14 / 15
懐中の手駒
しおりを挟む
馬子の嶋の屋敷には、主人一族が住む母屋の他にも、郎党のための別棟や、奴婢どもが寝起きする長屋が、広い土地の中に並んでいる。その下人などの所にさえもやや離れて、さびしくやせた柳を頼るように、ぽつねんと建っている一つの小屋があった。
昼でも日当たりの悪い室内には、中旬の月も冷たく顔を隠し、ただ蝋燭の灯し火だけが、四面に迫る壁を照らしている。
小屋の住人は、かつて池辺直氷田と呼ばれた男である。池辺氏は東漢氏の支れなので、姓を重ねて東漢池辺直と称することもあった。
馬子の手先として健脚と辣腕を振るい、荒い仕事を請けていたこの男も、いつか瘡の病に冒されて、熱と痛みにさいなまれる身となった。その時の苦しみといえば、身を焼かれ砕かれるが如く、死をも覚悟したほどであった。幸い命は取られずにすんだものの、肺に障りが残って、主君のために奔走することはできぬ体となってしまった。
馬子は、病み上がりの氷田に扶持を与えて養い、屋敷の片隅に小屋を作って住まわせた。それから今に至る三年ほどは、氷田にとっては辛い暮らしであった。待遇が不満なのではない。主人から頂く恩ばかりが増えて、恩に報いるのに十分な働きができないのだ。時には舶来する文献の整理を任されることもあるが、そんなでは満足するに遠く遠く及ばない。
借りた恩を負ったままの魂は、死んでも神の里に帰ることができず、黄泉の岩根に塞がれた、暗い土の中の牢獄に囚われると、世々伝えて故老は謂う。そういう話しは誰もが幼い頃に聞かされている。
――恩に酬いぬ腐れ奴。
という誰かの陰口が耳に入ると、それが自分に向けられたのでなかったとしても、胸の底に重いものが沈殿するのを感じる。病でなくても死にそうな気分になる。
そういう時には、懐に手を入れて、一つの手拭いを取り出す。素い布地に、黒々と墨を走らせて、摩訶般若波羅蜜多心経を書き写してある。
(観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五薀皆空、度一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子……)
教理の奥深い所は解らない。それでも念経すると、心が鎮まった。
死ねば、恩は返せない。生きるほどに債務は貯まるが、最期にはきっと命を捨てて報いる機会が得られよう。そうでなければならない!
氷田は、主君の恩を決して忘れていないという証に、馬子にかけて、こうま、即ち、
「駒」
と名を改めた。東漢直駒、というのが今の名のりになっている。
さて泊瀬部王の第五年冬十月中旬、肥えた月が高く照らす空の下に、駒は暗い小屋からそっと外へ出た。人目に立たず、夜陰の中を、どこそこへ来いとは、むかし病気をする前に、裏の仕事の指図をしに、馬子が駒に命じた言葉でもあった。
(それを今宵は、何の話しにか、おれを呼び出されるや)
駒は、広い庭を徐かに歩いて、あの池へ向かう。中の嶋へは、浮き橋が渡してある。馬子は、嶋に植わった松の樹のもとで待っているという。
駒より一足先に、馬子は浮き橋を踏む。板を縄で繋いで浮けただけのものだから、歩けば揺れて波がさざめく。馬子は考えを反復させる。
――もし。
それが炊屋姫の本意であるとしても、明確な指示があったわけではない。実行した結果として、状況がまずくなれば、自分が罪を被せられることになろう。だが、そうしなかったとしても、生きる道は無い。するからこそ、あの大いなる姪の腹心でいられるのだ。
物事には、押しとどめられない勢いというものがある。今その力が、馬子の背を押している。かつて馬子自身がしたことも、この勢いを作る流れの一部となっているのだ。
駒は、馬子よりも身軽に、すっと浮き橋を渡ってきた。
「寄れ、これへ」
再三促されて、駒は馬子の膝に触れるほどの所に近づいた。馬子は駒の顔や息をする具合を窺う。体の調子は悪くなさそうだ。平生の容子からしても、急に走ったりしなければまず障りはないのだろう。
