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第1部 まるで初めての恋
5-1【婚約者の陰と見合い相手】
しおりを挟む朝、目が覚めて隣には愛しいひとがいる。
口を開けて眠っていたらしく、陽菜は口端から垂れた涎を拭われて、ショックを受けた。喉を震わせて小さく笑う最賀は陽菜の髪を撫でて、おはようと呟いた。
「気持ち良さそうにぐっすり眠ってるから」
枕は涎の海になっていないか心配になったが、最賀がどうやら指の腹でキャッチしていたようだ。寝起きから何て失態を晒したのか、と陽菜は布団を深く被った。
「私、涎垂らして寝てたのに……っああ、恥ずかしいです」
「大丈夫だって……昨夜散々疲れさせたの、俺なんだから」
「い、言わないで下さい……」
布団を頭まで被った状態で最賀はがばりと布団毎抱え込んだ。二人はベッドで戯れながら、おはようのキスをもう一度した。
顔を洗いに二人で洗面所へ向かう。先に良いか、と顔を冷水でばしゃばしゃと洗って、洗顔するとタオルを探して手が彷徨っている。その水に滴る気怠げなシャープな横顔が美しくて、陽菜はまた見惚れてしまう。
ふう、と息を吐いて仕方無く掌で水捌けをする仕草が妙に艶かしい。陽菜はみるみるうちに体が火照ってしまって、それでも熱っぽい視線を向けたまま目を逸らせなかった。
美しい、自然界に生きる獣みたいだ。
世界では弱肉強食が広がっている。陽菜の様な弱く未熟な生物は真っ先に生命を絶たれるが、この様なしなやかで、生きた証を抱える人間を見たことが無かった。
「……そんなに熱く見詰めるな、キスするぞ」
「……あ、え、と」
顔を拭いて、眼鏡を掛けると冗談にしないぞ?と壁に迫られる。背中にひんやりとした洗面所のカルキ部分が当たっているのに、体が最賀を求めている。
全身が、最賀忠を受け入れたいと叫んでいる。
「せ、んせ、あの、キスは…」
「うん、して欲しい?」
「はい……して、欲しい、です」
まだ夢の中にいるのかと思った。はあ、と吐息が自然に溢れて、シンクの上に体を持ち上げられる。首筋に舌を這って、借りたシャツが肌ける。そのまま段々と下におりて、それから昨夜の情事を上塗りするのだ。
「先生、やっぱり手馴れてる」
頬を膨らませて陽菜は味噌汁を味見する最賀に言う。
陽菜は散々、体を弄られて体力をごっそりと削られたのにも関わらず飄々としている最賀に心底驚いたものだった。
自炊は偶にする、と首を触りながら言うものの、冷蔵庫の中は殆ど無かった。確かに最近は病院に殆どいる、一層のこと住んでやろうかと冗談混じりに口にするので、陽菜は何も言い返せなくなる。
こんな時、どう声を掛けたら良いのだろうか。最賀を待つ患者が多くいる手前、気の利いた言葉が見付からない。
残った食材をかき集めて、冷やご飯と卵、冷凍焼寸前のベーコンで何とかオムライスを作る。コンソメ系のスープの材料は無かったので、汁物に何とか味噌汁を。小さな一人用の鍋で葱の味噌汁を作りながら、フライパンにバターを敷いてケチャップライスを仕上げる。
「手際良いな……」
「え……そうですか?」
実家にいた頃は離れに住んでいたので、専らガスコンロ一つでやりくりしていたが、現在は生活の質は格段に上がり二口コンロなので時短と要領ばかり考えている。
二つあれば、スープと主菜を同時進行で作れることが嬉し過ぎて、つい力が入ってしまうのだ。
「二口コンロを同時に使ったことなんて無いぞ」
「え?!じゃあ普段どうしていたんですか?」
「男はな、そんな同時進行なんて出来ない!俺は丼物の具材のレパートリーだけは、ある……」
徐々に声が小さくなって行き、自信無さげな様子で最賀は味噌汁を混ぜながら言う。男の一品料理と言うものだろうか。確かに、皿は汁物入れても二つで済むし、何なら多くの人間は丼物で済ますかもしれない。
陽菜は牛丼?と尋ねると、鉄火丼…とまた期待を裏切られた顔をする。
「漬け丼美味しいですよね」
「刻み大葉とわさび醤油に、黄身を二つが鉄板なんだよ」
「それじゃあ今度先生にお願いても良いですか?」
「まあ、そんなので良いなら……」
陽菜は卵をふんわりと半熟にして作り上げるとケチャップライスが乗る皿に被せた。とろっとろの卵との相性は抜群である。
食卓を囲んで一緒に食事を摂るのは、何だか気恥ずかしい。陽菜が手慣れていると指摘すると、態と肩を竦めて見せる。
「歳上の男なので、まあ、それなりに…」
「そう……ですけど……」
「嫉妬してる、可愛いな山藤は」
嫉妬。テレビや雑誌で見たことのある単語だ。陽菜は自分の中にそんな感情が湧き出たことに吃驚した。
特別、過去に好きな人が出来た経験が微塵も無かったので、同級生の言う彼氏が女友達と何処か出掛けただの、元カノが四人いた等に対して悋気いたのを思い出した。
「俺だって久方振りだよ、ゆっくり初めて行こう」
オムライスを豪快にスプーンで掬って大きな口を開ける最賀の感想を待つ。もぐもぐと咀嚼して、飲み込むと美味しいぞ?とだけ言うのだ。陽菜はやっと安堵してスプーンを手に持った。チキンの代わりにベーコンライスにしたが、ケチャップと相性良く陽菜の空腹を満たす。
小さめのスプーンでオムライスを食べていると、食べるスピードの違いか最賀は三分の一まで減っていた。陽菜はと言うと、まだ半分以上残っており、比較すれば医師である最賀は普段の忙しなさを物語っていた。
だが、陽菜とは異なり大きな口で食べる姿は、まるで捕食者だ。その口が、唇が、舌が陽菜を味わったのだと思い出して、俯いてせっせと半熟卵を乗せたオムライスを口に詰め込む。
「……あと、院内で変な噂、聞いてるかもしれないが、俺は全くその気は無いからな。先に言っておく」
「噂?」
「知らないなら良いんだよ、誰彼構わず風潮して迷惑してるから」
「先生、普段からこうだからでしょう?」
かちゃりとスプーンを置いて、眉間を摘んで険しい表情を作り上げた。大抵、最賀は院内にいる時は眉を顰めて皺を寄せるのだ。
「そんな顔してるか?」
「うーん、笑わないって良く言われてる、かも?」
「面白くも無いのにどうして笑う必要があるんだ?」
確かに、それは一理あるかもしれない。
笑いたく無い場面でも、気を遣って愛想笑いをすることも屡々見受けられる。それは日本社会では相手に同調したり、調和を乱さない言動を表情にも強いている気がする。
「別に……俺だって、家ではそこそこ笑ってるさ。人間ですもの」
「お笑い観ている時とか?」
陽菜はテレビでネタを披露するお笑い芸人の芸風や、面白さは良く分からない。テレビを観る機会は殆ど無かったからだ。古ぼけたブラウン管テレビで何とかアンテナの調子が良い時に、こっそり音量を絞って離れの家で天気予報や時事ニュースを観るだけだった。
楽しそうに演目で大笑いする人々の声や、溌剌さは陽菜を一層孤独感を引き寄せるので、無意識に避けていたのかもしれない。
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