文字の大きさ
大
中
小
14 / 41
華夏の巻
夕照の銅駝街
壇上の乾杯の後は、太極殿の庭に集った全員に酒食が振る舞われて饗宴となり、倭人の為の朝会は了りとなった。
景初三年は二回目の十二月を経て、乃く年が明け、正始元年正月を迎える。新帝が即位して最初の正月だけあって、各州の刺史や諸郡の太守らも、使者を立てずに自ら上洛して来る者が多い。皇帝に新春の慶びを申し上げるという建前だが、その実はこれから誰の機嫌を伺えば間違いが無いかを探る為である。帯方太守の劉夏も、遠い路をわざわざ急いで、年末に洛陽の帯方郡邸に入った。劉夏が帯方郡に赴任した時は、張政たちは遼東で司馬子上の指示を待っていた。だから互いに帯方郡に務めを得ながら、この京師で初めて会う事になったわけであった。
正月朝見の儀式には、西からは亀茲・于闐・康居・烏孫・疏勒・月氏・鄯善・車師、北からは烏丸・鮮卑・匈奴、東からは夫余・高句麗・沃沮・挹婁・濊、その他の使節が来朝した。難斗米と都市牛利も倭人の代表としてここに出席した。各々特色の有る異俗の衣裳が、中国の礼服に連なり、式典は天下にまたと無い殷わしさとなった。しかし張政と梯儁には、この宴席は案外特別な感じがしなかった。実質的な目的は一ヶ月前に果たしてしまっていたし、宴会は正直な所もう食傷気味でもあった。東西の人が雑わる風景も市場で見慣れている。ただ皇帝直属の工房で作られる食器が美しいのが市中と違う位であった。
正月三ヶ日が過ぎると、張政たちは帰り支度を始めなければならない。外夷の入貢に当たって、滞在や旅行の費用は全て天子の名に於いて支出される。用が済んだら早く帰れ、と直ちに言われるわけでもないが、無駄に長居はしない方が憶えがめでたいに違いない。出発は十六日と決まった。それまでに故郷の人へ礼品を買ったり、世話になった人に挨拶廻りもする。
洛陽に滞在している間、張政は何度か司馬仲達の招きを受けた。招きの旨は、仲達の正室が張氏であり、この張夫人との同姓の縁によるというのであった。張姓というのは別に珍しくもないが、こういう場合には十分な理由になるし、敢えてこれを断らないのは礼儀というより習俗であった。その席はいつも宴会ではなく、平生の食事や茶の時間であった。特別の席を設けないという事は、寧ろ格別の厚意を意味した。こういう席では仲達は政治向きの話しは一切せず、ただ好々爺然として張政に接した。張政は出発の前日の午後、仲達を訪ねて別れの挨拶をした。
それから張政は梯儁とおちあって、宮城の南を歩いた。そこは洛陽一の大通りで、銅駝街と呼ばれている。その名の由来は、ここに一対の駱駝の銅像が置かれている事による。張政は胡人が連れた駱駝という動物も洛陽に来て始めて実際に睹た。顔は羊、体は馬に似て、背には瘤が有る。その銅像がここに在る。それは漢の王宮が長安に在った時に造られた物だと聞いた。その銅駝に子どもたちが組み付いたり、登ったりして遊んでいる。今の皇帝と同じ位と見える児もいる。
「さあさ、もう日が暮れてしまう。暗くなる前にお帰り」
一人の老夫が声をかけると、子どもたちは家へと駆け出す。自分たちももう還るのだと張政は思いながら、名残り惜しみにこの老人と話しがしてみたくなった。白髭を垂らした老夫は、雑巾を銅駝の首に当てて、子どもたちが汚した跡を拭いている。銅駝の頭は人の背より高い。銅駝の後には銅・龍・亀といった像が列べられている。
「老爺々は、この銅駝の掃除係なんですか」
老夫は、やあ何処の人かな、と声を返す。
「なに掃除係なんてものはありゃしない。ただこうしたいからしているのじゃ」
為什麼? と訊く張政と梯儁に、老夫は語る。自分はかつて洛陽の子であったが、董卓がこの京師に火をかけて長安へ遷都を強行した際、連れて行かれた大勢の市民の一人であった。そしてそのまま長安に住んでいた。そこで四十有余年を過ごして、景初元年になった。明帝は長安に在った諸々の銅鐘や銅人、銅駝などを洛陽に移そうとした。その運搬の為に人夫を徴発した。