「さては、娘のことなるが」
と馬子は切り出す。馬子の末の女、河上娘というのは、駒も同じく瘡の病に冒された者として、噂を聞けば同情を寄せている。ただ普段は母方の家で養生しているというので、姿を見ることはほとんど無い。馬子は月を見上げて話す。
「わが王よりの重ねての命せにて、とうとう縁談つかまつることとなりけるが、わしも人の親。輿入れをする前に、一たび顔合わせをして、もし王がややも嫌な色を面に出したまいなば、この話しは無かりしこととして下さるやと、願い出た所、王も慈悲あるお方、聴させたまうことあり。されば」
馬子は駒の方に向き直る。
「ことがことだけに、人払いの上で見えるに、誰か立ち会いをせねばならぬ。それを汝に頼みたしと思う」
駒は、馬子の意図を測りかねた。そんな用事なら、もっと体面良く使者を務められる人が、大臣の手には少なくない。しかもそれだけなら、こんな所で内密に話すまでもないことだ。きっとこの件には何か裏の使命があるのに違いないと、駒は答えずじっと次の句を待つ。
「これを取らす」
と馬子は、懐から一つの紙折りを取り出して、駒に差し出す。駒が手に受け取って、折り目を開いてみれば、月明かりにも鈍く沈んで、身は細くとも手に重る、鋭い鋼の五寸の針が、中に挟まっていた。
「宮人の口から聞くに、このごろ王には時おりにわかに心を乱しめされることありとか。内裏に上らせるゆえ、脇差しも持たせられぬが、万一の時には汝こそ王を止めまいらせよ」
静かな宵闇に、冬の寒風が、びゅっと吹いて、肺を刺した。
「これが汝に言い付ける最後の仕事なるぞ。戒々わが意に違うこと勿。ただに道を往け」
という馬子の言葉で、駒は己の使命を完全に理解した。ついに積年の恩を返す日が来るのだ。
昼でも日当たりの悪い室内には、中旬の月も冷たく顔を隠し、ただ蝋燭の灯し火だけが、四面に迫る壁を照らしている。
小屋の住人は、かつて池辺直氷田と呼ばれた男である。池辺氏は東漢氏の支れなので、姓を重ねて東漢池辺直と称することもあった。
馬子の手先として健脚と辣腕を振るい、荒い仕事を請けていたこの男も、いつか瘡の病に冒されて、熱と痛みにさいなまれる身となった。その時の苦しみといえば、身を焼かれ砕かれるが如く、死をも覚悟したほどであった。幸い命は取られずにすんだものの、肺に障りが残って、主君のために奔走することはできぬ体となってしまった。
馬子は、病み上がりの氷田に扶持を与えて養い、屋敷の片隅に小屋を作って住まわせた。それから今に至る三年ほどは、氷田にとっては辛い暮らしであった。待遇が不満なのではない。主人から頂く恩ばかりが増えて、恩に報いるのに十分な働きができないのだ。時には舶来する文献の整理を任されることもあるが、そんなでは満足するに遠く遠く及ばない。
借りた恩を負ったままの魂は、死んでも神の里に帰ることができず、黄泉の岩根に塞がれた、暗い土の中の牢獄に囚われると、世々伝えて故老は謂う。そういう話しは誰もが幼い頃に聞かされている。
――恩に酬いぬ腐れ奴。
という誰かの陰口が耳に入ると、それが自分に向けられたのでなかったとしても、胸の底に重いものが沈殿するのを感じる。病でなくても死にそうな気分になる。
そういう時には、懐に手を入れて、一つの手拭いを取り出す。素い布地に、黒々と墨を走らせて、摩訶般若波羅蜜多心経を書き写してある。
(観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五薀皆空、度一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子……)
教理の奥深い所は解らない。それでも念経すると、心が鎮まった。
死ねば、恩は返せない。生きるほどに債務は貯まるが、最期にはきっと命を捨てて報いる機会が得られよう。そうでなければならない!
