Underworld

アカアシトカゲ

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Day 5. トンネル

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 ノアがゆっくりと目を開けると、テントの天井が、黄色い幕越しにゆらゆら揺れていた。

 横を見る。ルカはいない。

 また寝過ぎたか、と身体を起こす。
 
(そういえば、最近夢を見てない。……疲れてるのか)
 
 ぼんやりそんなことを考えながら、寝袋を畳んでテントを出た。

 天気は快晴だった。

 青い空が、今日も頭上一面に広がっている。

 昨日、夕暮れの中で見た廃屋は、日差しの下で見ると、随分と立派な石造りの家だった。二階部分がところどころ残り、朽ちた家具や棚らしきものが斜めに倒れている。周りには、同じような家が点々と並んでいた。

 建物の外に出てみる。バイクはすぐそばにあった。

 ノアはボトルの水をひと口飲み、周りを見渡した。少し離れた廃屋の入口から、ルカが姿を現す。

 ノアに気づくと、小走りで戻ってきた。

「何してたんだ」

「ちょっと早く起きたからさ。なんか使えそうなのねぇかなって漁ってた」

「何か、あったのか?」

「ない」

 ルカは首を横に振り、あっけらかんと笑う。

 ノアは、自分たちが寝ていた廃屋の、まだ残っている二階部分を顎で示した。

「あの辺は見たか? 棚とか残ってるけど」

 ルカは示されたほうを見上げる。

「あー、この家はお前が寝てたからまだ見てねぇや」

 そう言って、崩れた瓦礫を足場にして、ひょいひょいと二階へよじ登る。

「おお、マジだ。食器っぽいのとか、細かいの結構残ってるな」

 上から、がちゃがちゃと物を動かす音がする。ノアも少し気になって、同じようによじ登った。

 ルカは、細長い小さな棚の引き出しをこじ開けていた。

「お」

 棚の奥から、何かをつまみ出す。

「なんだそれ」

 ノアが近づく。

「昔のアクセサリーかな。石っぽいし、磨いたらもっと綺麗になるかも」

 小さなペンダントトップを指先でつまみ、光にかざす。

「ナオミに持って帰ってやろ」

 ルカはそう言って、少し嬉しそうにペンダントトップをポケットへしまった。

「……やっぱり彼女なんじゃねぇか」
 
 ノアは思わずぼそりと呟く。
 ルカはその言葉に、ぱっと顔を上げた。

「ちげぇって。幼馴染だって言ったろ」
 
「幼馴染から発展するパターンもあるだろ」

「ねぇよ」
 
 ルカは笑って首を振る。

「……モテそうだもんな、ルカは」
 
 ノアが腰に手を当ててルカを見る。背が高く、自分とは違いたくましい。

 じろじろと見るノアに、ルカは眉を下げて、頬をかいた。

「お前に言われると、なんか複雑だわ」
 
「え?」
 
「なんでもねぇって。 てか、そんなに俺のこと気になんの?」

 茶化すように笑いながら、ルカがノアの顔を覗き込む。

「別に」

 ノアは視線を逸らし、そのまま先に瓦礫を伝って下に降りた。

 あとを追ってルカも笑いながら降りてくる。二人でテントを畳み、瓦礫だらけの住宅街を後にした。

 住宅街を抜け、バイクは細い坂道をゆっくり登る。

 目の前にはルカの背中と、青い空。ノアは荷台に手をつきながら、その後ろ姿をじっと見つめていた。
 
 ここ数日間、見続けた大きな背中。
 
 ルカはいつでも前を見ている。バイクと共に、どんどん前に進んでいく。自分を乗せて。

 短い赤茶色の短髪が風でぱさぱさとなびく。
 
(面倒見もいいし。やっぱりモテるだろ、これは)
 
 ふと、さっきの会話の名残が頭を掠めた。

 坂を登り切ると、高架道路に出る。右側は切り立った斜面に廃屋が点在し、左の眼下には田舎のような街の跡地が広がっている。

 ところどころ、木の根に覆われた軽トラックが横たわり、崩れた家々の隙間からは草木が好き放題に伸びていた。

 道は緩やかにカーブしながら、どこまでも続いている。その先に、山の影が見えた。

「あの山の下に長いトンネルがあって」
 
 ルカが前を指さす。
 
「そのトンネルを抜けたら街がある。理由があって、そこは迂回するけどな」

「街か。寄らないのか」

「あんま寄りたくはねぇな」
 
 前を見たまま、苦笑いする。

 ノアは下の田舎街へ視線を落とした。よく見ると、アッシュ・ウルフらしき小さな黒い点が、あちこちに蠢いているのが見える。

「ウルフ、下にたくさんいるな」
 
「ここの下はウルフの巣窟だからな。誰も近づかない」
 
「トンネルの先の街も、そんな感じなのか?」
 
「うーん。ウルフじゃねぇけど、巣窟であることには変わりねぇだろうな」

 ノアはいまいちピンと来ず、首を傾げた。

 しばらく走ると、目の前に大きなトンネルの入口が見えてくる。かつての幹線道路だったのだろう。二車線分の幅がある、古いコンクリートのトンネルだ。

 ノアは左右を見る。片側は崖、もう片側は瓦礫と廃墟の山が、壁のように連なっていた。

 そのとき、ピピ、と警告音がバイクの前方から鳴った。
 
 ルカは首を傾げスピードを緩める。トンネルに近づくほど、警告音は大きくなっていった。

 バイクは、トンネルの手前で停止した。警告音が絶え間なく鳴る。

「毒か」
 
 ルカが舌打ちする。

「毒が残ってるのか」
 
 ノアはバイクから降り、トンネルを見上げた。ルカは荷物から地図を引っ張り出す。

「毒はトンネル内に残りやすいからな……。通れねぇもんは仕方ねぇ。いったん戻って、大きく迂回しよう」
 
「どこまで戻るんだ?」
 
「ハイウェイまで戻らないとだな。橋も落ちたから、別ルートで」

 ノアはちらりと地図を覗き込んだ。

 少しだけ考えてから、バックパックにぶら下げているガスマスクを手に取る。

「ルカ」

 呼ばれて、ルカは地図から顔を上げた。

「ここからは、一人で行く」

「は? 待てって」
 
 ルカは慌ててバイクから飛び降りる。

「俺はマスクがあるから毒は平気だ。迂回するとなると、またかなりかかるだろ。これ以上、迷惑ばっかかけられない。それに――」

 ノアはふと、ルカの手元の地図へ視線を落とした。指で現在地をなぞり、ふっと息を漏らした。

「……もう約束の場所、とっくに過ぎてんじゃねぇか」

 ルカが息を呑む。
 口を開きかけて、閉じた。何か言いたそうに、眉を寄せる。

「充分、助けてもらった。ありがとう」

 ノアはそう言って、ルカの肩に手を置く。

「地上で、お前に会えてよかった」

 ルカの目が見開かれる。

「一人だったら、多分ここまで来れなかった」

 ぽん、とルカの肩を叩き、マスクを顔につける。

 
 *

 
 ルカは何も言えなかった。言葉が、喉の奥で詰まって出てこない。

「ちゃんと気をつけて行く。……帰ったら、余ったヌードルやるから」

 そう言い残し、ノアは静かに、トンネルへ向かって歩き出す。その背中が、暗闇に少しずつ溶けていく。

 やがて、見えなくなった。

 ルカは、その場に立ち尽くしていた。
 
 胸の奥で、どうしようもない感情がぐるぐると渦を巻いている。

 視線を上げる。
 
 トンネルの上――崩れた廃墟の山。

 ルカはその瓦礫を、じっと睨みつけた。
 

 *

 
 トンネルの中は、暗かった。

 非常灯も機能していない、真っ暗闇。少し進むと入口の光も届かなくなり、ノアは懐中電灯を取り出した。

 一度、後ろを振り返る。入り口の光は、もう小さな点にしか見えない。

 地面はところどころ抉れている。
 足元を照らしながら、慎重に歩を進めた。

 とてつもなく静かだ。

 響くのは、靴底がアスファルトを踏む音と、ガスマスクの中で反響する自分の息だけ。

 たまに、チチ、と何かの鳴き声が聞こえる。そのたびに、ほんの少し肩が跳ねた。

 ここ数日は、前から聞こえてくる声があった。
 くだらない話とか、地上の豆知識とか。
 すぐ前にある体温に、思っていた以上に安心していた事に気づく。

(ルカ。……ちゃんと、戻れればいいんだが)