「それで洛陽に帰ってみたくなって、炊事番に応募してな」
役目を済ませてから、洛陽が本貫である事を以って、朝廷より市中に住宅を給わった。
「それじゃ洛陽には懐かしいものが多いのでしょう」
と張政が問うと、老夫は虚に目を流して言う。
「いやはや……洛陽はすっかり変わってしまったよ」
でも、と梯儁が重ねて問う。
「洛陽は大魏の力で昔のままに再建されたと、みんな言ってるじゃないですか」
「なに、人も街も変わってしまった。天さえも変わってしまった」
梯儁はまた畳ねて問う。
「でも、何かあるでしょう」
老夫は銅駝の首を撫でる。
「いや、ないな。漢の昔を偲ぶよすがは……」
夕陽は低く光を射す。古びた銅駝は、ただ鈍く照り返してその影を濃くする。新しい洛陽の街並みは、赤々と染まって、董卓の災いを想わせた。
景初三年は二回目の十二月を経て、乃く年が明け、正始元年正月を迎える。新帝が即位して最初の正月だけあって、各州の刺史や諸郡の太守らも、使者を立てずに自ら上洛して来る者が多い。皇帝に新春の慶びを申し上げるという建前だが、その実はこれから誰の機嫌を伺えば間違いが無いかを探る為である。帯方太守の劉夏も、遠い路をわざわざ急いで、年末に洛陽の帯方郡邸に入った。劉夏が帯方郡に赴任した時は、張政たちは遼東で司馬子上の指示を待っていた。だから互いに帯方郡に務めを得ながら、この京師で初めて会う事になったわけであった。
正月朝見の儀式には、西からは亀茲・于闐・康居・烏孫・疏勒・月氏・鄯善・車師、北からは烏丸・鮮卑・匈奴、東からは夫余・高句麗・沃沮・挹婁・濊、その他の使節が来朝した。難斗米と都市牛利も倭人の代表としてここに出席した。各々特色の有る異俗の衣裳が、中国の礼服に連なり、式典は天下にまたと無い殷わしさとなった。しかし張政と梯儁には、この宴席は案外特別な感じがしなかった。実質的な目的は一ヶ月前に果たしてしまっていたし、宴会は正直な所もう食傷気味でもあった。東西の人が雑わる風景も市場で見慣れている。ただ皇帝直属の工房で作られる食器が美しいのが市中と違う位であった。
正月三ヶ日が過ぎると、張政たちは帰り支度を始めなければならない。外夷の入貢に当たって、滞在や旅行の費用は全て天子の名に於いて支出される。用が済んだら早く帰れ、と直ちに言われるわけでもないが、無駄に長居はしない方が憶えがめでたいに違いない。出発は十六日と決まった。それまでに故郷の人へ礼品を買ったり、世話になった人に挨拶廻りもする。
洛陽に滞在している間、張政は何度か司馬仲達の招きを受けた。招きの旨は、仲達の正室が張氏であり、この張夫人との同姓の縁によるというのであった。張姓というのは別に珍しくもないが、こういう場合には十分な理由になるし、敢えてこれを断らないのは礼儀というより習俗であった。その席はいつも宴会ではなく、平生の食事や茶の時間であった。特別の席を設けないという事は、寧ろ格別の厚意を意味した。こういう席では仲達は政治向きの話しは一切せず、ただ好々爺然として張政に接した。張政は出発の前日の午後、仲達を訪ねて別れの挨拶をした。
それから張政は梯儁とおちあって、宮城の南を歩いた。そこは洛陽一の大通りで、銅駝街と呼ばれている。その名の由来は、ここに一対の駱駝の銅像が置かれている事による。張政は胡人が連れた駱駝という動物も洛陽に来て始めて実際に睹た。顔は羊、体は馬に似て、背には瘤が有る。その銅像がここに在る。それは漢の王宮が長安に在った時に造られた物だと聞いた。その銅駝に子どもたちが組み付いたり、登ったりして遊んでいる。今の皇帝と同じ位と見える児もいる。
「さあさ、もう日が暮れてしまう。暗くなる前にお帰り」
