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第3話 棘の言葉と、理不尽な通告
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その日は、いつもより少しだけ慌ただしく始まった。
「ミラ、これ、今日から出す新商品ね。表示と陳列、お願いできる?」
バックヤードに入るなり、店長が大きな木箱を指さした。
蓋を開けると、香ばしい匂いがふわっと広がる。
「……ナッツの焼き菓子、でしょうか」
「そう。“星屑ナッツタルト”だ。うちの本部が推してる新作でね。アレルギー表示は特に気をつけるようにって言われてる。表示の紙と注意書きはここにある」
店長は束ねられた紙を差し出す。
細かい文字で、原材料、注意事項、アレルギーに関する文言がびっしりと並んでいた。
「最初に下書きして、最終確認はヴェラに頼んで。……わかった?」
「はい」
ミラは紙束を胸に抱き、こくりとうなずく。
アレルギー表示。
それは、ミラにとっても特別に重たい言葉だった。
小さいころ、仲の良かった子が、知らずに食べたお菓子で酷く苦しんだことがある。
泣きながら「こわい」と言っていた顔は、今でも忘れられない。
(気をつけよう)
胸の奥でそっとそう決めて、ミラは売場へ向かった。
◇
焼き菓子の棚の前。
昨日まで並んでいた商品を少しずつ下げて、新しいタルトの場所を作る。
「……ここなら、きっと手に取りやすい」
目線より少し下。
子どもも、大人も、立ち止まりやすい高さ。
ミラは商品の箱を一つ取り上げ、ラベルを読み込む。
原材料名と、アレルギーに関する注意書き。
それを、自分の言葉に置き換えるようにして、POP用紙にペンを走らせた。
『星屑ナッツタルト
香ばしい木の実が、たっぷり。
ナッツをふんだんに使ったお菓子です。』
その下に、少し小さな字で。
『※ナッツアレルギーのある方は、お控えください』
ペン先を置き、深呼吸をひとつ。
「……よし」
自分なりに、伝えるべきことは入れたつもりだ。
ただ、最終的にどう見せるかは、まだ決められない。
「ヴェラさんに見ていただいてから、貼ろう」
ミラはPOP用紙を軽く揃え、バックヤードへ向かおうと売場を離れた。
◇
バックヤードでは、ヴェラがちょうど鏡の前で髪を整えているところだった。
「ヴェラさん、新しいタルトの表示、下書きできました。確認していただけますか?」
「んー?」
ヴェラは小さく返事をして、片手で髪をまとめながら、もう片方の手で紙を受け取る。
「ちょっと待ってね。……今日、星市の店割りのことで店長に話さなきゃいけないし、その前に――あ、やだ。メッセージ来てるじゃない」
机の上に置かれた小さな魔導板が光る。
ヴェラは紙を机にぽんと置き、そちらに手を伸ばした。
「すみません、アレルギー表示のところだけでも……」
「大丈夫よ、ちゃんと見るから。……ねえ見て、このスタンプ可愛い~」
ミラの声は、軽い笑い声に飲まれていく。
紙束は、鏡の横の棚に、他の書類と一緒に重ねられた。
ミラは少し不安になりながらも、邪魔をしてはいけない気がして、口をつぐむ。
(開店前には、きっと確認してくれる。……大丈夫)
そう自分に言い聞かせ、売場に戻ってタルトの箱を運び続けた。
◇
やがて開店の鐘が鳴り、店内に客が入り始める。
午前のピークを過ぎた頃。
焼き菓子の棚の前で、小さな男の子と母親らしき女性が立ち止まっていた。
「ママ、これ、星がのってる!」
「本当だね。……あ、でも、ナッツ入ってるかな」
女性は、箱の裏の原材料表示を読み始める。
その横で、別のスタッフが通りかかり、何気なくPOPに目を落とした。
『星屑ナッツタルト
香ばしい木の実が、たっぷり。
ナッツをふんだんに使ったお菓子です。』
と、そこまではミラの書いた通りだった。
だが、その下に続く文言は――
見覚えのある「別の商品の注意書き」に差し替わっていた。
『※ナッツアレルギーの方にも安心してお召し上がりいただけます』
「……え?」
スタッフは思わず二度見する。
箱の裏には、はっきりと「ナッツを含みます」の表記。
POPには、「ナッツアレルギーでも安心」という文字。
「ちょっと待ってください」
スタッフは慌てて親子に声をかけた。
「こちらの商品、ナッツがたくさん入っています。もしアレルギーがあれば、別の商品をおすすめさせてください」
「えっ……あ、そうなんですか?」
女性は驚いた顔をして箱を見直し、青ざめたように息をついた。
「危なかった……この子、ナッツだめで」
「申し訳ありません、表示が紛らわしくて……」
スタッフは客に深く頭を下げながら、心の中で冷や汗を流す。
(どうして、こんな表示に……?)
その疑問は、すぐに店の中を駆け巡った。
◇
バックヤード。
呼び出しを受けたミラは、少し震える足で入っていく。
そこには、店長とヴェラ、そして先ほどのスタッフが揃っていた。
「ミラ。……新商品の表示について、話をしよう」
店長の声は低く、いつになく硬い。
「先ほど、お客様から指摘があった。『ナッツアレルギーでも安心』と書かれたPOPが、ナッツ入り商品に付いていたと」
「あの……」
ミラは目を丸くする。
「わ、わたし、注意書きは『お控えください』って書いて――」
「その下書きは、見たよ」
ヴェラが口を挟む。
さっきまでの柔らかい調子とは違う、少しだけ冷たい響き。
「でも、あなた、『どっちがいいですか?』って聞いたでしょ? “アレルギーでも安心って書いた方が売れるかも”って」
「え……?」
ミラの頭が真っ白になる。
そんなことは言っていない。
けれど、言葉が出てこない。
「わ、わたしは、『控えてください』って――」
「そうね、最初はそう書いてた。わたしは、“それだと怖がらせすぎるかもね”って言っただけ。最終的に書き換えたのは、あなたでしょ?」
ヴェラは、紙束をひらりと掲げる。
そこには、ミラの筆跡で書かれた文と、その上から別の文言が書き直された跡があった。
だが、それは――
ヴェラが自分の筆で上書きしたものだと、ミラは知っている。
それでも、証明する術はなかった。
誰も、その瞬間を見てはいないのだから。
「店長」
ヴェラは、少しだけ悲しそうな顔を作ってみせる。
「わたし、止めたんです。『アレルギーのことは慎重にね』って。……でも、“こう書いた方が売れるから”って、ミラが」
「そんな……」
ミラの声は、空気の中で薄くほどけた。
スタッフが一人、口を開きかけて、すぐに閉じる。
自分が見たのは、もう書かれたあとのPOPだけ。
どちらの言い分が正しいか、断言できない。
店長は、深く息を吐いた。
「真相がどうであれだ。結果として、この店で重大な表示ミスが起こりかけたのは事実だ。……対外的には、“未然に防いだ”という形で報告するが」
硬い視線が、ミラに向けられる。
「ミラ。君は、細かいところに気がつく。丁寧に仕事をする。それは、わかっている」
「……ありがとうございます」
「だが、その“こだわり”が、今回のような事態に繋がった可能性も否定できない」
「え……?」
「君は、自分のこだわりを優先して、判断を迷わせすぎる。売場にとって必要なのは、“わかりやすさ”だ。お客様にも、スタッフにも」
店長の言葉が、一つ一つ、石のように重く落ちていく。
「だから――」
短い沈黙。
「もう君の“こだわり”は、この店には必要ない」
ミラの中で、何かが音を立ててひび割れた。
必要、ない。
その言葉だけが、やけにはっきりと耳に残る。
「本日付けで、雇用契約を終了する。……荷物をまとめて、受付で手続きをしてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ミラは慌てて一歩前に出た。
「わたし、本当に、『お控えください』って書いたんです。ヴェラさんが、その……」
「ミラ」
店長はかぶせるように言葉を重ねた。
「これ以上、誰かのせいにするのはやめなさい。……君は、いい子だ。真面目で、よく働いた。それは認める。しかし、店としては、これ以上リスクを取れない」
優しさにも似た口調。
だが、その中身は、冷たい結論だった。
ヴェラは横で、気の毒そうな顔だけを作っている。
「ごめんね、ミラ。わたし、もっとちゃんと見てあげればよかったのかも」
その言葉が、余計に胸を締め付けた。
ミラは、もう何も言えなかった。
自分の声が、何も届いていないことに、気づいてしまったから。
◇
ロッカーから荷物を出し、エプロンを畳んで返す。
周りのスタッフたちは、遠巻きに様子をうかがいながらも、誰も近づいてこない。
忙しさと、何かに巻き込まれたくない気持ちが、うっすらとした壁を作っている。
「……お世話になりました」
受付に頭を下げ、形だけの書類に署名をする。
手が、少し震えていた。
だが、涙はまだ出てこない。
何かを感じる前に、すべてが終わってしまったようだった。
店の自動扉が開く。
外の光が、やけに眩しい。
ミラは、少しだけ俯いて店を出た。
◇
その日の夕方。