 光の届かない、ひんやりとした空気が、余計に冷たく感じる。
 ピチャ、とどこかで水滴が垂れる音がした。

 瓦礫と緑が混ざり合った景色。
 時間で色を変えていく空。
 少し進むたび姿を変える地上の世界は、美しいと思う。
 
 だが同時に、自然がいかに過酷で、簡単にはいかないものかも、この数日で嫌というほど思い知った。

(ルカがいなければ、ここまでは来れたかどうか)

 ここから先の地図は、頭に入っている。
 進むべき方向も、分かっている。

 それでも、自分一人でたどり着けるのかと不安になる。

 最初は一人で行くはずだった道。
 気づけば、ずっと助けられてばかりだった。

 また、チチ、と鳴き声。はっとして、懐中電灯をそちらへ向ける。拳ほどの大きさの黒い影が、光の端を横切った。

 壁をなぞるように光を移動させる。コンクリートには無数の細かいヒビが入り、ところどころで剥がれて鉄骨がむき出しになっていた。

 懐中電灯を、再び前へ向け直す。
 まだまだ暗闇が続いている。先は何も見えない。

(長いな……)

 ため息を吐きそうになって、やめた。マスクの中が曇る。

 『地上で、お前に会えてよかった』

 さっきルカに向かって言った言葉を思い出す。
 なぜ、あんなことを口にしたのか、自分でも分からない。ただ、言わずにはいられなかった。

 別れ際のルカの顔。納得いかないような、困った顔をしていた気がする。急に一人にして、怒っているかもしれない。

 ちゃんと戻れたら、改めてお礼を言いに行こう。ヌードルを持って。

(戻れたら……か)

 昨日みたいに、諦めるつもりはもうない。
 ノエルと共に海に行く。

 ──行って、どうする?

 そこから先までは、まだ考えられない。

 ぼんやりしていて、足元の何かに躓いた。反対の足を咄嗟に出して、なんとか踏ん張る。懐中電灯で足元を照らすと、瓦礫が通路の半分ほどを塞いでいた。

 瓦礫を避けるように大回りする。
 
 ビチャ、と水たまりを踏む音と、足に泥が絡む感覚。

 ふと、ノアの中で何かが折れて、瓦礫の上にそのまますとんと腰を下ろした。

 毒にやられたわけではない。
 マスク越しに送り込まれる空気は、ちゃんと新鮮だった。

 それなのに、気持ちがやたらと重い。

(……しっかりしろ)

 自分に言い聞かせるように心の中で呟き、重い身体を引き上げる。

 前を向いても、真っ暗だった。
 
 闇の中に、一人で立っている。

 ルカといる時間は、楽しかった。自分が「楽しい」と思える時間を過ごせることに、少し驚いた。

 飯も、釣りも、くだらない話も。いつの間にか、そばにいるのが当たり前になっていた。

 もう会えない。

 そう思った瞬間、胸なのか胃なのか、どこかがぎゅっと痛んだ。

(なんなんだ、これ)

 頭を軽く振り、歩みを続ける。
 

 どれくらい歩いただろう。

 大した距離じゃないはずなのに、ずっとこのトンネルの中にいるような気がしてくる。

 真っ暗で、いつまでも終わらないこのトンネルは、まるで自分の心の中みたいだと思った。

(ちゃんと、出口なんてあるのか)