一人の老夫が声をかけると、子どもたちは家へと駆け出す。自分たちももう還るのだと張政は思いながら、名残り惜しみにこの老人と話しがしてみたくなった。白髭を垂らした老夫は、雑巾を銅駝の首に当てて、子どもたちが汚した跡を拭いている。銅駝の頭は人の背より高い。銅駝の後には銅・龍・亀といった像が列べられている。
「老爺々は、この銅駝の掃除係なんですか」
老夫は、やあ何処の人かな、と声を返す。
「なに掃除係なんてものはありゃしない。ただこうしたいからしているのじゃ」
為什麼? と訊く張政と梯儁に、老夫は語る。自分はかつて洛陽の子であったが、董卓がこの京師に火をかけて長安へ遷都を強行した際、連れて行かれた大勢の市民の一人であった。そしてそのまま長安に住んでいた。そこで四十有余年を過ごして、景初元年になった。明帝は長安に在った諸々の銅鐘や銅人、銅駝などを洛陽に移そうとした。その運搬の為に人夫を徴発した。
「それで洛陽に帰ってみたくなって、炊事番に応募してな」
役目を済ませてから、洛陽が本貫である事を以って、朝廷より市中に住宅を給わった。
「それじゃ洛陽には懐かしいものが多いのでしょう」
と張政が問うと、老夫は虚に目を流して言う。
「いやはや……洛陽はすっかり変わってしまったよ」
でも、と梯儁が重ねて問う。
「洛陽は大魏の力で昔のままに再建されたと、みんな言ってるじゃないですか」
「なに、人も街も変わってしまった。天さえも変わってしまった」
梯儁はまた畳ねて問う。
「でも、何かあるでしょう」
老夫は銅駝の首を撫でる。
「いや、ないな。漢の昔を偲ぶよすがは……」
夕陽は低く光を射す。古びた銅駝は、ただ鈍く照り返してその影を濃くする。新しい洛陽の街並みは、赤々と染まって、董卓の災いを想わせた。
感想 0
あなたにおすすめの小説
【完結】上海新選組 原田左之助 山崎烝 明治冒険譚 ──Shanghai samurai dad&son──
小海倫明治。死んだはずの新選組十番隊長・原田左之助は、大陸の租界・上海にいた。
その傍らには、京都新選組時代の諜報に利用し、奇怪な家伝の秘薬の副作用で幼い子供の姿となってしまった元新選組監察・山崎烝。
二人は偽りの「実業家 松山誠親子」として暮らしながら、大陸の租界を彷徨い、謎を追う──
洋装で槍を振るいつつ【坂本龍馬殺害】の濡れ衣に追われる原田。
大人の意識を保ち、手には武器の毒針、推理に鋭い頭脳を働かながら、肉体が少しずつ幼くなっていく恐怖に怯える山崎。
租界都市・上海からサイゴン、漢口。
そして天津での「ラスボス対決」へ。
果たして彼等2人を追うラスボスとはいったい誰なのか?
過去の史実エピソードやアクション、ミステリー要素を含めた新選組の生き残りたちが辿る、歴史伝奇冒険譚!
永倉新八、土方歳三も登場。
完結済。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
黄金の艦隊 マネー・パワーで歴史を変える男
俊也「平和を金で買えるなら、それに越したことはない。
戦争が避けられないなら、せめて日本が負けない力を金で買おう」
1930年代より世界経済の混乱に乗じて自らの海運会社を急成長、新興財閥を立ち上げた男の、重課金架空戦記!??
姉妹作
「零戦戦記」
「総統戦記」
も、よろしくお願いします。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転
小林一咲不倫妻に捨てられ、会社もクビ。
人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。
防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。
どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。