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エピローグ「隣にいる理由」
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春が来た。
王城の庭に花が咲いて、兵士たちの肩の力が抜けて、
壁の向こうの国から届く書簡の言葉が、少しずつ柔らかくなった。
和平というものは、紙の上だけでは生きていけない。
歩いて、話して、確かめて、
失敗して、やり直して、
それでも「続ける」を選ぶことで、やっと形になる。
参謀レオンは、その“続ける”を、今日も黙々とやっていた。
相変わらず机の上には書類が山のようにある。
相変わらず彼は正確にそれを片付ける。
ただ一つ、昔と違うものがある。
机の端のカップが、二つになった。
湯気は柔らかく立ちのぼり、
茶葉の香りが静かに部屋を満たしている。
「レオンさん」
ふわっとした声。
ミナが部屋に入ってくる。
ローブの袖が少しだけ短くなったのは、春のせいだ。
ミナは机に、焼きたてのパンを置いた。
小さくて丸いパン。
表面にほんのり焼き色がついていて、見ているだけであたたかい。
「差し入れだよぉ」
「……ありがとう」
レオンの返事は相変わらず短い。
だが、その短さの中に“慣れた安心”が混ざっているのを、ミナは知っている。
ミナは椅子の横に立って、参謀の横顔を見つめる。
整った眉。
硬い表情。
冷静な目。
そして――
ミナはふわっと笑った。
「今日も、耳赤い」
レオンのペンが止まる。
「赤くない」
「赤いよぉ」
「……気のせいだ」
「気のせいじゃないよぉ」
ミナが指先で自分の耳をちょんと触る。
「ここがね、あったかくなる」
参謀が、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……軍医の話はするな」
「軍医さん、元気かなぁ」
「元気だろう」
「恋煩いって、治ったの?」
レオンがペンを置く。
机の上の書類が、いっそう整然と見えるのに、
彼の思考だけが少し迷子になる。
「……治っていない」
「重症?」
「……黙れ」
「えへへ」
ミナは楽しそうに笑う。
戦争が終わる前のミナは、こんなふうに笑っていただろうか。
笑っていたとしても、どこか“役に立つため”の笑顔だった。
今のミナは違う。
笑うことが、自分のためになっている。
その変化を、レオンは誰よりも近くで見ていた。
だから――彼は、今日も“見回り”をやめられない。
ミナの部屋が隣になってから、見回りの回数は増えた。
警備隊はその回数を数えるのを諦めた。
軍医は診断書を更新しようとして追い返された。
そして王は、何も言わずに笑っている。
(国益だ)
そういう顔で。
レオンは書類の束を閉じ、立ち上がった。
「……休憩する」
「おぉ」
ミナがぱちぱちした。
「休憩って言った」
「言った」
「えらいねぇ」
「褒めるな」
「褒めるよ」
ミナの声は、今日も逃げ道がない。
レオンは諦めたようにミナの肩を抱き、軽く引き寄せた。
抱きしめる――というより、抱き寄せる。
彼の中では“確認”だ。
呼吸があるか。
体温はあるか。
目の奥が疲れていないか。
そして、彼自身の心がまだ持っているか。
「……大丈夫か」
レオンの低い声。
ミナは少しだけ黙ってから、笑った。
「うん。大丈夫」
その返事が、前よりも“本当”に聞こえる。
だから、余計に。
夜が怖くなる日も、まだある。
和平の影は、完全には消えない。
帰還の儀式という言葉も、完全には消えない。
それでもミナは、以前より上手に“怖い”と言えるようになった。
⭐︎・⭐︎・⭐︎・⭐︎・⭐︎
ある夜。
ミナは隣の扉をノックし、
小さな声で言った。
「ほんとに、ここにいていいのかなぁ」
レオンはためらわず、同じ言葉を返した。
「……いい。私がそうする」
その言葉は、命令ではなく、
二人の間の“約束”になった。
帰らない、ではなく。
帰ってくる、でもなく。
ここにいる。
それを選ぶ。
選び続ける。
ミナは、レオンの胸に頬を寄せたまま、静かに言う。
「ねぇ、レオンさん」
「何だ」
「わたし、昼は笑えるのに」
「……ああ」
「夜だけ、ちょっと怖い」
