星灯バザールの約束(次期頭首を目指す彼と健気な店員)

星乃和花

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第2話 見えない功労者ミラ

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 その日も、朝一番に店に入ったのはミラだった。

 まだ開店の鐘が鳴る前。
 照明は半分だけ点き、店内には冷たい空気が残っている。

「……おはようございます」

 誰もいない売場に、小さな声で挨拶をする。
 癖のようなものだ。答えてくれる人はいないのに、それを言わないと、一日が始まらない気がしていた。

 鍵を開けてバックヤードに入ると、伝票と新商品の箱が積み上がっている。

「今日は……焼き菓子と、ジャムと、香辛料の棚……」

 指で一つずつ箱に触れながら、ミラは頭の中で売場の地図を描く。

 どの棚のどの段に、どんな客が立ち止まるのか。
 昨日、誰がどこで悩んでいたのか。
 そういう“跡”を、なぞるように思い出していく。

 手書きのPOP用紙と、色鉛筆を抱えて、売場へ出た。



 開店前の棚は、いつ見ても、少しだけ寂しい。

 きちんと並んではいる。
 商品間の感覚も、マニュアル通りに保たれている。

 けれど、そこにはまだ、今日の客の気配がない。

「……ここ、昨日、たくさん立ち止まってくれてたな」

 ハーブティーの棚の前。
 疲れた顔をした人が、ラベルをじっと眺めていたのを思い出す。

 ミラは膝をつき、手帳を開いた。
 小さな文字で書き込まれたメモが並んでいる。

『夕方、仕事帰りの人が多い。目の下に隈あり。』
『「眠れるお茶はどれ?」と聞かれた』
『香りが強いものは、棚の下段にまとめたほうがいいかも』

「今日は、“頑張ったあと”のお茶、前に出そうかな」

 そうひとりごちて、棚の奥から別の茶葉を引き出す。
 “頑張るためのお茶”ではなく、“頑張ったあとのお茶”。

 それを、目線の少し下くらいの高さに置いた。

 その横に、POPを一枚。
 ペン先を慎重に動かす。

『今日も一日、お疲れさまでした』

 文字の端に、小さな星印を三つ添える。

「……うん」

 ペンを置いて、一歩引く。
 棚全体を眺めて、首を傾げた。

「ここに、もう少しだけ余白がほしいかも」

 ぎゅうぎゅうに詰まっている箱を、少しだけ後ろへ下げる。
 空いたスペースに、白い板を立てかけると、そこに光が集まるように見えた。

 ぱらぱら、と。
 誰にも聞こえないほど小さな音で、星の粉が棚の上に舞い落ちる。

 ミラは、それが見えているのかどうか、自分でもよくわからない。
 ただ、その瞬間に胸の奥が少し軽くなるので、「あ、これでいいんだ」と感じるだけだ。



「ミラ、そっちはどう?」

 後ろから、明るい声が飛んできた。

 ヴェラだ。
 今日もきっちりと巻いた髪に、鮮やかな色の口紅。
 まだ開店前だというのに、すでに“売場の顔”としての準備は整っている。

「ハーブティーは、あと一列で終わります」

「そう。じゃあ、そのあと焼き菓子の棚もお願いできる? 昨日、店長から“ジャムとの組み合わせが良かった”って褒められたの。わたしのアイデア、大当たりだったみたい」

「……はい」

 ミラは少しだけ目を瞬かせてから、微笑みをつくった。

 ジャムと焼き菓子を近くに置いたのは、ミラの提案だった。
 「おやつの時間を想像しやすいように」と、こっそり試してみた組み合わせ。

 それがどう伝わったのかは、もう知っている。

「今度の会議でね、『売場責任者の工夫がよく見える』って報告するつもりなの。だから、今日も“いい感じ”に頼むわね」

 ヴェラはにこりと笑い、パンッと手を叩く。

「さ、ちゃちゃっと片付けて。開店まであんまり時間ないんだから」

「はい。……“いい感じ”に」

 ミラは復唱しながら、焼き菓子の棚に向かった。

 “いい感じ”という言葉は、少しだけ苦手だ。
 それは曖昧で、人によってまったく違うものを指す。

 でも、ヴェラはいつも、そう言う。

 ――“いい感じにやって”

 それはつまり、「結果が良ければ私の手柄。悪ければあなたの責任」という意味なんだろう、と、最近になってやっと気づいた。

 気づいてしまったけれど、仕事をやめようとは思えなかった。

 この棚を整えて、誰かがふっと笑う瞬間を見るのが、好きだから。



 焼き菓子の箱を開けると、甘い香りがふわりと広がる。
 今日は、季節の果物を使ったタルトが入っていた。

「わあ……おいしそう」

 つい本音が漏れる。
 誰にも聞こえていないはずなのに、箱の中の焼き菓子が、少し誇らしげに見えた。

 ミラはそれを丁寧に並べる。
 ラベルの文字を上に向けて、種類ごとの色のバランスを考えながら。

 高い位置には、軽い箱を。
 子どもの目線には、可愛い形のクッキーを。
 甘い匂いが強いものは、一箇所に固めず、棚の流れに沿って少しずつ配置する。

「ここは、“自分へのごほうび”の棚にしようね」

 商品に話しかけながら、POPを一枚書く。

『今日、ちょっとだけ頑張ったあなたへ』

 自分で書きながら、少し照れくさくなる。
 でも、こういう言葉を見て笑ってくれる人がいるのを、ミラは何度も見てきた。

 ラベルを書き終えたところで、背後からひょい、と手が伸びた。

「あ、それ、いいわねえ」

 ヴェラがPOPをひったくる。

「“ちょっとだけ頑張ったあなたへ”……。こういうの、お客様好きそう」

「……はい。あの、その場所に――」

「そうねえ、でも、この言葉、わたしのイメージじゃないのよね」

 くるりとペン先を動かし、ヴェラは自分の筆跡でさらさらと何かを書き足した。

『店長おすすめ!』

 太い文字で、端に書き加える。

「これで、“売場責任者のひと言”って感じになったでしょ?」

 どこか満足そうに笑うヴェラに、ミラは曖昧な笑みを返す。

「……そうですね」

「ありがとう、ミラ。やっぱり、あなた、下書きは上手いのよね」

 さらりと言い残し、ヴェラは別の棚へ行ってしまった。

 ミラは、手元に残った空白の紙を見つめる。
 先ほどまでPOPがそこにあったのに、今は何もない。

 胸の奥に、しゅっと細い線が引かれるような感覚がした。

 それでも――
 ミラは、深呼吸をひとつして、新しい紙を取り出す。

(いいんだ。誰の名前が書いてあっても、読んだ人が少し笑ってくれるなら)

 ペン先を走らせる。
 焼き菓子の中で、地味に見落とされがちなプレーンビスケットの前にだけ、こっそりと一枚。

『なんでもない日のおともに。あなたの“ふつう”は、すこし特別。』

 自分でも何を書いているのか、途中でわからなくなって笑ってしまう。
 でも、こういう言葉がいちばん素直なのかもしれない。

 書き終えて顔を上げると、棚全体の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。

 星の粉が、またひとつ、またひとつ。

 誰も気づかないところで、棚精たちが集まってくる。



「ミラ、開店時間よー」

「はい、今行きます」

 開店の鐘が鳴ると、客がぱらぱらと入ってきた。

 ミラはレジの横で商品整理をしながら、そっと客の様子を観察する。

 ハーブティーの棚の前で、足を止める若い女性。
 ラベルを読み、「今日も一日、お疲れさまでした」の文字を目で追う。

 ふ、と、口元が緩む。

 焼き菓子の棚では、少年がプレーンビスケットの前で立ち止まる。
 「あなたの“ふつう”は、すこし特別。」のPOPをじっと見つめて、
 「……これにしよ」と呟いてカゴに入れた。

 その瞬間、ミラの胸の中で、小さな灯りが灯る。

(……よかった)

 誰かの今日が、ほんの少しだけ優しくなったかもしれない。
 そう思える瞬間が、ミラにとってのごほうびだった。

「ミラ、手、止まってる」

 ヴェラの声に、はっと我に返る。

「す、すみません!」

「いいのよ。そうやってお客様見てるのは大事だから。――でも、見てるなら気づいたことはちゃんと教えてね?」

「はい」

「あ、そうだ」

 ヴェラはふと思い出したように指を鳴らした。

「朝、話したジャムと焼き菓子の組み合わせの件、上から“すごく良かった”って言われたの。今度の会議で『売場責任者の工夫』として発表されるらしいわ」

「そう、なんですね」

「ええ。だから、今日も頼りにしてる。……ねえ、“こうした方が売れる”って思うところがあったら、なんでも言って。ちゃんと“わたしが”上に伝えるから」

 最後の部分に、微妙な間があった。

 ミラはそれを聞きながら、笑顔だけを浮かべる。

「はい。……考えてみます」

 本当は、「一緒に伝えさせてください」と言いたかった。

 でも、言えない。

 自分が前に出て目立つことに、まだ慣れていないから。

 そして――
 “置かれた場所で咲こう”としてきた自分の癖が、まだ骨の奥まで染みついているから。



 その日の営業も終わりに近づいた頃。

 閉店前の静けさの中で、ミラは一人、棚を拭いていた。

 焦げ目のついたビスケットが、今日はいつもより多く売れた。
「なんでもない日のおともに」のPOPは、角が少し折れて、何度か読み返された気配を残している。

「……ありがとう。今日も売れてくれて」

 そう呟いて、POPの端をそっとなぞる。

「笑ってくれたら、嬉しいから」

 客の顔を思い出しながら、ぽつりとこぼれる言葉。

 それは誰かに聞かせたくて言っているわけではない。
 自分自身に言い聞かせるような、ささやかな呪文だった。

 その呟きに応えるように、棚の星がまたひとつ、瞬く。

 ミラは、今日も一日なんとかやりきれたことに安堵しながら、雑巾を洗うためにバックヤードへ向かった。

 その背中を、気づかれない距離から見送る視線があったことを、彼女は知らない。

 薄暗くなった通路の影に、リオンが立っていた。

 視察と称して、何日か続けて通っている。
 今日も、店の隅々まで見て回った後、この売場に足が向いてしまった。

(……あの子は、いつも最後まで残っているな)

 閉店準備の時間になっても、ミラは手を止めない。
 誰も見ていないと思っている場所で、小さな“ありがとう”を棚に積み重ねていく。

 星写板を持ち歩いているわけではないのに、
 リオンにはわかる気がした。

 この売場だけが、他とは違うリズムで、一日を終えている。

 客が去ったあとも、まだ誰かの笑顔の余韻を残したまま。

 リオンは、そっと店を後にした。

(やはり、あの子だ)

 明日、もう少し踏み込んで話してみよう。

 名前も、これまでのことも、どんな気持ちで売場に立っているのかも。

 知っておかなければならない。
 ――この灯りを、自分の店に迎えたいと思うのなら。

 夜空には、星がひとつ、またひとつと灯っていく。

 それが、まだ誰にも知られていない“約束”のように思えて、リオンは思わず空を見上げた。
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