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東夷の巻
梯儁の春の夢
張政たちは、帯方郡に還って来た。復りの路は、往きの様にのんびりとした旅ではなかった。洛陽を出てずっと東へ進み、東萊から海を渡って楽浪地方に入った。司馬子上は河内郡まで送ってくれたが、来る時には温雅と思えたこの土地の人々は、既に中国の事情を睹た目には無気力と写った。それからの旅程では、道すがら、野曝しに棄てられている人骨、草が茫々として荒れた耕地、人が減って廃れた城市、ぞろぞろとどこかへ向かう貧民の群れ……といった光景を見た。それらは来る途でも目にしたはずではあったが、つい気に留めずに過ごしていたのである。張政たちは二月中に帯方郡に戻った。天子から姫氏王へ賜与される品々は、後から運ばれて来る事になっている。
この際に帯方太守はまた交替して、今度は弓遵という人物が、張政たちの帰還に同道して赴任した。前任の劉夏は、倭人の朝貢を誘致するという功績だけはうまうまと手にして、勅使として返報の詔書や賜物を届けるという面倒な仕事は免れたわけである。当然、弓遵を首として、中国出身の高官たちは、大海の中に在る倭人の国へ行く事を避けたがった。こうした人たちにとっては、大海に出るというより、沙漠へ向かうという方がまだ想像のしやすい事であった。遠慮なしに言えば彼らは海という物を恐がっている。
張政としても、海慣れしない御偉方を担いでその命令を仰ぐという形になるよりは、自分たちだけで行った方が安全だと考えて、その旨を具申した。弓遵にとっては実地を知る者からのこうした助言は有り難かった。それは太守が自ら行かないという十分な理由になった。結局の所、張政ではまだ若過ぎるというわけで、梯儁が正使に選ばれた。張政はその補佐役になった。
東南の大海に出て姫氏王の国に至るには、身一つでならどうしても渡ろうと思えば何時でも行けない事は無いが、万全を期するには季節を択ぶ。今度の渡航は荷物も多いし、勅使として冊命を伝える失敗の出来ない任務になる。安全の為には夏を待たなければならない。張政はその間に、必要な人員の手配をしたり、賜物を載せた船が適切な時期に沖回り航路で青州から韓の狗邪国へ回航される様に連絡をしたりと、暇ではない。梯儁の方は、勅使としては身分が低過ぎるというので、建中校尉という官爵をもらって、形だけ急に出世をした。
名目の上とはいえ、こう小偉くなってみると、それなりに交際という事をしなければならなくなる。給料が増えはしたが、交際費に出て行くので、懐にそう貯まりはしないのだと梯儁は知った。ただ借金だけがしやすくなった。それからその位の交際の場に出てみると、いい歳をして独身では格好が悪くなった。しかしそう急に嫁の来手が有りもすまいと思っていた所が、いい肩書さえ有るなら結婚の世話をしてやろうという人が世の中には少なくないという事も、梯儁は知った。張政から見ると、街頭で梯儁に会ってもそう気軽に「やあ哥々」とも声を掛けられず、それなりに礼を以て接しなければならなくなったが、それが可笑しく思えた。
表ではともかく、家に上がり込んでしまえば兄弟同然のつきあいは変わらない。梯儁はよく酒瓶を提げて張政の家に遊びに来る。
「今朝も洛陽の夢を見た。それも今の洛陽じゃないんだ。光武中興の成った頃の雒陽だよ」
安い酒をすすりながら梯儁はそんな事を話す。
「雒陽でおれは淑女と出会う。大きな宮殿の庭。太陽が耀くと、光が満ちて、美しい姿をかき消す……」
歌になりそうな調子で語りながら、梯儁は結婚という事について何か悩んでいるらしい。張政には張政で悩ましい事が有る。張政は司馬子上から直々に二つの内命を受けていた。その一つは、倭地の地理や風俗などについてなるだけ詳しく調査し報告する事。これは手間がかかるだけで難しくはない。もう一つは、かつて漢王朝が倭の奴国の王に授けた〔漢倭奴国王〕の金印が現存していれば、今度の〔親魏倭王〕の金印と引き換えに、これを回収せよ、というのであった。それは確かに現存しているのを張政は知っていた。しかしこの倭人の旧盟主の名誉である金印を要求して、受け容れられるのかどうかは全く分からない。慎重に探りを入れてみなければならない……。
「今度の旅は、荷の重い旅になるなあ」
梯儁は急に真面目な顔をして言う。
「もし海で嵐に遭って詔書や印綬を沈めることにでもなったら、勅使としておめおめと生きては帰れまい。その時はおれも海に身を投げずばなるまいて」
酒瓶は空になっている。梯儁が饒舌になると、張政は話しが尽きるまで聞いてやる。
「おれの嫁はろくに夫婦暮らしもせず、若い身そらで未亡人と呼ばれるだろう。それは可哀想だ。おれは何としても万里の波濤を越えなけりゃならねえ」