氷田は、主君の恩を決して忘れていないという証に、馬子にかけて、こうま、即ち、
「駒」
と名を改めた。東漢直駒、というのが今の名のりになっている。
さて泊瀬部王の第五年冬十月中旬、肥えた月が高く照らす空の下に、駒は暗い小屋からそっと外へ出た。人目に立たず、夜陰の中を、どこそこへ来いとは、むかし病気をする前に、裏の仕事の指図をしに、馬子が駒に命じた言葉でもあった。
(それを今宵は、何の話しにか、おれを呼び出されるや)
駒は、広い庭を徐かに歩いて、あの池へ向かう。中の嶋へは、浮き橋が渡してある。馬子は、嶋に植わった松の樹のもとで待っているという。
駒より一足先に、馬子は浮き橋を踏む。板を縄で繋いで浮けただけのものだから、歩けば揺れて波がさざめく。馬子は考えを反復させる。
――もし。
それが炊屋姫の本意であるとしても、明確な指示があったわけではない。実行した結果として、状況がまずくなれば、自分が罪を被せられることになろう。だが、そうしなかったとしても、生きる道は無い。するからこそ、あの大いなる姪の腹心でいられるのだ。
物事には、押しとどめられない勢いというものがある。今その力が、馬子の背を押している。かつて馬子自身がしたことも、この勢いを作る流れの一部となっているのだ。
駒は、馬子よりも身軽に、すっと浮き橋を渡ってきた。
「寄れ、これへ」
再三促されて、駒は馬子の膝に触れるほどの所に近づいた。馬子は駒の顔や息をする具合を窺う。体の調子は悪くなさそうだ。平生の容子からしても、急に走ったりしなければまず障りはないのだろう。
「さては、娘のことなるが」
と馬子は切り出す。馬子の末の女、河上娘というのは、駒も同じく瘡の病に冒された者として、噂を聞けば同情を寄せている。ただ普段は母方の家で養生しているというので、姿を見ることはほとんど無い。馬子は月を見上げて話す。
「わが王よりの重ねての命せにて、とうとう縁談つかまつることとなりけるが、わしも人の親。輿入れをする前に、一たび顔合わせをして、もし王がややも嫌な色を面に出したまいなば、この話しは無かりしこととして下さるやと、願い出た所、王も慈悲あるお方、聴させたまうことあり。されば」
馬子は駒の方に向き直る。
「ことがことだけに、人払いの上で見えるに、誰か立ち会いをせねばならぬ。それを汝に頼みたしと思う」
駒は、馬子の意図を測りかねた。そんな用事なら、もっと体面良く使者を務められる人が、大臣の手には少なくない。しかもそれだけなら、こんな所で内密に話すまでもないことだ。きっとこの件には何か裏の使命があるのに違いないと、駒は答えずじっと次の句を待つ。
「これを取らす」
と馬子は、懐から一つの紙折りを取り出して、駒に差し出す。駒が手に受け取って、折り目を開いてみれば、月明かりにも鈍く沈んで、身は細くとも手に重る、鋭い鋼の五寸の針が、中に挟まっていた。
「宮人の口から聞くに、このごろ王には時おりにわかに心を乱しめされることありとか。内裏に上らせるゆえ、脇差しも持たせられぬが、万一の時には汝こそ王を止めまいらせよ」
静かな宵闇に、冬の寒風が、びゅっと吹いて、肺を刺した。
「これが汝に言い付ける最後の仕事なるぞ。戒々わが意に違うこと勿。ただに道を往け」
という馬子の言葉で、駒は己の使命を完全に理解した。ついに積年の恩を返す日が来るのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜
のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、
偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。
水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは――
古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。
村を立て直し、仲間と絆を築きながら、
やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。
辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、
静かに進む策略と復讐の物語。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる