【夜を恐れる青年侯爵】 婚約から始まる恋

星乃和花

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番外編五 小さな嫉妬(カイル視点)

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嫉妬という感情は、夜よりも昼に形を持つ。
光の中で、胸の内の影がはっきり見えてしまうからだ。
――この日の昼下がり、応接室の窓はよく開いていた。
レースの向こうで庭の白花が揺れ、銀の鈴ではない、剪定ばさみの安心する音がときどき届く。

彼女の従兄だという青年が、柔らかな笑顔で古い思い出を語っていた。
「エリーナはね、昔から本の読み聞かせが得意で――」
「覚えていらしたのですね」
彼女は笑い、茶器を丁寧に配している。声は澄んで軽い。
その軽さは、私のためにだけ鳴ってほしい、という幼い欲求を呼び起こす。

私は自分の膝の上で、そっと指先を“二度”。
合図は、夜を通るための道具だが、昼に使ってはいけない決まりはない。
二度――胸の奥の針が、正時へ戻る。
嫉妬は、無音ではない。小さく軋む音だ。私は知っている。

「侯爵、ご機嫌うるわしゅう」
従兄は礼儀正しく、悪意などひとかけらもない。
分かっている。理屈では、すべてが分かっている。
だが、理屈と速度は別だ。胸の内の“今”の速度が、少しだけ躓く。

「お加減はいかがです」
私の声はいつも通りに出たはずだ。
彼は近況を述べ、領内の祭の話題へ滑らかに移る。
そのたび、エリーナの横顔がやわらかくほどけ、扇の影が笑いの形を作る。

――面白くない。
この言葉を、私は胸の内でだけ認める。
“やわらかな規則”の第一。嘘はつかない。
言えないなら、黙っていてよい。だが、平気なふりをしすぎない。

私は卓の下で、彼女の指先を探した。
触れない距離だった。
代わりに、視線を送る。昼の規則――「手を放すときは、目を合わせる」。
彼女は気づき、ふとこちらを見る。
瞳が細く笑い、ほんの瞬きの間に“ここにいる”と、光で言う。
胸の針が、もう一目盛り、正時へ寄る。

やがて従兄は席を立ち、次の約束へ向かった。
扉が閉まり、応接室が静かになる。
私は深く息を吐き、正確に言葉を選ぶ。

「……一つ、報せがある」
「はい」
「今の私は、少し嫉妬している」

彼女は驚かない。
むしろ、その言葉を受け止める場所を、最初から胸の前に空けていたみたいに、静かに頷いた。
「ありがとうございます。――“嘘をつかない”を守ってくださって」
「面白くない。君が軽く笑う声が、私のときより軽く聞こえた」
「軽さは光に紛れます。昼はそういう時間です。……でも、カイル様の番にすれば、重さも甘さも、好きに調律できます」

彼女は卓上の小さな紙片を取り、さらりと書く。
“昼は窓、心は影。影を指でなぞる”
折り畳み、私の掌へ載せる。
昼の鍵は軽い。だが、扉は確かに開く。

「嫉妬の合図を、昼にも作りましょうか」
「合図」
「ええ。夜は“二度”。昼は――」
彼女は笑って、私の袖口を小さく“とん”と叩いた。
「“ひと灯”。軽く一度。『窓を開けて』の合図に」
「良い名だ」
“二度”が橋なら、“ひと灯”は窓だ。
橋で渡り、窓で換える。息と光が、胸の中でうまく循環を始める。

「では、実地で」
彼女は立ち上がり、窓を大きく開いた。
庭の白花の匂いと、噴水の細い音。
「“ひと灯”が来たら、わたしは窓を開けます。
それから、あなたの番――“正時”をひとつ、置いてください」
「一、二、三。……“二”」
声にした瞬間、秒針が集まる。
夜の道具を昼に使うのは、規則違反ではない。
むしろ、道具はふたりのものだ。

「私はあなたを見ます。目で“ここにいる”。それでも足りなければ、触れます。
触れたら、今度はあなたが“返事”をください。――二度」
「二度」
掌が触れ、皮膚の下で小さな音が鳴る。
嫉妬は、音のない霧ではない。こうして輪郭を与えれば、掴める。

「それから、もうひとつ」
彼女は私の肩越し、さきほど彼女が笑っていた空間を見やる。
「“嫉妬の理由を一行で”。長い弁論にしないで、今の速度に合わせて。
……今のカイル様なら、どんな一行です?」
私は考え、紙片の裏に短く記した。
“君が遠くへ軽く笑うのが、惜しい”
彼女はそれを読み、頬を染め、小さく笑う。
「では、その笑いを“近くへ”調律しますね」

彼女は私の椅子の前まで来て、両手を差し出す。
昼の規則――“手を放すときは、目を合わせる”。
今は逆に、手を取るときも目を合わせる。
瞳で“ここにいる”を言い、指先で“二度”を返す。
胸の針が完全に正時へ重なる。

「……わかった。今の私は、夜を怖れるときと、構造が同じだった」
「構造?」
「“今が遠のく”感じがして、胸の内で秒針が散る。
ならば、君と決めたとおり――合図と鍵と、短い文で集め直せばよい」

私は書斎の引き出しから薄い紙を取り、ペン先を湿らせた。
“昼は窓、心は影。影を指でなぞる――窓を開け、正時を置く”
折り畳み、引き出しの奥へ滑らせる。
昼にも鍵を。夜だけのものにしない。

「ところで、もう一つだけ、わがままを言ってもいいか」
「なんでしょう」
「君が誰かに昔話をする時、私にも“ひと灯”を。
私は窓を開け、君の今をこちらへ招きたい」
「喜んで。では――今、ひと灯」
袖口に優しい一度。
私は窓へ向かい、鍵のように取っ手を回した。
白花の匂いが入ってくる。
「正時を」
「一、二、三。……“二”」
「ふふ。調律、完了です」

彼女は椅子へ戻り、茶を新しく淹れる。
蜂蜜をほんの一滴――甘さは鍵、重すぎない量で。
「カイル様」
「うん」
「わたしも、すこし嫉妬します」
「何に」
「あなたの“今”を、窓の外の誰かが長く見ていたら――惜しいです」
胸の内の光が、照れくさく膨らむ。
「ならば、私も“ひと灯”を出そう。君が窓を開け、正時を置いてくれ」
「はい。……いつでも」

カップが卓上で小さく鳴る。
音は薄いが、確かだ。
合図は約束ほど硬くならず、方向だけを照らす。
昼は窓、心は影。
影は、指でなぞれば模様になる。

応接室を出る前、私は指先で“二度”。
彼女も“二度”。
夜の道具が、昼に響く。
嫉妬は、やがて“余白”へ移った。
余白は、不足ではない。ふたりで書き足していく場所だ。

廊下の先、北の書斎へ向かいながら、私は胸の内で短い文をもう一つ、整える。
“昼は窓、声は糸。君に結べば、遠さはほどける”
紙にして、鍵として、引き出しへ。
扉が静かに閉まり、窓の光が机の上で四角い明るさを作る。
私は笑い、二度、指先を打った。
――ここにいる。今にいる。
そして、次に嫉妬が来ても、渡れる。

(つづく/次回:番外編六)
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