灯る。
 ——星印。彼の手帳の空白に、その言葉が微かに浮かんでは消えた。
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