「……知っている」
レオンの腕が、少しだけ強くなる。
「怖い時は、来い」
「うん」
「呼べ」
「うん」
「……そして」
レオンはほんの少し息を整え、
珍しく、言葉を選んで言った。
「……ひとりで頑張るな」
ミナはそれを聞いて、笑いながら泣いた。
泣くことを許される夜。
怖いと言っていい夜。
そこに、救いがある。
⭐︎・⭐︎・⭐︎・⭐︎・⭐︎
翌朝、ミナは目が腫れたまま廊下を歩いた。
警備隊の兵士が見て見ぬふりをして敬礼する。
その兵士の背後で、別の兵士が囁く。
「参謀の耳、今赤い」
「今日も報告案件だな」
「軍医呼ぶか?」
「殺される」
ミナはその小声を聞き取ってしまい、ふわっと笑った。
「ねぇ、レオンさん」
「何だ」
「わたしね、みんなに守られてる」
「当然だ」
「でもね」
ミナはゆっくり、確かめるように言った。
「いちばん守ってくれてるのは、レオンさんだよ」
レオンの耳が赤くなる。
ミナは嬉しそうに笑う。
「かわいい」
「……言うな」
「言うよぉ」
「……やめろ」
「やだぁ」
そのやり取りが、城を少しだけ明るくする。
平和は、大きな英雄譚だけでできているわけじゃない。
こんなふうな、くだらなくてあたたかい瞬間の積み重ねでできている。
ミナは窓の外を見た。
庭の花壇に、淡い色の花が揺れている。
戦争は終わったのに、
心の奥の戦いは、きっと簡単には終わらない。
夜が来れば、少し怖くなる日もある。
自分の選んだ言葉が重くて、胸の奥で転がる日もある。
それでも。
扉一枚ぶんの距離がある。
ノックすれば、返事が返る。
怖い、と言ってもいい。
泣いてもいい。
眠れない夜は、あたたかい呼吸を確かめればいい。
「レオンさん」
「何だ」
「今日も、ここにいていい?」
参謀は一拍だけ黙って、短く答えた。
「……いい」
その声は、いつも通り冷静で。
でもその奥に、揺るがない温度があった。
「今日も、私がそうする」
ミナはふわっと笑って、
まるで難しいことじゃないみたいに頷く。
昼は笑える。
夜は怖い。
それでも――隣にいる。
春の匂いの中で、二人は確かめ合うように息をする。
“帰還”よりも先に、“暮らし”が始まっていることを。
――帰らない、ではなく。ここにいるを、二人で選び続けた。
王城の庭に花が咲いて、兵士たちの肩の力が抜けて、
壁の向こうの国から届く書簡の言葉が、少しずつ柔らかくなった。
和平というものは、紙の上だけでは生きていけない。
歩いて、話して、確かめて、
失敗して、やり直して、
それでも「続ける」を選ぶことで、やっと形になる。
参謀レオンは、その“続ける”を、今日も黙々とやっていた。
相変わらず机の上には書類が山のようにある。
相変わらず彼は正確にそれを片付ける。
ただ一つ、昔と違うものがある。
机の端のカップが、二つになった。
湯気は柔らかく立ちのぼり、
茶葉の香りが静かに部屋を満たしている。
「レオンさん」
ふわっとした声。
ミナが部屋に入ってくる。
ローブの袖が少しだけ短くなったのは、春のせいだ。
ミナは机に、焼きたてのパンを置いた。
小さくて丸いパン。
表面にほんのり焼き色がついていて、見ているだけであたたかい。
「差し入れだよぉ」
「……ありがとう」
レオンの返事は相変わらず短い。
だが、その短さの中に“慣れた安心”が混ざっているのを、ミナは知っている。
ミナは椅子の横に立って、参謀の横顔を見つめる。
整った眉。
硬い表情。
冷静な目。
そして――
ミナはふわっと笑った。
「今日も、耳赤い」
レオンのペンが止まる。
「赤くない」
「赤いよぉ」
「……気のせいだ」
「気のせいじゃないよぉ」
ミナが指先で自分の耳をちょんと触る。
「ここがね、あったかくなる」
参謀が、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……軍医の話はするな」
「軍医さん、元気かなぁ」
「元気だろう」
「恋煩いって、治ったの?」
レオンがペンを置く。
机の上の書類が、いっそう整然と見えるのに、
彼の思考だけが少し迷子になる。
「……治っていない」
「重症?」
「……黙れ」
「えへへ」
ミナは楽しそうに笑う。
戦争が終わる前のミナは、こんなふうに笑っていただろうか。
笑っていたとしても、どこか“役に立つため”の笑顔だった。
今のミナは違う。
笑うことが、自分のためになっている。
その変化を、レオンは誰よりも近くで見ていた。
だから――彼は、今日も“見回り”をやめられない。
ミナの部屋が隣になってから、見回りの回数は増えた。
警備隊はその回数を数えるのを諦めた。
軍医は診断書を更新しようとして追い返された。
そして王は、何も言わずに笑っている。
(国益だ)
そういう顔で。
レオンは書類の束を閉じ、立ち上がった。
「……休憩する」
「おぉ」
ミナがぱちぱちした。
「休憩って言った」
「言った」
「えらいねぇ」
「褒めるな」
「褒めるよ」
ミナの声は、今日も逃げ道がない。
レオンは諦めたようにミナの肩を抱き、軽く引き寄せた。
抱きしめる――というより、抱き寄せる。
彼の中では“確認”だ。
呼吸があるか。
体温はあるか。
目の奥が疲れていないか。
そして、彼自身の心がまだ持っているか。
「……大丈夫か」
レオンの低い声。
ミナは少しだけ黙ってから、笑った。
「うん。大丈夫」
その返事が、前よりも“本当”に聞こえる。
だから、余計に。
夜が怖くなる日も、まだある。
和平の影は、完全には消えない。
帰還の儀式という言葉も、完全には消えない。
それでもミナは、以前より上手に“怖い”と言えるようになった。
⭐︎・⭐︎・⭐︎・⭐︎・⭐︎
ある夜。
ミナは隣の扉をノックし、
小さな声で言った。
「ほんとに、ここにいていいのかなぁ」
レオンはためらわず、同じ言葉を返した。
「……いい。私がそうする」
その言葉は、命令ではなく、
二人の間の“約束”になった。
帰らない、ではなく。
帰ってくる、でもなく。
ここにいる。
それを選ぶ。
選び続ける。
ミナは、レオンの胸に頬を寄せたまま、静かに言う。
「ねぇ、レオンさん」
「何だ」
「わたし、昼は笑えるのに」
「……ああ」
「夜だけ、ちょっと怖い」
「……知っている」
レオンの腕が、少しだけ強くなる。
「怖い時は、来い」
「うん」
「呼べ」
「うん」
「……そして」
レオンはほんの少し息を整え、
珍しく、言葉を選んで言った。
「……ひとりで頑張るな」
ミナはそれを聞いて、笑いながら泣いた。
泣くことを許される夜。
怖いと言っていい夜。
そこに、救いがある。
⭐︎・⭐︎・⭐︎・⭐︎・⭐︎
翌朝、ミナは目が腫れたまま廊下を歩いた。
警備隊の兵士が見て見ぬふりをして敬礼する。
その兵士の背後で、別の兵士が囁く。
「参謀の耳、今赤い」
「今日も報告案件だな」
「軍医呼ぶか?」
「殺される」
ミナはその小声を聞き取ってしまい、ふわっと笑った。
「ねぇ、レオンさん」
「何だ」
「わたしね、みんなに守られてる」
「当然だ」
「でもね」
ミナはゆっくり、確かめるように言った。
「いちばん守ってくれてるのは、レオンさんだよ」
レオンの耳が赤くなる。
ミナは嬉しそうに笑う。
「かわいい」
「……言うな」
「言うよぉ」
「……やめろ」
「やだぁ」
そのやり取りが、城を少しだけ明るくする。
平和は、大きな英雄譚だけでできているわけじゃない。
こんなふうな、くだらなくてあたたかい瞬間の積み重ねでできている。
ミナは窓の外を見た。
庭の花壇に、淡い色の花が揺れている。
戦争は終わったのに、
心の奥の戦いは、きっと簡単には終わらない。
夜が来れば、少し怖くなる日もある。
自分の選んだ言葉が重くて、胸の奥で転がる日もある。
それでも。
扉一枚ぶんの距離がある。
ノックすれば、返事が返る。
怖い、と言ってもいい。
泣いてもいい。
眠れない夜は、あたたかい呼吸を確かめればいい。
「レオンさん」
「何だ」
「今日も、ここにいていい?」
参謀は一拍だけ黙って、短く答えた。
「……いい」
その声は、いつも通り冷静で。
でもその奥に、揺るがない温度があった。
「今日も、私がそうする」
ミナはふわっと笑って、
まるで難しいことじゃないみたいに頷く。
昼は笑える。
夜は怖い。
それでも――隣にいる。
春の匂いの中で、二人は確かめ合うように息をする。
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