梯儁は杯に残った滴をちろりと舐めて、遠い目をする。
「ああ結婚をすると、雒陽の夢も見なくなるだろうな……」
張政は、梯儁の結婚の件がどのくらい進んでいるのかとか、いつ式を挙げるつもりなのかなどは訊かなかった。じきに蕗の薹が背を伸ばせば、張政たちは東南の大海へ向けて船を出さなくてはならない。
この際に帯方太守はまた交替して、今度は弓遵という人物が、張政たちの帰還に同道して赴任した。前任の劉夏は、倭人の朝貢を誘致するという功績だけはうまうまと手にして、勅使として返報の詔書や賜物を届けるという面倒な仕事は免れたわけである。当然、弓遵を首として、中国出身の高官たちは、大海の中に在る倭人の国へ行く事を避けたがった。こうした人たちにとっては、大海に出るというより、沙漠へ向かうという方がまだ想像のしやすい事であった。遠慮なしに言えば彼らは海という物を恐がっている。
張政としても、海慣れしない御偉方を担いでその命令を仰ぐという形になるよりは、自分たちだけで行った方が安全だと考えて、その旨を具申した。弓遵にとっては実地を知る者からのこうした助言は有り難かった。それは太守が自ら行かないという十分な理由になった。結局の所、張政ではまだ若過ぎるというわけで、梯儁が正使に選ばれた。張政はその補佐役になった。
東南の大海に出て姫氏王の国に至るには、身一つでならどうしても渡ろうと思えば何時でも行けない事は無いが、万全を期するには季節を択ぶ。今度の渡航は荷物も多いし、勅使として冊命を伝える失敗の出来ない任務になる。安全の為には夏を待たなければならない。張政はその間に、必要な人員の手配をしたり、賜物を載せた船が適切な時期に沖回り航路で青州から韓の狗邪国へ回航される様に連絡をしたりと、暇ではない。梯儁の方は、勅使としては身分が低過ぎるというので、建中校尉という官爵をもらって、形だけ急に出世をした。
名目の上とはいえ、こう小偉くなってみると、それなりに交際という事をしなければならなくなる。給料が増えはしたが、交際費に出て行くので、懐にそう貯まりはしないのだと梯儁は知った。ただ借金だけがしやすくなった。それからその位の交際の場に出てみると、いい歳をして独身では格好が悪くなった。しかしそう急に嫁の来手が有りもすまいと思っていた所が、いい肩書さえ有るなら結婚の世話をしてやろうという人が世の中には少なくないという事も、梯儁は知った。張政から見ると、街頭で梯儁に会ってもそう気軽に「やあ哥々」とも声を掛けられず、それなりに礼を以て接しなければならなくなったが、それが可笑しく思えた。
表ではともかく、家に上がり込んでしまえば兄弟同然のつきあいは変わらない。梯儁はよく酒瓶を提げて張政の家に遊びに来る。
「今朝も洛陽の夢を見た。それも今の洛陽じゃないんだ。光武中興の成った頃の雒陽だよ」
安い酒をすすりながら梯儁はそんな事を話す。
「雒陽でおれは淑女と出会う。大きな宮殿の庭。太陽が耀くと、光が満ちて、美しい姿をかき消す……」
歌になりそうな調子で語りながら、梯儁は結婚という事について何か悩んでいるらしい。張政には張政で悩ましい事が有る。張政は司馬子上から直々に二つの内命を受けていた。その一つは、倭地の地理や風俗などについてなるだけ詳しく調査し報告する事。これは手間がかかるだけで難しくはない。もう一つは、かつて漢王朝が倭の奴国の王に授けた〔漢倭奴国王〕の金印が現存していれば、今度の〔親魏倭王〕の金印と引き換えに、これを回収せよ、というのであった。それは確かに現存しているのを張政は知っていた。しかしこの倭人の旧盟主の名誉である金印を要求して、受け容れられるのかどうかは全く分からない。慎重に探りを入れてみなければならない……。
「今度の旅は、荷の重い旅になるなあ」
梯儁は急に真面目な顔をして言う。
「もし海で嵐に遭って詔書や印綬を沈めることにでもなったら、勅使としておめおめと生きては帰れまい。その時はおれも海に身を投げずばなるまいて」
酒瓶は空になっている。梯儁が饒舌になると、張政は話しが尽きるまで聞いてやる。
「おれの嫁はろくに夫婦暮らしもせず、若い身そらで未亡人と呼ばれるだろう。それは可哀想だ。おれは何としても万里の波濤を越えなけりゃならねえ」
梯儁は杯に残った滴をちろりと舐めて、遠い目をする。
「ああ結婚をすると、雒陽の夢も見なくなるだろうな……」
張政は、梯儁の結婚の件がどのくらい進んでいるのかとか、いつ式を挙げるつもりなのかなどは訊かなかった。じきに蕗の薹が背を伸ばせば、張政たちは東南の大海へ向けて船を出さなくてはならない。
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