 それでも、前に進むしかない。
 一歩、また一歩と足を出す。

 果てしない時間が過ぎたように感じた頃、ようやく、遠くに光が見えた。

「……!」

 思わず、足が速くなる。
 瓦礫に躓きそうになりながら、出口に向かって急いだ。

 少し息を切らしながら、暗闘と光の境界線を越える。目の中に光が溢れて、眩しすぎて目が開かない。

「お、やっと出てきた」

 聞き慣れた声がした。
 その声に、心臓がびくりと跳ねる。

 慣れない目で前を見ようとするが、よく見えない。
 ノアはガスマスクを乱暴に外した。

 光の中に、影があった。

 逆光で顔は見えない。けれど、その見慣れたシルエットを、間違えるはずがなかった。

 バイクに跨ったルカが、そこにいた。

「え……?」
 
 幻覚かと思った。間抜けな声が漏れる。
 ルカは笑って、ノアの右後ろを指さした。
 振り向くと、ボロボロに崩れた瓦礫の山があった。

「突っ切ってやった」
 
 からりと言うが、よく見れば全身煤だらけで、頬には新しい擦り傷が増えている。カウルも泥まみれだ。

「なんで……」

 そう言いかけて、言葉が途切れる。
 喉が詰まり、上手く声にならなかった。

「諦めんなってお前を焚き付けておいて、途中で放っとけるわけねぇだろ。それに」

 ルカはポン、と後部座席を叩いた。

「俺もさ。海、見たくなっちゃって」

 にかっと笑う。

 その笑顔を見た瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れて、ノアはその場に座り込んだ。

「お、おい。大丈夫かよ。毒、回ったか?」
 
 ルカが慌ててバイクを止め、駆け寄ってくる。

「……いや。大丈夫。ちょっと、トンネルが……長かっただけだ」

 ノアは長く息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。ルカは、ふっと微笑んでノアの背中をポンポンと叩いた。

「ほら。日が暮れる前に、街迂回してくぞ」

 ノアは小さく頷く。

 バイクにまたがる。
 前にある体温に、ほっとする。

 思わず、腰に手を回し、額を背中に預けた。

「お……」

 ルカの身体が、少しだけ強張る。

 横目でノアをちらりと見て、どこか照れたような顔で笑う。そして何も言わずエンジンをかけた。

 バイクは静かに滑り出し、二人を再び、前へと運んでいった。

 
 ――

 
 バイクは相変わらず高架線の上を走っていた。

 右手に広がるのは、どこまでも続く広大な平原。家屋はほとんどなく、ときどき生き物らしき影が草むらの間を蠢いている。

 地上と空の境界線――地平線が、はっきりと見えた。
 太陽は、ゆっくりとそこへ近づいていく。

「地平線がくっきりだ」

 ルカが横目でちらちらと外を見ながら、感心したように言う。

「狭い地下じゃ、ありえない景色だな」

 ノアも、その光景から目を離せなかった。

 少しずつ夕暮れが深まってきた頃、高架線が緩やかな下り坂になる。遠くに、灯りの点在する建物の群れが、街のシルエットとなって浮かび上がった。

「あれが、迂回したいって言ってた街か?」

 ノアが顔をルカの肩口から覗き込んで聞く。

「あぁ」

 ルカは、どこか苦々しそうに答えた。

「あんま良い噂、聞かねぇんだよな」
 
「ふーん」

 ノアは瞬きをして、遠くの街を見つめる。

「なんか、栄えてそうだけどな」

 廃屋は多いが、建て直された家も多そうだ。ところどころに、ネオンのような光が瞬いている。

 ルカは肩をすくめた。

「ま、用がねぇなら避けるに越したことねぇだろ」

 バイクは坂道を滑るように下っていく。

 ──ギッ。

 突然、急ブレーキ。

「うわっ」

 ノアは不意を突かれ、ルカの背中に額をぶつけた。

「……まずい」

 ルカの声が、固くなる。

 ノアがさっと顔を横に出して前方を見る。

 進行方向の真ん中に、アッシュ・ウルフが二体。並ぶように立ちふさがっていた。

 ガサ、と音がして、ノアは反射的に振り返る。左側の瓦礫の山から、さらに一体が飛び出してきた。

「後ろにも」

 小さく呟く。

「……突っ切るしかねぇか」

 ルカは迷わずアクセルを思い切り捻った。ノアは懐から小銃を抜き、握り込む。

 バイクは前方の二体の間を、切り裂くように突っ込んでいく。

 左の一体が飛び退き、右の一体がバイクめがけて飛びかかってきた。

 それでも、ルカは避けるためにハンドルを切らない。そのまま前へ突っ込む。

 牙が、右肩を深く抉った。
 
 「……っ!」
 
 バイクが大きくブレる。
 
 「ルカ!」
 
 「掴まってろ!」
 
 ルカは悪態をつく余裕もなく、血の吹き出る肩で無理やりハンドルをねじ伏せた。

 後ろから、ドカドカと追いかけてくる足音。ノアが振り向き、小銃で牽制するように足元を撃った。ギャン、と甲高い悲鳴を上げ、追っていた一体が足を止める。

「多分……前にもまだいる」
 
 ルカが、少し苦しそうな声で言う。

「ルカ、街に行こう」

「……だな」

 短く応えて、ルカはさらにスピードを上げた。

 坂を下りきると、広い道路に出る。その先に、街全体を囲むような大きなフェンスが立っていた。

 バイクがフェンスの手前で止まる。

 ルカは左右をざっと見渡す。フェンスは高く、上には何本もの鉄線が張り巡らされている。

「高圧電流か」
 
 低く呟いた瞬間、右手側からまた複数の足音が迫ってくる。

「右から来てる!」
 
 ノアが声を上げる。

 ルカは舌打ちし、大きくハンドルを左に切ってフェンス沿いを走る。後ろから、数匹分の足音がぴったりとついてくる。ノアが威嚇するように何発か撃つが、それでもアッシュ・ウルフたちは怯まずに追い続けた。

