14 / 20
番外編一 紅茶と居眠り
しおりを挟む
夜の器は、いつもより薄かった。
書斎の窓で卓上時計が静かに呼吸し、机の上には読みかけの寓話集と、蜂蜜で軽く煮た柑果の皮を入れた小袋。
わたしは湯の温度を確かめ、ポットに茶葉を落とした――つもりだったのに。
「……エリーナ?」
背後から呼ばれて、はっとする。
手の中の匙は、ずいぶん前から止まっていたらしい。
机に突っ伏していた頬に、紙の角の跡がついている。
「ごめんなさい。少しだけ、のつもりが……」
「いい」
カイル様は笑い、わたしの手からそっとポットを受け取った。
「今夜は、私が“正時”を淹れよう」
湯が静かに落ちる。
茶葉がひらく音は聞こえないのに、香りの輪郭でそれが分かる。
彼は杯を二つ用意し、一つをわたしの前へ滑らせた。
手袋は外している。指先の温度が、取っ手越しに伝わる。
「渋みは?」
「少しだけ。……“二”で」
「“二”で」
合図みたいに、二人で同時に笑った。
ひと口含むと、蜂蜜の端だけがやわらかく追いかけてきた。
眠気の底にある疲れを、重くしすぎない甘さ。
「上手です」
「君が毎夜、置いていった“今”を真似ただけだ」
彼は戸棚から香り袋を取り出し、机の端に置く。
紙片が一枚、口からのぞいていた。
“夜は器、光は水。ふたりなら、灯りそのもの”
昨夜、引き出しに残した文の写しだ。
「君が書いた文字は、紙の上で呼吸をする」
「カイル様が読む声があるから、だと思います」
「では――読むか」
「少しだけ。終わりは、鍵にします」
わたしは寓話集をひらき、短い章を選ぶ。
川辺で眠れない子どもに、渡し守が舟の揺れの数え方を教える話。
“一、二、三――“二”で息をすること”
声にしているうちに、机の下で靴先が自然にその拍をとった。
彼の呼吸も、同じ速度で落ち着いていく。
「ここまで」
栞を挟むと、カイル様が小さく唇を尖らせた。
「途中で止めるのは、今も変わらないのだな」
「ええ。終わりは刃になりやすいから。――鍵にして、明日開けましょう」
彼は頷き、杯の縁を指で軽くたたいた。
二度。
わたしも二度、机の下で返す。
合図は、約束ほど硬くならず、ただ方向を照らす。
「ところで」
彼がふいに、からかい半分の声で言う。
「君は“淹れる”と言いながら、半分眠っていた」
「……面目ありません」
「謝る必要はない。私は、君が居眠りをするほど安心している夜が、好きだ」
耳が熱くなる。
彼は続けた。
「居眠りの跡が消えるまで、もう一杯、薄く。――“二”の速度で」
二杯目は色が淡く、香りも軽い。
でも、十分だった。
眠りの速度は、もう決まっている。
一、二、三。――“二”。
わたしは杯を置き、机に両腕をたたんだ。
まぶたが自然に重くなる。
そのとき、髪にそっと指が触れた。
撫でるでも、絡めるでもない、在ることだけを伝える触れ方。
「ここにいる」
低い声が、紙片の文のように短く落ちる。
「……おやすみなさい、カイル様」
「おやすみ、エリーナ。――灯りは、ここにいる」
芯が小さく鳴った。
同じ音なのに、もう刃ではない。
夜は器、光は水。
ふたりなら、灯りそのもの。
眠りに落ちる刹那、彼の指先が机の下でそっと“二度”。
わたしも夢の手前で、同じ“二度”を返した。
(つづく/次回:番外編二)
書斎の窓で卓上時計が静かに呼吸し、机の上には読みかけの寓話集と、蜂蜜で軽く煮た柑果の皮を入れた小袋。
わたしは湯の温度を確かめ、ポットに茶葉を落とした――つもりだったのに。
「……エリーナ?」
背後から呼ばれて、はっとする。
手の中の匙は、ずいぶん前から止まっていたらしい。
机に突っ伏していた頬に、紙の角の跡がついている。
「ごめんなさい。少しだけ、のつもりが……」
「いい」
カイル様は笑い、わたしの手からそっとポットを受け取った。
「今夜は、私が“正時”を淹れよう」
湯が静かに落ちる。
茶葉がひらく音は聞こえないのに、香りの輪郭でそれが分かる。
彼は杯を二つ用意し、一つをわたしの前へ滑らせた。
手袋は外している。指先の温度が、取っ手越しに伝わる。
「渋みは?」
「少しだけ。……“二”で」
「“二”で」
合図みたいに、二人で同時に笑った。
ひと口含むと、蜂蜜の端だけがやわらかく追いかけてきた。
眠気の底にある疲れを、重くしすぎない甘さ。
「上手です」
「君が毎夜、置いていった“今”を真似ただけだ」
彼は戸棚から香り袋を取り出し、机の端に置く。
紙片が一枚、口からのぞいていた。
“夜は器、光は水。ふたりなら、灯りそのもの”
昨夜、引き出しに残した文の写しだ。
「君が書いた文字は、紙の上で呼吸をする」
「カイル様が読む声があるから、だと思います」
