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氷の王女の誕生
目覚めの違和
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朝靄がうっすらと庭を覆い、ローエン公爵邸はまだ静かな眠りの余韻に包まれていた。
けれど、目覚めたアイリスの胸の奥には昨日までとは違う冷たいものがしんしんと積もりはじめていた。
枕元に並べた人形たちをひとつずつ抱きしめてみてもその違和感は消えない。
朝の陽射しが障子越しに差し込み、侍女たちがそっと部屋に入ってきて、身支度を手伝ってくれる。
けれど、小さな心臓はずっとざわざわと落ち着かず体の芯が薄く震えている。
「……この前より魔力が揺らいでる気がする」
ひとりごとがふいに漏れる。
今日は朝から空気が重く息を吸い込むたびに、冷たい霧が体の奥にまで染み込んでくるようだった。
侍女の優しい声も柔らかい毛布の温もりも、まるで薄いガラス越しの出来事のように遠く感じる。
朝食の席に着くとローエン公爵――父が、微笑みながらアイリスの皿にパンを分けてくれる。
「ゆっくり食べなさい、アイリス」と声をかけてくれるのに、どうしてもその笑顔にすがりつくことができなかった。
バターの香りも、湯気の立つスープも今日はどこか色褪せていた。
スプーンを口に運ぶたび、心の奥で“何か”がきしむ。
それは、不安とも恐怖とも違う言葉にできない冷たい波だった。
――なぜ今日はこんなにも、すべてが違って見えるのだろう。
庭のバラは昨日よりも色濃く咲いているのに花びらの一枚一枚がピンと張りつめている。
噴水の水音も、鳥たちの囀りも、耳に入ってはすぐに消えていく。
アイリスは食卓の端でそっと父の袖を引いた。
「お父様……今日、なんだか変なの。魔力が、今までで一番胸のなかでぐらぐらしてるの。」
ローエン公爵は少しだけ驚いたようにアイリスを見つめ、それから小さくうなずいた。
「……そうか。おまえがそう感じるなら、きっと何かあるのだろう」
いつもよりも優しい声だったけれど、それは同時に大人が本当の不安を隠すときの声にも似ていた。
侍女たちの間にも見えない緊張が走る。
廊下の向こうから、家令が静かに耳打ちしていく。
「今朝方から、犬が落ち着かずに吠え続けております」「森の方角で見知らぬ影が……」
アイリスはうつむき、掌をそっと胸に当てた。
いつもなら温かく満ちているはずの“光”が今日はまるで濁った水のように揺らめき、何か冷たいものがその下を通っているような気がする。
ごく普通の朝なのにすべてがほんの少しずつずれている。
戸口のきしむ音も廊下を行き交う足音も、いつもの公爵邸とは違う響きに感じられる。
部屋に戻り日課の勉強を始めても、文字が目に入ってこない。
机の上でペンを持つ手がかすかに震える。
「どうしましたか、アイリス様?」
侍女のやさしい声も、どこか遠い。
「……なんでもないの」
そう答えるたび、自分の声が他人のもののように聞こえる。
窓の外にはふだんと変わらぬ庭園が広がっている。
けれど、風に揺れる花々の間に黒い何かが潜んでいるような不気味な気配がどこまでもつきまとった。
父のもとに駆け寄って、もう一度だけ、訴えてみる。
「お父様、本当に胸が苦しいの。魔力が痛い……」
ローエン公爵は今度は黙って、アイリスの肩を抱いた。
「わかった。今日は念のため屋敷の警備を強くしよう。おまえは絶対、ひとりで遠くへ行ってはいけないよ」
小さなうなずき。
そのとき、廊下の向こうからミロがやって来た。
騎士の少年はいつもよりも真剣な顔をして、アイリスに小さな花を手渡す。
「これ、庭で見つけました。……なんだか、変な感じです」
ミロの言葉にも、不安がにじんでいた。
朝の陽射しは高くなり、時刻は昼へと向かっていく。
けれど、アイリスの不安は消えるどころか、ますます濃くなっていくばかりだった。