 そのとき。

 前方から、ピーッと鋭い音が響いた。

「……口笛?」
 
 ルカが顔を上げる。

 少し先のフェンス際で、女が懐中電灯を振っていた。

「あそこかっ!」

 ルカは女めがけてバイクを走らせる。

「こっちだよ!! 早く!!」
 
 女が叫ぶ。

 彼女が指さした先、フェンスの一部が下がり、出入り口のように開いていた。ルカはそこへ向けてハンドルを切り、下がったフェンスをくぐって街の中へ飛び込む。

 女がすぐさまフェンス横のボタンを叩いた。ガン、と重い音を立ててフェンスが持ち上がる。

 追ってきたアッシュ・ウルフたちが、フェンスの目前でぴたりと足を止めた。しばらくその場でうろつきながら、じっとこちらを睨んでいる。

「……はぁ、助かった。ありがとう」

 ルカが女の前でバイクを止め、立ち上がろうとした瞬間、身体がぐらりと揺らぐ。

「おい、大丈夫か」
 
 ノアが慌てて後ろから支える。支えた右手に、ぬるりとした感触が伝わる。

 大量の血が、ブルゾンを濡らしていた。

「ルカ、これ……」
 
「たいしたこと……ねぇよ」

 そう言う顔は、さっきまでと違い真っ青だった。

 ノアは女の方を見て、口を開く。

「どこか、休める場所は──」
 
 そこまで言って、言葉が止まる。

 女は、こちらに銃を向けていた。

「色男たちには悪いけどさ」
 
 楽しそうな声色で、女が言う。
 
「これ全部、もらってくから」
 
 銃を構えたまま、バイクへと歩み寄ってくる。

「おい! 待て!」

 ノアが制止しようとした瞬間、ルカがとうとう膝をついた。

「ルカ!」

 思わずそちらへ体を向けた、その一瞬の隙に、ボボッ、とエンジン音を残し、物資ごとバイクが女の手で奪われていく。

 遠ざかる背中を見ながら、ノアはギリ、と歯を食いしばった。

 すぐに自分の服を裂き、ルカの肩口をきつく縛る。

 ルカは荒い息を吐き続けていた。意識は、今にも途切れそうだった。

「……おいおい。何があった」

 背後から、低い声がした。

 ノアがはっとして振り返る。

 長身の男が立っていた。金髪を後ろに流し、茶色い革のロングコート。威圧感のある雰囲気に、ノアの警戒心が湧く。

 ルカを庇うように立ち上がった。

 男はフェンスをちらりと一瞥し、それからルカに目をやる。

「アッシュ・ウルフにやられたか。放っとくと危ねぇぞ」

 ノアの表情に動揺が走る。男は、ふっと口元だけで笑うと、無線機のようなものを取り出した。

「怪我人を連れていく。医者呼んどけ」

 短く指示を飛ばし、視線を戻す。

「車まで運ぶぞ。手伝え」
 

 ――
 

 夜の街並みは、思っていた以上に明るかった。

 ところどころに人だかりができ、露店のようなレストランからは、湯気と肉の匂いが漂ってくる。瓦礫もまだ多く残っているが、道はしっかりと整備されていた。

 男の車で向かった先は、街の中央部にあるナイトクラブのような建物だった。

 外壁は丁寧に補修されており、看板のネオンは眩しいほどに瞬いている。

 車が停まると、中から数人の男たちが出てきて、手際よくルカを担いでいった。

 建物に入ると、大きなホールのような空間に出る。ルカはそのまま廊下の奥の部屋へ運ばれていった。

「どこへ──」

 後を追おうとしたノアの肩を、男が片手で制する。

「落ち着け。ウルフの噛み傷には抗生剤が要る。ちゃんと処置できるやつがいるから安心しろ」

「……そうなのか……助かる」

 ノアは奥の扉を一瞬見つめ、それから男を振り返る。

 男はゆったりとホールの椅子に腰を下ろし、ノアをまっすぐ見た。暗がりで見ると威圧的でしかなかったが、明るい場所で見るとずいぶん整った顔をしていた。

「ゾランだ。この辺を仕切ってる」
 
 さらりと名乗る。

「お前らはウルフから逃げて、この街に転がり込んだってわけか。──手ぶらでこの辺歩ってたのか?」

「ノアだ。あっちはルカ」
 
 ノアは短く名乗り、それから顔を曇らせた。

「……荷物は、バイクごと入口にいた女に盗られた」

 ゾランは片眉を上げ、面倒そうに舌打ちした。
 
「テッサめ。またやりやがったか」

 ノアは腰のあたりへ手を伸ばしかけて、はっとする。切れたベルトごと荷物に突っ込んでしまったことを、今さら思い出した。

 指先が震え、ぐっと眉が寄った。
 
「そのテッサとかいう女はどこだ。大事なものを盗られた」

 ゾランはしばらく考えるように目を細め、それから口を開く。

「荷物はあとで返させる。それより、どこから来た。この街を目指してきたのか?」

「違う。街は迂回して、海を目指す予定だった」

 ゾランの眉が、わずかに上がる。
 
「海? なんでわざわざ海なんかに行きたい」

 ノアは視線をさまよわせ、やがて諦めたように息を吐いた。

「弟を、連れて行きたいんだ」
 
「噛まれたやつか? 弟には見えねぇが」

 ノアは首を振る。

「ルカは、案内してくれてる……。弟は、盗られた荷物の中だ」

「荷物の中?」

 ゾランの目が細くなる。

 ノアは、ほんの少し間をおいてから続けた。

「……弟の、遺灰が入ってる」

 ゾランが、わずかに目を見開く。
 
「お前、地下から来たのか」

 ノアが顔を上げる。

「なんで、そう思う」
 
「地上じゃ、死んだ人間を灰にはしねぇからな」
 
「……」

 ノアは言葉を失い、少し俯いた。そのとき、廊下から白衣の男が歩いてくる。
 
「応急処置は済みました」

「おう。助かった」
 
 ゾランが軽く手を上げると、白衣の男は小さく会釈してホールを後にする。

 ゾランがノアの方を見る。顎で奥の部屋を示し、短く頷いた。

 ノアはすぐに立ち上がり、足早に部屋へ向かう。
 

 ルカはベッドの上で眠っていた。

 肩口には包帯が巻かれ、荒いながらも規則的な呼吸をしている。ノアはベッド脇の椅子に腰を下ろし、じっとルカの顔を見つめた。

 そっと、手を握る。

(死ぬなよ……)
 
 小さく祈るように、指先に力を込めた。

 窓の外では、夜がゆっくりと明けていく気配だけが、静かに流れていた。
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