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第2話 見えない功労者ミラ
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その日も、朝一番に店に入ったのはミラだった。
まだ開店の鐘が鳴る前。
照明は半分だけ点き、店内には冷たい空気が残っている。
「……おはようございます」
誰もいない売場に、小さな声で挨拶をする。
癖のようなものだ。答えてくれる人はいないのに、それを言わないと、一日が始まらない気がしていた。
鍵を開けてバックヤードに入ると、伝票と新商品の箱が積み上がっている。
「今日は……焼き菓子と、ジャムと、香辛料の棚……」
指で一つずつ箱に触れながら、ミラは頭の中で売場の地図を描く。
どの棚のどの段に、どんな客が立ち止まるのか。
昨日、誰がどこで悩んでいたのか。
そういう“跡”を、なぞるように思い出していく。
手書きのPOP用紙と、色鉛筆を抱えて、売場へ出た。
◇
開店前の棚は、いつ見ても、少しだけ寂しい。
きちんと並んではいる。
商品間の感覚も、マニュアル通りに保たれている。
けれど、そこにはまだ、今日の客の気配がない。
「……ここ、昨日、たくさん立ち止まってくれてたな」
ハーブティーの棚の前。
疲れた顔をした人が、ラベルをじっと眺めていたのを思い出す。
ミラは膝をつき、手帳を開いた。
小さな文字で書き込まれたメモが並んでいる。
『夕方、仕事帰りの人が多い。目の下に隈あり。』
『「眠れるお茶はどれ?」と聞かれた』
『香りが強いものは、棚の下段にまとめたほうがいいかも』
「今日は、“頑張ったあと”のお茶、前に出そうかな」
そうひとりごちて、棚の奥から別の茶葉を引き出す。
“頑張るためのお茶”ではなく、“頑張ったあとのお茶”。
それを、目線の少し下くらいの高さに置いた。
その横に、POPを一枚。
ペン先を慎重に動かす。
『今日も一日、お疲れさまでした』
文字の端に、小さな星印を三つ添える。
「……うん」
ペンを置いて、一歩引く。
棚全体を眺めて、首を傾げた。
「ここに、もう少しだけ余白がほしいかも」
ぎゅうぎゅうに詰まっている箱を、少しだけ後ろへ下げる。
空いたスペースに、白い板を立てかけると、そこに光が集まるように見えた。
ぱらぱら、と。
誰にも聞こえないほど小さな音で、星の粉が棚の上に舞い落ちる。
ミラは、それが見えているのかどうか、自分でもよくわからない。
ただ、その瞬間に胸の奥が少し軽くなるので、「あ、これでいいんだ」と感じるだけだ。
◇
「ミラ、そっちはどう?」
後ろから、明るい声が飛んできた。
ヴェラだ。
今日もきっちりと巻いた髪に、鮮やかな色の口紅。
まだ開店前だというのに、すでに“売場の顔”としての準備は整っている。
「ハーブティーは、あと一列で終わります」
「そう。じゃあ、そのあと焼き菓子の棚もお願いできる? 昨日、店長から“ジャムとの組み合わせが良かった”って褒められたの。わたしのアイデア、大当たりだったみたい」
「……はい」
ミラは少しだけ目を瞬かせてから、微笑みをつくった。
ジャムと焼き菓子を近くに置いたのは、ミラの提案だった。
「おやつの時間を想像しやすいように」と、こっそり試してみた組み合わせ。
それがどう伝わったのかは、もう知っている。
「今度の会議でね、『売場責任者の工夫がよく見える』って報告するつもりなの。だから、今日も“いい感じ”に頼むわね」
ヴェラはにこりと笑い、パンッと手を叩く。
「さ、ちゃちゃっと片付けて。開店まであんまり時間ないんだから」
「はい。……“いい感じ”に」
ミラは復唱しながら、焼き菓子の棚に向かった。
“いい感じ”という言葉は、少しだけ苦手だ。
それは曖昧で、人によってまったく違うものを指す。
でも、ヴェラはいつも、そう言う。
――“いい感じにやって”
それはつまり、「結果が良ければ私の手柄。悪ければあなたの責任」という意味なんだろう、と、最近になってやっと気づいた。
気づいてしまったけれど、仕事をやめようとは思えなかった。
この棚を整えて、誰かがふっと笑う瞬間を見るのが、好きだから。
◇
焼き菓子の箱を開けると、甘い香りがふわりと広がる。
今日は、季節の果物を使ったタルトが入っていた。
「わあ……おいしそう」
つい本音が漏れる。
誰にも聞こえていないはずなのに、箱の中の焼き菓子が、少し誇らしげに見えた。
ミラはそれを丁寧に並べる。
ラベルの文字を上に向けて、種類ごとの色のバランスを考えながら。
高い位置には、軽い箱を。
子どもの目線には、可愛い形のクッキーを。
甘い匂いが強いものは、一箇所に固めず、棚の流れに沿って少しずつ配置する。
「ここは、“自分へのごほうび”の棚にしようね」
商品に話しかけながら、POPを一枚書く。
『今日、ちょっとだけ頑張ったあなたへ』
自分で書きながら、少し照れくさくなる。
でも、こういう言葉を見て笑ってくれる人がいるのを、ミラは何度も見てきた。
ラベルを書き終えたところで、背後からひょい、と手が伸びた。
「あ、それ、いいわねえ」
ヴェラがPOPをひったくる。
「“ちょっとだけ頑張ったあなたへ”……。こういうの、お客様好きそう」
「……はい。あの、その場所に――」
「そうねえ、でも、この言葉、わたしのイメージじゃないのよね」
くるりとペン先を動かし、ヴェラは自分の筆跡でさらさらと何かを書き足した。
『店長おすすめ!』
太い文字で、端に書き加える。
「これで、“売場責任者のひと言”って感じになったでしょ?」
どこか満足そうに笑うヴェラに、ミラは曖昧な笑みを返す。
「……そうですね」
「ありがとう、ミラ。やっぱり、あなた、下書きは上手いのよね」
さらりと言い残し、ヴェラは別の棚へ行ってしまった。
ミラは、手元に残った空白の紙を見つめる。
先ほどまでPOPがそこにあったのに、今は何もない。
胸の奥に、しゅっと細い線が引かれるような感覚がした。
それでも――
ミラは、深呼吸をひとつして、新しい紙を取り出す。
(いいんだ。誰の名前が書いてあっても、読んだ人が少し笑ってくれるなら)
ペン先を走らせる。
焼き菓子の中で、地味に見落とされがちなプレーンビスケットの前にだけ、こっそりと一枚。
『なんでもない日のおともに。あなたの“ふつう”は、すこし特別。』
自分でも何を書いているのか、途中でわからなくなって笑ってしまう。
でも、こういう言葉がいちばん素直なのかもしれない。
書き終えて顔を上げると、棚全体の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
星の粉が、またひとつ、またひとつ。
誰も気づかないところで、棚精たちが集まってくる。
◇
「ミラ、開店時間よー」
「はい、今行きます」
開店の鐘が鳴ると、客がぱらぱらと入ってきた。
ミラはレジの横で商品整理をしながら、そっと客の様子を観察する。
ハーブティーの棚の前で、足を止める若い女性。
ラベルを読み、「今日も一日、お疲れさまでした」の文字を目で追う。
ふ、と、口元が緩む。
焼き菓子の棚では、少年がプレーンビスケットの前で立ち止まる。
「あなたの“ふつう”は、すこし特別。」のPOPをじっと見つめて、
「……これにしよ」と呟いてカゴに入れた。
その瞬間、ミラの胸の中で、小さな灯りが灯る。
(……よかった)
誰かの今日が、ほんの少しだけ優しくなったかもしれない。
そう思える瞬間が、ミラにとってのごほうびだった。
「ミラ、手、止まってる」
ヴェラの声に、はっと我に返る。
「す、すみません!」
「いいのよ。そうやってお客様見てるのは大事だから。――でも、見てるなら気づいたことはちゃんと教えてね?」
「はい」
「あ、そうだ」
ヴェラはふと思い出したように指を鳴らした。
「朝、話したジャムと焼き菓子の組み合わせの件、上から“すごく良かった”って言われたの。今度の会議で『売場責任者の工夫』として発表されるらしいわ」
「そう、なんですね」
「ええ。だから、今日も頼りにしてる。……ねえ、“こうした方が売れる”って思うところがあったら、なんでも言って。ちゃんと“わたしが”上に伝えるから」
最後の部分に、微妙な間があった。
ミラはそれを聞きながら、笑顔だけを浮かべる。
「はい。……考えてみます」
本当は、「一緒に伝えさせてください」と言いたかった。
でも、言えない。
自分が前に出て目立つことに、まだ慣れていないから。
そして――
“置かれた場所で咲こう”としてきた自分の癖が、まだ骨の奥まで染みついているから。
◇
その日の営業も終わりに近づいた頃。
閉店前の静けさの中で、ミラは一人、棚を拭いていた。
焦げ目のついたビスケットが、今日はいつもより多く売れた。
「なんでもない日のおともに」のPOPは、角が少し折れて、何度か読み返された気配を残している。
「……ありがとう。今日も売れてくれて」
そう呟いて、POPの端をそっとなぞる。
「笑ってくれたら、嬉しいから」
客の顔を思い出しながら、ぽつりとこぼれる言葉。
それは誰かに聞かせたくて言っているわけではない。
自分自身に言い聞かせるような、ささやかな呪文だった。
その呟きに応えるように、棚の星がまたひとつ、瞬く。
ミラは、今日も一日なんとかやりきれたことに安堵しながら、雑巾を洗うためにバックヤードへ向かった。
その背中を、気づかれない距離から見送る視線があったことを、彼女は知らない。
薄暗くなった通路の影に、リオンが立っていた。
視察と称して、何日か続けて通っている。
今日も、店の隅々まで見て回った後、この売場に足が向いてしまった。
(……あの子は、いつも最後まで残っているな)
閉店準備の時間になっても、ミラは手を止めない。
誰も見ていないと思っている場所で、小さな“ありがとう”を棚に積み重ねていく。
星写板を持ち歩いているわけではないのに、
リオンにはわかる気がした。
この売場だけが、他とは違うリズムで、一日を終えている。
客が去ったあとも、まだ誰かの笑顔の余韻を残したまま。
リオンは、そっと店を後にした。
(やはり、あの子だ)
明日、もう少し踏み込んで話してみよう。
名前も、これまでのことも、どんな気持ちで売場に立っているのかも。
知っておかなければならない。
――この灯りを、自分の店に迎えたいと思うのなら。
夜空には、星がひとつ、またひとつと灯っていく。
それが、まだ誰にも知られていない“約束”のように思えて、リオンは思わず空を見上げた。
まだ開店の鐘が鳴る前。
照明は半分だけ点き、店内には冷たい空気が残っている。
「……おはようございます」
誰もいない売場に、小さな声で挨拶をする。
癖のようなものだ。答えてくれる人はいないのに、それを言わないと、一日が始まらない気がしていた。
鍵を開けてバックヤードに入ると、伝票と新商品の箱が積み上がっている。
「今日は……焼き菓子と、ジャムと、香辛料の棚……」
指で一つずつ箱に触れながら、ミラは頭の中で売場の地図を描く。
どの棚のどの段に、どんな客が立ち止まるのか。
昨日、誰がどこで悩んでいたのか。
そういう“跡”を、なぞるように思い出していく。
手書きのPOP用紙と、色鉛筆を抱えて、売場へ出た。
◇
開店前の棚は、いつ見ても、少しだけ寂しい。
きちんと並んではいる。
商品間の感覚も、マニュアル通りに保たれている。
けれど、そこにはまだ、今日の客の気配がない。
「……ここ、昨日、たくさん立ち止まってくれてたな」
ハーブティーの棚の前。
疲れた顔をした人が、ラベルをじっと眺めていたのを思い出す。
ミラは膝をつき、手帳を開いた。
小さな文字で書き込まれたメモが並んでいる。
『夕方、仕事帰りの人が多い。目の下に隈あり。』
『「眠れるお茶はどれ?」と聞かれた』
『香りが強いものは、棚の下段にまとめたほうがいいかも』
「今日は、“頑張ったあと”のお茶、前に出そうかな」
そうひとりごちて、棚の奥から別の茶葉を引き出す。
“頑張るためのお茶”ではなく、“頑張ったあとのお茶”。
それを、目線の少し下くらいの高さに置いた。
その横に、POPを一枚。
ペン先を慎重に動かす。
『今日も一日、お疲れさまでした』
文字の端に、小さな星印を三つ添える。
「……うん」
ペンを置いて、一歩引く。
棚全体を眺めて、首を傾げた。
「ここに、もう少しだけ余白がほしいかも」
ぎゅうぎゅうに詰まっている箱を、少しだけ後ろへ下げる。
空いたスペースに、白い板を立てかけると、そこに光が集まるように見えた。
ぱらぱら、と。
誰にも聞こえないほど小さな音で、星の粉が棚の上に舞い落ちる。
ミラは、それが見えているのかどうか、自分でもよくわからない。
ただ、その瞬間に胸の奥が少し軽くなるので、「あ、これでいいんだ」と感じるだけだ。
◇
「ミラ、そっちはどう?」
後ろから、明るい声が飛んできた。
ヴェラだ。
今日もきっちりと巻いた髪に、鮮やかな色の口紅。
まだ開店前だというのに、すでに“売場の顔”としての準備は整っている。
「ハーブティーは、あと一列で終わります」
「そう。じゃあ、そのあと焼き菓子の棚もお願いできる? 昨日、店長から“ジャムとの組み合わせが良かった”って褒められたの。わたしのアイデア、大当たりだったみたい」
「……はい」
ミラは少しだけ目を瞬かせてから、微笑みをつくった。
ジャムと焼き菓子を近くに置いたのは、ミラの提案だった。
「おやつの時間を想像しやすいように」と、こっそり試してみた組み合わせ。
それがどう伝わったのかは、もう知っている。
「今度の会議でね、『売場責任者の工夫がよく見える』って報告するつもりなの。だから、今日も“いい感じ”に頼むわね」
ヴェラはにこりと笑い、パンッと手を叩く。
「さ、ちゃちゃっと片付けて。開店まであんまり時間ないんだから」
「はい。……“いい感じ”に」
ミラは復唱しながら、焼き菓子の棚に向かった。
“いい感じ”という言葉は、少しだけ苦手だ。
それは曖昧で、人によってまったく違うものを指す。
でも、ヴェラはいつも、そう言う。
――“いい感じにやって”
それはつまり、「結果が良ければ私の手柄。悪ければあなたの責任」という意味なんだろう、と、最近になってやっと気づいた。
気づいてしまったけれど、仕事をやめようとは思えなかった。
この棚を整えて、誰かがふっと笑う瞬間を見るのが、好きだから。
◇
焼き菓子の箱を開けると、甘い香りがふわりと広がる。
今日は、季節の果物を使ったタルトが入っていた。
「わあ……おいしそう」
つい本音が漏れる。
誰にも聞こえていないはずなのに、箱の中の焼き菓子が、少し誇らしげに見えた。
ミラはそれを丁寧に並べる。
ラベルの文字を上に向けて、種類ごとの色のバランスを考えながら。
高い位置には、軽い箱を。
子どもの目線には、可愛い形のクッキーを。
甘い匂いが強いものは、一箇所に固めず、棚の流れに沿って少しずつ配置する。
「ここは、“自分へのごほうび”の棚にしようね」
商品に話しかけながら、POPを一枚書く。
『今日、ちょっとだけ頑張ったあなたへ』
自分で書きながら、少し照れくさくなる。
でも、こういう言葉を見て笑ってくれる人がいるのを、ミラは何度も見てきた。
ラベルを書き終えたところで、背後からひょい、と手が伸びた。
「あ、それ、いいわねえ」
ヴェラがPOPをひったくる。
「“ちょっとだけ頑張ったあなたへ”……。こういうの、お客様好きそう」
「……はい。あの、その場所に――」
「そうねえ、でも、この言葉、わたしのイメージじゃないのよね」
くるりとペン先を動かし、ヴェラは自分の筆跡でさらさらと何かを書き足した。
『店長おすすめ!』
太い文字で、端に書き加える。
「これで、“売場責任者のひと言”って感じになったでしょ?」
どこか満足そうに笑うヴェラに、ミラは曖昧な笑みを返す。
「……そうですね」
「ありがとう、ミラ。やっぱり、あなた、下書きは上手いのよね」
さらりと言い残し、ヴェラは別の棚へ行ってしまった。
ミラは、手元に残った空白の紙を見つめる。
先ほどまでPOPがそこにあったのに、今は何もない。
胸の奥に、しゅっと細い線が引かれるような感覚がした。
それでも――
ミラは、深呼吸をひとつして、新しい紙を取り出す。
(いいんだ。誰の名前が書いてあっても、読んだ人が少し笑ってくれるなら)
ペン先を走らせる。
焼き菓子の中で、地味に見落とされがちなプレーンビスケットの前にだけ、こっそりと一枚。
『なんでもない日のおともに。あなたの“ふつう”は、すこし特別。』
自分でも何を書いているのか、途中でわからなくなって笑ってしまう。
でも、こういう言葉がいちばん素直なのかもしれない。
書き終えて顔を上げると、棚全体の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
星の粉が、またひとつ、またひとつ。
誰も気づかないところで、棚精たちが集まってくる。
◇
「ミラ、開店時間よー」
「はい、今行きます」
開店の鐘が鳴ると、客がぱらぱらと入ってきた。
ミラはレジの横で商品整理をしながら、そっと客の様子を観察する。
ハーブティーの棚の前で、足を止める若い女性。
ラベルを読み、「今日も一日、お疲れさまでした」の文字を目で追う。
ふ、と、口元が緩む。
焼き菓子の棚では、少年がプレーンビスケットの前で立ち止まる。
「あなたの“ふつう”は、すこし特別。」のPOPをじっと見つめて、
「……これにしよ」と呟いてカゴに入れた。
その瞬間、ミラの胸の中で、小さな灯りが灯る。
(……よかった)
誰かの今日が、ほんの少しだけ優しくなったかもしれない。
そう思える瞬間が、ミラにとってのごほうびだった。
「ミラ、手、止まってる」
ヴェラの声に、はっと我に返る。
「す、すみません!」
「いいのよ。そうやってお客様見てるのは大事だから。――でも、見てるなら気づいたことはちゃんと教えてね?」
「はい」
「あ、そうだ」
ヴェラはふと思い出したように指を鳴らした。
「朝、話したジャムと焼き菓子の組み合わせの件、上から“すごく良かった”って言われたの。今度の会議で『売場責任者の工夫』として発表されるらしいわ」
「そう、なんですね」
「ええ。だから、今日も頼りにしてる。……ねえ、“こうした方が売れる”って思うところがあったら、なんでも言って。ちゃんと“わたしが”上に伝えるから」
最後の部分に、微妙な間があった。
ミラはそれを聞きながら、笑顔だけを浮かべる。
「はい。……考えてみます」
本当は、「一緒に伝えさせてください」と言いたかった。
でも、言えない。
自分が前に出て目立つことに、まだ慣れていないから。
そして――
“置かれた場所で咲こう”としてきた自分の癖が、まだ骨の奥まで染みついているから。
◇
その日の営業も終わりに近づいた頃。
閉店前の静けさの中で、ミラは一人、棚を拭いていた。
焦げ目のついたビスケットが、今日はいつもより多く売れた。
「なんでもない日のおともに」のPOPは、角が少し折れて、何度か読み返された気配を残している。
「……ありがとう。今日も売れてくれて」
そう呟いて、POPの端をそっとなぞる。
「笑ってくれたら、嬉しいから」
客の顔を思い出しながら、ぽつりとこぼれる言葉。
それは誰かに聞かせたくて言っているわけではない。
自分自身に言い聞かせるような、ささやかな呪文だった。
その呟きに応えるように、棚の星がまたひとつ、瞬く。
ミラは、今日も一日なんとかやりきれたことに安堵しながら、雑巾を洗うためにバックヤードへ向かった。
その背中を、気づかれない距離から見送る視線があったことを、彼女は知らない。
薄暗くなった通路の影に、リオンが立っていた。
視察と称して、何日か続けて通っている。
今日も、店の隅々まで見て回った後、この売場に足が向いてしまった。
(……あの子は、いつも最後まで残っているな)
閉店準備の時間になっても、ミラは手を止めない。
誰も見ていないと思っている場所で、小さな“ありがとう”を棚に積み重ねていく。
星写板を持ち歩いているわけではないのに、
リオンにはわかる気がした。
この売場だけが、他とは違うリズムで、一日を終えている。
客が去ったあとも、まだ誰かの笑顔の余韻を残したまま。
リオンは、そっと店を後にした。
(やはり、あの子だ)
明日、もう少し踏み込んで話してみよう。
名前も、これまでのことも、どんな気持ちで売場に立っているのかも。
知っておかなければならない。
――この灯りを、自分の店に迎えたいと思うのなら。
夜空には、星がひとつ、またひとつと灯っていく。
それが、まだ誰にも知られていない“約束”のように思えて、リオンは思わず空を見上げた。
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