やがて屋敷全体が、微かな振動に包まれ始める。
何かが、外の世界からこちらへ近づいてくる。
鼓動はどんどん速くなり胸の奥の魔力もざわつきを強めていった。
侍女たちの囁き声が、あちこちで聞こえてくる。
「……森の方、また犬が……」「家畜が消えているらしいのです」
アイリスは手を胸に当てて目を閉じる。
父の言葉を思い出そうとする。「絶対に、私のそばを離れるな」
それでも、不安の波は止まってくれなかった。
目を開けて天井を見上げると、日差しの輪がほんの少し、ぐらついているような気がした。
昼近くになると屋敷の空気はさらに張りつめていく。
控えの間の窓から、庭をぼんやりと眺めていると、ふいに犬たちが一斉に遠吠えを始めた。
続いて低く重い音が地の底から響いてきた。
――来る。
言葉にならない感覚。だけど、はっきりと分かった。
アイリスは恐怖に体を固くし、父と侍女たちが駆けつけるのをじっと待った。
だが、その瞬間門が打ち砕かれる音が響いた。
叫び声、走る足音、そして――あの不吉な咆哮。
「アイリス様、こちらへ!」
「お父様!」
人々が慌ててアイリスを囲む。
だが混乱の中、誰かの肩が押し当たりアイリスの小さな手が父の手から滑り落ちてしまった。
「――やだ、いや!」
次の瞬間アイリスはひとり、広い廊下に取り残されていた。
冷たい空気見知らぬ静寂。
涙が溢れそうになるが、はすくんで動かない。
……どうして、こんなに苦しいの?
その答えを知る間もなく、廊下の奥からじわじわと黒い影がにじんできた。
魔獣――赤い双眸がアイリスを射抜く。
体がすくみ、喉から声が出ない。
助けを呼ぼうとしても、言葉は涙に溺れて消えていく。
魔獣は一歩、また一歩とアイリスに迫る。
そのとき。
「アイリス様!」
カイルの声が響いた。
駆け寄る少年の姿、剣を抜く幼い手――
それはまるで、凍てつく空気を一気に切り裂く春風のようだった。
このあとの運命がまだ誰にも分からないまま。
幼い姫は、朝から感じ続けていた“違和感”が本当の危機の前触れだったのだとようやく理解しはじめていた。
けれど、目覚めたアイリスの胸の奥には昨日までとは違う冷たいものがしんしんと積もりはじめていた。
枕元に並べた人形たちをひとつずつ抱きしめてみてもその違和感は消えない。
朝の陽射しが障子越しに差し込み、侍女たちがそっと部屋に入ってきて、身支度を手伝ってくれる。
けれど、小さな心臓はずっとざわざわと落ち着かず体の芯が薄く震えている。
「……この前より魔力が揺らいでる気がする」
ひとりごとがふいに漏れる。
今日は朝から空気が重く息を吸い込むたびに、冷たい霧が体の奥にまで染み込んでくるようだった。
侍女の優しい声も柔らかい毛布の温もりも、まるで薄いガラス越しの出来事のように遠く感じる。
朝食の席に着くとローエン公爵――父が、微笑みながらアイリスの皿にパンを分けてくれる。
「ゆっくり食べなさい、アイリス」と声をかけてくれるのに、どうしてもその笑顔にすがりつくことができなかった。
バターの香りも、湯気の立つスープも今日はどこか色褪せていた。
スプーンを口に運ぶたび、心の奥で“何か”がきしむ。
それは、不安とも恐怖とも違う言葉にできない冷たい波だった。
――なぜ今日はこんなにも、すべてが違って見えるのだろう。
庭のバラは昨日よりも色濃く咲いているのに花びらの一枚一枚がピンと張りつめている。
噴水の水音も、鳥たちの囀りも、耳に入ってはすぐに消えていく。
アイリスは食卓の端でそっと父の袖を引いた。
「お父様……今日、なんだか変なの。魔力が、今までで一番胸のなかでぐらぐらしてるの。」
ローエン公爵は少しだけ驚いたようにアイリスを見つめ、それから小さくうなずいた。
「……そうか。おまえがそう感じるなら、きっと何かあるのだろう」
いつもよりも優しい声だったけれど、それは同時に大人が本当の不安を隠すときの声にも似ていた。
侍女たちの間にも見えない緊張が走る。
廊下の向こうから、家令が静かに耳打ちしていく。
「今朝方から、犬が落ち着かずに吠え続けております」「森の方角で見知らぬ影が……」
アイリスはうつむき、掌をそっと胸に当てた。
いつもなら温かく満ちているはずの“光”が今日はまるで濁った水のように揺らめき、何か冷たいものがその下を通っているような気がする。
ごく普通の朝なのにすべてがほんの少しずつずれている。
戸口のきしむ音も廊下を行き交う足音も、いつもの公爵邸とは違う響きに感じられる。
部屋に戻り日課の勉強を始めても、文字が目に入ってこない。
机の上でペンを持つ手がかすかに震える。
「どうしましたか、アイリス様?」
侍女のやさしい声も、どこか遠い。
「……なんでもないの」
そう答えるたび、自分の声が他人のもののように聞こえる。
窓の外にはふだんと変わらぬ庭園が広がっている。
けれど、風に揺れる花々の間に黒い何かが潜んでいるような不気味な気配がどこまでもつきまとった。
父のもとに駆け寄って、もう一度だけ、訴えてみる。
「お父様、本当に胸が苦しいの。魔力が痛い……」
ローエン公爵は今度は黙って、アイリスの肩を抱いた。
「わかった。今日は念のため屋敷の警備を強くしよう。おまえは絶対、ひとりで遠くへ行ってはいけないよ」
小さなうなずき。
そのとき、廊下の向こうからミロがやって来た。
騎士の少年はいつもよりも真剣な顔をして、アイリスに小さな花を手渡す。
「これ、庭で見つけました。……なんだか、変な感じです」
ミロの言葉にも、不安がにじんでいた。
朝の陽射しは高くなり、時刻は昼へと向かっていく。
けれど、アイリスの不安は消えるどころか、ますます濃くなっていくばかりだった。
やがて屋敷全体が、微かな振動に包まれ始める。
何かが、外の世界からこちらへ近づいてくる。
鼓動はどんどん速くなり胸の奥の魔力もざわつきを強めていった。
侍女たちの囁き声が、あちこちで聞こえてくる。
「……森の方、また犬が……」「家畜が消えているらしいのです」
アイリスは手を胸に当てて目を閉じる。
父の言葉を思い出そうとする。「絶対に、私のそばを離れるな」
それでも、不安の波は止まってくれなかった。
目を開けて天井を見上げると、日差しの輪がほんの少し、ぐらついているような気がした。
昼近くになると屋敷の空気はさらに張りつめていく。
控えの間の窓から、庭をぼんやりと眺めていると、ふいに犬たちが一斉に遠吠えを始めた。
続いて低く重い音が地の底から響いてきた。
――来る。
言葉にならない感覚。だけど、はっきりと分かった。
アイリスは恐怖に体を固くし、父と侍女たちが駆けつけるのをじっと待った。
だが、その瞬間門が打ち砕かれる音が響いた。
叫び声、走る足音、そして――あの不吉な咆哮。
「アイリス様、こちらへ!」
「お父様!」
人々が慌ててアイリスを囲む。
だが混乱の中、誰かの肩が押し当たりアイリスの小さな手が父の手から滑り落ちてしまった。
「――やだ、いや!」
次の瞬間アイリスはひとり、広い廊下に取り残されていた。
冷たい空気見知らぬ静寂。
涙が溢れそうになるが、はすくんで動かない。
……どうして、こんなに苦しいの?
その答えを知る間もなく、廊下の奥からじわじわと黒い影がにじんできた。
魔獣――赤い双眸がアイリスを射抜く。
体がすくみ、喉から声が出ない。
助けを呼ぼうとしても、言葉は涙に溺れて消えていく。
魔獣は一歩、また一歩とアイリスに迫る。
そのとき。
「アイリス様!」
カイルの声が響いた。
駆け寄る少年の姿、剣を抜く幼い手――
それはまるで、凍てつく空気を一気に切り裂く春風のようだった。
このあとの運命がまだ誰にも分からないまま。
幼い姫は、朝から感じ続けていた“違和感”が本当の危機の前触れだったのだとようやく理解しはじめていた。
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