いつもの癖で、ミラの足は自然と階段を上っていた。
もう、従業員ではないのに。
屋上への扉は重い。
手が震えて、押し開けるのに少し時間がかかる。
ようやく外に出ると、空は藍色に染まり始めていた。
街の灯りがぽつぽつと点き、遠くの方には、他の店の看板が見える。
高い場所から見るそれは、どこか他人事のようだった。
ミラは、フェンスのそばまで歩き、両手で柵を握る。
「…………」
胸の奥に、さっきの言葉が、何度も何度も反響していた。
――もう君の“こだわり”は、この店には必要ない。
必要ない。
必要とされていない。
その二つの意味が、少しもつれて、鋭い棘になっている。
(わたし……)
ここで、ずっと頑張ってきた。
売場の空気を、少しでも柔らかくしたくて。
誰かの今日が、少しだけ楽になればいいと願って。
でも、その積み重ねは、
紙の上の一行で、あっさりと切られてしまった。
柵を握る手に、力が入る。
爪が白くなるほど握りしめても、胸の苦しさは少しも和らがない。
「……忘れられないんです」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「こびりついたみたいに、言葉の棘が残っていて」
誰もいない屋上で、ようやく声が震えた。
空を見上げる。
雲の切れ間から、いくつかの星が顔を出し始めている。
「笑ってほしくて、並べてきたのにな」
自分の言葉が、自分に突き刺さるみたいで、苦笑いがこぼれた。
風が頬をなでる。
涙が一筋、そこを伝って落ちた。
かすかな星の粉が、屋上の床で揺れる。
それは、誰も見ていないのに、ミラの足元だけを静かに照らしていた。
けれど、その灯りすらも、ミラ自身は気づかない。
胸の中の棘が、まだ抜けなくて。
「必要とされていない」という言葉が、
彼女の世界を静かに閉ざし始めていたから。
それでも――
遠く離れた別の街で、その小さな灯りを探している男がいることを、
このときのミラはまだ知らない。
夜は、少しずつ、深くなっていった。
「ミラ、これ、今日から出す新商品ね。表示と陳列、お願いできる?」
バックヤードに入るなり、店長が大きな木箱を指さした。
蓋を開けると、香ばしい匂いがふわっと広がる。
「……ナッツの焼き菓子、でしょうか」
「そう。“星屑ナッツタルト”だ。うちの本部が推してる新作でね。アレルギー表示は特に気をつけるようにって言われてる。表示の紙と注意書きはここにある」
店長は束ねられた紙を差し出す。
細かい文字で、原材料、注意事項、アレルギーに関する文言がびっしりと並んでいた。
「最初に下書きして、最終確認はヴェラに頼んで。……わかった?」
「はい」
ミラは紙束を胸に抱き、こくりとうなずく。
アレルギー表示。
それは、ミラにとっても特別に重たい言葉だった。
小さいころ、仲の良かった子が、知らずに食べたお菓子で酷く苦しんだことがある。
泣きながら「こわい」と言っていた顔は、今でも忘れられない。
(気をつけよう)
胸の奥でそっとそう決めて、ミラは売場へ向かった。
◇
焼き菓子の棚の前。
昨日まで並んでいた商品を少しずつ下げて、新しいタルトの場所を作る。
「……ここなら、きっと手に取りやすい」
目線より少し下。
子どもも、大人も、立ち止まりやすい高さ。
ミラは商品の箱を一つ取り上げ、ラベルを読み込む。
原材料名と、アレルギーに関する注意書き。
それを、自分の言葉に置き換えるようにして、POP用紙にペンを走らせた。
『星屑ナッツタルト
香ばしい木の実が、たっぷり。
ナッツをふんだんに使ったお菓子です。』
その下に、少し小さな字で。
『※ナッツアレルギーのある方は、お控えください』
ペン先を置き、深呼吸をひとつ。
「……よし」
自分なりに、伝えるべきことは入れたつもりだ。
ただ、最終的にどう見せるかは、まだ決められない。
「ヴェラさんに見ていただいてから、貼ろう」
ミラはPOP用紙を軽く揃え、バックヤードへ向かおうと売場を離れた。
◇
バックヤードでは、ヴェラがちょうど鏡の前で髪を整えているところだった。
「ヴェラさん、新しいタルトの表示、下書きできました。確認していただけますか?」
「んー?」
ヴェラは小さく返事をして、片手で髪をまとめながら、もう片方の手で紙を受け取る。
「ちょっと待ってね。……今日、星市の店割りのことで店長に話さなきゃいけないし、その前に――あ、やだ。メッセージ来てるじゃない」
机の上に置かれた小さな魔導板が光る。
ヴェラは紙を机にぽんと置き、そちらに手を伸ばした。
「すみません、アレルギー表示のところだけでも……」
「大丈夫よ、ちゃんと見るから。……ねえ見て、このスタンプ可愛い~」
ミラの声は、軽い笑い声に飲まれていく。
紙束は、鏡の横の棚に、他の書類と一緒に重ねられた。
ミラは少し不安になりながらも、邪魔をしてはいけない気がして、口をつぐむ。
(開店前には、きっと確認してくれる。……大丈夫)
そう自分に言い聞かせ、売場に戻ってタルトの箱を運び続けた。
◇
やがて開店の鐘が鳴り、店内に客が入り始める。
午前のピークを過ぎた頃。
焼き菓子の棚の前で、小さな男の子と母親らしき女性が立ち止まっていた。
「ママ、これ、星がのってる!」
「本当だね。……あ、でも、ナッツ入ってるかな」
女性は、箱の裏の原材料表示を読み始める。
その横で、別のスタッフが通りかかり、何気なくPOPに目を落とした。
『星屑ナッツタルト
香ばしい木の実が、たっぷり。
ナッツをふんだんに使ったお菓子です。』
と、そこまではミラの書いた通りだった。
だが、その下に続く文言は――
見覚えのある「別の商品の注意書き」に差し替わっていた。
『※ナッツアレルギーの方にも安心してお召し上がりいただけます』
「……え?」
スタッフは思わず二度見する。
箱の裏には、はっきりと「ナッツを含みます」の表記。
POPには、「ナッツアレルギーでも安心」という文字。
「ちょっと待ってください」
スタッフは慌てて親子に声をかけた。
「こちらの商品、ナッツがたくさん入っています。もしアレルギーがあれば、別の商品をおすすめさせてください」
「えっ……あ、そうなんですか?」
女性は驚いた顔をして箱を見直し、青ざめたように息をついた。
「危なかった……この子、ナッツだめで」
「申し訳ありません、表示が紛らわしくて……」
スタッフは客に深く頭を下げながら、心の中で冷や汗を流す。
(どうして、こんな表示に……?)
その疑問は、すぐに店の中を駆け巡った。
◇
バックヤード。
呼び出しを受けたミラは、少し震える足で入っていく。
そこには、店長とヴェラ、そして先ほどのスタッフが揃っていた。
「ミラ。……新商品の表示について、話をしよう」
店長の声は低く、いつになく硬い。
「先ほど、お客様から指摘があった。『ナッツアレルギーでも安心』と書かれたPOPが、ナッツ入り商品に付いていたと」
「あの……」
ミラは目を丸くする。
「わ、わたし、注意書きは『お控えください』って書いて――」
「その下書きは、見たよ」
ヴェラが口を挟む。
さっきまでの柔らかい調子とは違う、少しだけ冷たい響き。
「でも、あなた、『どっちがいいですか?』って聞いたでしょ? “アレルギーでも安心って書いた方が売れるかも”って」
「え……?」
ミラの頭が真っ白になる。
そんなことは言っていない。
けれど、言葉が出てこない。
「わ、わたしは、『控えてください』って――」
「そうね、最初はそう書いてた。わたしは、“それだと怖がらせすぎるかもね”って言っただけ。最終的に書き換えたのは、あなたでしょ?」
ヴェラは、紙束をひらりと掲げる。
そこには、ミラの筆跡で書かれた文と、その上から別の文言が書き直された跡があった。
だが、それは――
ヴェラが自分の筆で上書きしたものだと、ミラは知っている。
それでも、証明する術はなかった。
誰も、その瞬間を見てはいないのだから。
「店長」
ヴェラは、少しだけ悲しそうな顔を作ってみせる。
「わたし、止めたんです。『アレルギーのことは慎重にね』って。……でも、“こう書いた方が売れるから”って、ミラが」
「そんな……」
ミラの声は、空気の中で薄くほどけた。
スタッフが一人、口を開きかけて、すぐに閉じる。
自分が見たのは、もう書かれたあとのPOPだけ。
どちらの言い分が正しいか、断言できない。
店長は、深く息を吐いた。
「真相がどうであれだ。結果として、この店で重大な表示ミスが起こりかけたのは事実だ。……対外的には、“未然に防いだ”という形で報告するが」
硬い視線が、ミラに向けられる。
「ミラ。君は、細かいところに気がつく。丁寧に仕事をする。それは、わかっている」
「……ありがとうございます」
「だが、その“こだわり”が、今回のような事態に繋がった可能性も否定できない」
「え……?」
「君は、自分のこだわりを優先して、判断を迷わせすぎる。売場にとって必要なのは、“わかりやすさ”だ。お客様にも、スタッフにも」
店長の言葉が、一つ一つ、石のように重く落ちていく。
「だから――」
短い沈黙。
「もう君の“こだわり”は、この店には必要ない」
ミラの中で、何かが音を立ててひび割れた。
必要、ない。
その言葉だけが、やけにはっきりと耳に残る。
「本日付けで、雇用契約を終了する。……荷物をまとめて、受付で手続きをしてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ミラは慌てて一歩前に出た。
「わたし、本当に、『お控えください』って書いたんです。ヴェラさんが、その……」
「ミラ」
店長はかぶせるように言葉を重ねた。
「これ以上、誰かのせいにするのはやめなさい。……君は、いい子だ。真面目で、よく働いた。それは認める。しかし、店としては、これ以上リスクを取れない」
優しさにも似た口調。
だが、その中身は、冷たい結論だった。
ヴェラは横で、気の毒そうな顔だけを作っている。
「ごめんね、ミラ。わたし、もっとちゃんと見てあげればよかったのかも」
その言葉が、余計に胸を締め付けた。
ミラは、もう何も言えなかった。
自分の声が、何も届いていないことに、気づいてしまったから。
◇
ロッカーから荷物を出し、エプロンを畳んで返す。
周りのスタッフたちは、遠巻きに様子をうかがいながらも、誰も近づいてこない。
忙しさと、何かに巻き込まれたくない気持ちが、うっすらとした壁を作っている。
「……お世話になりました」
受付に頭を下げ、形だけの書類に署名をする。
手が、少し震えていた。
だが、涙はまだ出てこない。
何かを感じる前に、すべてが終わってしまったようだった。
店の自動扉が開く。
外の光が、やけに眩しい。
ミラは、少しだけ俯いて店を出た。
◇
その日の夕方。
いつもの癖で、ミラの足は自然と階段を上っていた。
もう、従業員ではないのに。
屋上への扉は重い。
手が震えて、押し開けるのに少し時間がかかる。
ようやく外に出ると、空は藍色に染まり始めていた。
街の灯りがぽつぽつと点き、遠くの方には、他の店の看板が見える。
高い場所から見るそれは、どこか他人事のようだった。
ミラは、フェンスのそばまで歩き、両手で柵を握る。
「…………」
胸の奥に、さっきの言葉が、何度も何度も反響していた。
――もう君の“こだわり”は、この店には必要ない。
必要ない。
必要とされていない。
その二つの意味が、少しもつれて、鋭い棘になっている。
(わたし……)
ここで、ずっと頑張ってきた。
売場の空気を、少しでも柔らかくしたくて。
誰かの今日が、少しだけ楽になればいいと願って。
でも、その積み重ねは、
紙の上の一行で、あっさりと切られてしまった。
柵を握る手に、力が入る。
爪が白くなるほど握りしめても、胸の苦しさは少しも和らがない。
「……忘れられないんです」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「こびりついたみたいに、言葉の棘が残っていて」
誰もいない屋上で、ようやく声が震えた。
空を見上げる。
雲の切れ間から、いくつかの星が顔を出し始めている。
「笑ってほしくて、並べてきたのにな」
自分の言葉が、自分に突き刺さるみたいで、苦笑いがこぼれた。
風が頬をなでる。
涙が一筋、そこを伝って落ちた。
かすかな星の粉が、屋上の床で揺れる。
それは、誰も見ていないのに、ミラの足元だけを静かに照らしていた。
けれど、その灯りすらも、ミラ自身は気づかない。
胸の中の棘が、まだ抜けなくて。
「必要とされていない」という言葉が、
彼女の世界を静かに閉ざし始めていたから。
それでも――
遠く離れた別の街で、その小さな灯りを探している男がいることを、
このときのミラはまだ知らない。
夜は、少しずつ、深くなっていった。
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