「では――読むか」
「少しだけ。終わりは、鍵にします」
わたしは寓話集をひらき、短い章を選ぶ。
川辺で眠れない子どもに、渡し守が舟の揺れの数え方を教える話。
“一、二、三――“二”で息をすること”
声にしているうちに、机の下で靴先が自然にその拍をとった。
彼の呼吸も、同じ速度で落ち着いていく。
「ここまで」
栞を挟むと、カイル様が小さく唇を尖らせた。
「途中で止めるのは、今も変わらないのだな」
「ええ。終わりは刃になりやすいから。――鍵にして、明日開けましょう」
彼は頷き、杯の縁を指で軽くたたいた。
二度。
わたしも二度、机の下で返す。
合図は、約束ほど硬くならず、ただ方向を照らす。
「ところで」
彼がふいに、からかい半分の声で言う。
「君は“淹れる”と言いながら、半分眠っていた」
「……面目ありません」
「謝る必要はない。私は、君が居眠りをするほど安心している夜が、好きだ」
耳が熱くなる。
彼は続けた。
「居眠りの跡が消えるまで、もう一杯、薄く。――“二”の速度で」
二杯目は色が淡く、香りも軽い。
でも、十分だった。
眠りの速度は、もう決まっている。
一、二、三。――“二”。
わたしは杯を置き、机に両腕をたたんだ。
まぶたが自然に重くなる。
そのとき、髪にそっと指が触れた。
撫でるでも、絡めるでもない、在ることだけを伝える触れ方。
「ここにいる」
低い声が、紙片の文のように短く落ちる。
「……おやすみなさい、カイル様」
「おやすみ、エリーナ。――灯りは、ここにいる」
芯が小さく鳴った。
同じ音なのに、もう刃ではない。
夜は器、光は水。
ふたりなら、灯りそのもの。
眠りに落ちる刹那、彼の指先が机の下でそっと“二度”。
わたしも夢の手前で、同じ“二度”を返した。
(つづく/次回:番外編二)
0
あなたにおすすめの小説
身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~
ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。
彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。
――死んだはずの彼女が、生きている?
同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。
「今さら、逃げ道があると思うなよ」
瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。
秘された皇子と、選び直した愛。
三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?
* * *
後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。
嘘コクのゆくえ
キムラましゅろう
恋愛
アニーは奨学金とバイトで稼いだお金で魔法学校に通う苦学生。
生活は困窮、他の学生みたいに愛だの恋だのに現を抜かしている暇などない生活を送っていた。
そんな中、とある教授の研究室で何らかの罰としてアニー=メイスンに告白して来いと教授が学生に命じているのを偶然耳にしてしまう。
アニーとは自分のこと、そして告白するように言われていた学生は密かに思いを寄せる同級生のロンド=ハミルトンで……
次の日、さっそくその命令に従ってアニーに嘘の告白、嘘コクをしてきたロンドにアニーは……
完全ご都合主義、ノーリアリティノークオリティのお話です。
誤字脱字が罠のように点在するお話です。菩薩の如き広いお心でお読みいただけますと幸いです。
作者は元サヤハピエン主義を掲げております。
アンチ元サヤの方は回れ右をお勧めいたします。
小説家になろうさんにも時差投稿します。
行き遅れ王女、重すぎる軍団長に肉で釣られる
春月もも
恋愛
25歳、独身、第四王女システィーナ。
夜会でも放置されがちな行き遅れ王女の前に、ある夜突然現れたのは、ローストビーフを差し出す重すぎる第三軍団長だった。
形のない愛は信じない。
でも、出来立ての肉は信じてしまう。
肉に釣られ、距離を詰められ、気づけば下賜され、そして初夜へ。
これは、行き遅れ王女が重たい愛で満たされるまでの、ちょっとおかしなお話。
王子様とずっと一緒にいる方法
秋月真鳥
恋愛
五歳のわたくし、フィーネは姉と共に王宮へ。
そこで出会ったのは、襲われていた六歳の王太子殿下。
「フィーネ・エルネスト、助太刀します! お覚悟ー!」
身長を超える大剣で暗殺者を一掃したら、王子様の学友になっちゃった!
「フィーネ嬢、わたしと過ごしませんか?」
「王子様と一緒にいられるの!?」
毎日お茶して、一緒にお勉強して。
姉の恋の応援もして。
王子様は優しくて賢くて、まるで絵本の王子様みたい。
でも、王子様はいつか誰かと結婚してしまう。
そうしたら、わたくしは王子様のそばにいられなくなっちゃうの……?
「ずっとわたしと一緒にいる方法があると言ったら、フィーネ嬢はどうしますか?」
え? ずっと一緒にいられる方法があるの!?
――これは、五歳で出会った二人が、時間をかけて育む初恋の物語。
彼女はまだ「恋」を知らない。けれど、彼はもう決めている――。
※貧乏子爵家の天真爛漫少女×策略王子の、ほのぼのラブコメです。
※ノベルアップ+、小説家になろうでも掲載しています。
猛獣のお世話係
しろねこ。
恋愛
「猛獣のお世話係、ですか?」
父は頷き、王家からの手紙を寄越す。
国王が大事にしている猛獣の世話をしてくれる令嬢を探している。
条件は結婚適齢期の女性で未婚のもの。
猛獣のお世話係になった者にはとある領地をあげるので、そこで住み込みで働いてもらいたい。
猛獣が満足したら充分な謝礼を渡す……など
「なぜ、私が?私は家督を継ぐものではなかったのですか?万が一選ばれたらしばらく戻ってこれませんが」
「その必要がなくなったからよ、お義姉さま。私とユミル様の婚約が決まったのよ」
婚約者候補も家督も義妹に取られ、猛獣のお世話係になるべくメイドと二人、王宮へ向かったが…ふさふさの猛獣は超好み!
いつまでもモフっていたい。
動物好き令嬢のまったりお世話ライフ。
もふもふはいいなぁ。
イヤな家族も仕事もない、幸せブラッシング生活が始まった。
完全自己満、ハピエン、ご都合主義です!
甘々です。
同名キャラで色んな作品を書いています。
一部キャラの台詞回しを誤字ではなく個性として受け止めて貰えればありがたいです。
他サイトさんでも投稿してます。
皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる
若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ!
数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。
跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。
両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。
――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう!
エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。
彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。
――結婚の約束、しただろう?
昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。
(わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?)
記憶がない。記憶にない。
姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない!
都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。
若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。
後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。
(そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?)
ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。
エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。
だから。
この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し?
弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに?
ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。
田舎暮らしの貧乏令嬢、幽閉王子のお世話係になりました〜七年後の殿下が甘すぎるのですが!〜
侑子
恋愛
「リーシャ。僕がどれだけ君に会いたかったかわかる? 一人前と認められるまで魔塔から出られないのは知っていたけど、まさか七年もかかるなんて思っていなくて、リーシャに会いたくて死ぬかと思ったよ」
十五歳の時、父が作った借金のために、いつ魔力暴走を起こすかわからない危険な第二王子のお世話係をしていたリーシャ。
弟と同じ四つ年下の彼は、とても賢くて優しく、可愛らしい王子様だった。
お世話をする内に仲良くなれたと思っていたのに、彼はある日突然、世界最高の魔法使いたちが集うという魔塔へと旅立ってしまう。
七年後、二十二歳になったリーシャの前に現れたのは、成長し、十八歳になって成人した彼だった!
以前とは全く違う姿に戸惑うリーシャ。
その上、七年も音沙汰がなかったのに、彼は昔のことを忘れていないどころか、とんでもなく甘々な態度で接してくる。
一方、自分の息子ではない第二王子を疎んで幽閉状態に追い込んでいた王妃は、戻ってきた彼のことが気に入らないようで……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる