女王は後宮にて溺愛される

黒蜜もち

文字の大きさ
31 / 39
氷の王女の誕生

揺らぐ光

しおりを挟む


廊下を満たす空気はすでに朝の澄んだ冷気を失っていた。
壁に掛けられた油絵の色彩は、どこかくすみ差し込む光さえも鉛のように重く見える。
アイリスはその奥から忍び寄る気配を肌の奥で感じ取っていた。



――来る。


低く湿った咆哮が遠くから響く。音はゆっくりと近づき床板がかすかに震える。
鼻腔を刺すのは、鉄錆と獣脂が混ざったような吐き気を誘う匂い。
影が壁に長く伸び、やがて歪みながらも輪郭を帯びた。


魔獣。


全身を覆う灰色の鱗は湿った岩肌のようにざらつき、光を鈍く跳ね返す。
肩は人の腰ほどの高さがあり、前脚は人の腕ほども太い。肉厚の尾が床を打ち、その度に廊下全体に鈍い衝撃が走る。
吐き出す息は濃密な熱を帯び白い靄が牙の間から漏れる。


その赤い双眸はまっすぐに、廊下の突き当たりに立つ小さな王女を射抜いていた。
理由は分からない。ただ、その眼差しには「選別」の意思があった。
魔力の匂いを嗅ぎ取り、たった一人の少女をを狩り取る本能が飢えた炎のように燃えている。

アイリスの足はすくみ声は喉で凍ったまま出ない。
心臓は早鐘を打ち耳鳴りが世界を覆う。


「アイリス様!」


鋭い声と共に、廊下の側面から影が飛び込む。
カイル。まだ十歳の少年だが、迷いは一切ない瞳。
銀色の鎧が一瞬光を反射し炎色の魔法陣が足元に展開する。
剣身を赤い光が舐め廊下の闇が明滅した。


「下がってください!俺が相手をします!」


踏み込みと同時に剣先から紅蓮が奔る。
轟音が廊下を満たし炎の舌が床を這って魔獣の脚を絡め取る。
熱風が壁に掛けられた絵画を揺らし、蝋燭の炎を一瞬で呑み尽くした。


魔獣は咆哮し炎を払おうと身を震わせる。
しかしカイルは怯まず、二撃、三撃と炎刃を打ち込み、鱗の隙間から焦げた肉の匂いが立ち上った。
炎が鱗を割り赤黒い液が飛び散る。

「退け!」

その瞬間、魔獣の前脚が閃いた。
空気を裂く爪が脇腹を抉り骨の芯まで衝撃が突き抜ける。
肺から息が絞り出され、膝が折れそうになる。


「……っぐ!」


背後で震えるアイリスの影が視界に入り、カイルは奥歯を噛み締めて立ち上がる。
再び魔法陣を展開し炎が刃にまとわりつく。焦げた匂いがさらに濃くなった。


魔獣は低く身を沈め、次の瞬間、弾丸のように突進する。
爪が閃きカイルの右顔を斜めに裂いた。

熱い血が一気に噴き出し、視界の半分が赤く染まる。
右目は光を失い、痛みと血の匂いで吐き気が込み上げる。
それでも剣は落とさなかった。

「……まだだ……!」

左目だけで獣の動きを追い、呼吸を乱しながら踏み込む。
炎は弱まり、揺らぎながらも消えまいと刃を焦がす。

その時――背後から突風が廊下を切り裂いた。


「カイル様!大丈夫ですか……!!」


ミロの声。
軽装鎧の肩に風の魔法陣が浮かび、双剣には翠色の光がまとわりつく。
足取りは音もなく、それでいて一瞬で間合いを詰めた。

右の剣が鱗を断ち硬質な破片が飛び散る。
左の剣は獣の後脚の腱を断ち切り、湿った肉裂音と共に動きを鈍らせる。
魔獣が悲鳴を上げ、巨体がわずかによろめく。


「今だ、カイル!」

その声に、カイルは最後の力で炎を噴き上げる。
紅蓮と翠の奔流が交錯し、熱と風が魔獣を押し込む。

だが獣も必死だった。爪を振り上げ、反撃の機を伺う。
ミロは一気に踏み込み、双剣を首筋へ突き立てた。
風魔力が解き放たれ轟く刃風が骨を断ち肉を裂く。
温かい血が飛沫となって二人の頬を濡らした。

魔獣は絶叫し、巨体を大きく震わせた後、床に崩れ落ちる。
衝撃が廊下を震わせ、天井飾りが微かに鳴った。

――沈黙。

カイルは剣を支えに立っていたが呼吸は荒く、足元は揺れる。
右目は閉ざされ、顎先から血が滴る。体からは幾筋もの血が床を染めた。


「……アイリス様……あなたに傷がなくて……よかった……」

かすれた声と同時に、膝から崩れ落ちる。

「カイルお兄様!」


アイリスは泣きそうな声で駆け寄る。返事はない。息は浅い。
胸の奥で何かが裂け、息が詰まる。

ミロが剣を収めて寄るが、その足取りも重い。
魔力切れと傷の痛みで、肩が沈む。


「……魔獣はもういません……でも……少し……疲れました……」


アイリスを安心させるため少し笑うものの、言葉はそこで途切れミロも横へ倒れた。


「ミロ……!」


幼いながらも王女として人を守る責務を知っていた。
また自分が大勢から守られる立場であるということも頭では理解していた。しかし、自分のために身近な人が命を懸けた姿を目の当たりにしたのは初めて。その事実が、熱い涙と共に胸を満たす。


「いや……やだ……二人とも、目を開けて……!」


震える両手で二人の手を握りしめ声を絞り出す。
血の匂いと焦げた空気の中その必死な声だけが澄んで響いていた。


床に崩れた二人の体を、アイリスは両腕いっぱいに抱きしめた。
幼い腕では到底支えきれないのに、それでも必死に寄せて離さなかった。
カイルの鎧からは温かい血が溢れミロの服にも深紅が滲んでいる。
それらがアイリスのドレスに染み込み、薄い生地は瞬く間に赤く染まっていた。

「いや……いや……!」

声は震え、涙が頬を伝い、血と混じって小さな顎を濡らす。
胸に耳を押し当てれば、二人の鼓動は微かで消えてしまいそうなほど弱い。
聞こえなくなってしまうことが恐ろしくて息が詰まりそうになる。

その時、廊下の奥から複数の足音が駆け寄ってきた。

「アイリス様がいない!」
「今の音は……!」


使用人たちと数人の騎士が飛び込んでくる。
そして視界に飛び込んだ光景に、誰もが息を呑んだ。
血に染まったドレスで泣きじゃくる姫、腕の中には動かぬ二人の青年――。


「アイリス様っ!」

女性の使用人が駆け寄り、姫の体を引き離そうとする。
しかし、アイリスは泣きながら首を振った。


「離さない……! いや……!」


両手に力を込める。血のぬめりと鉄の匂いが、指先から離れない。

「アイリス様、お怪我は!? どこを……!」

「私は……! 私は何も……けがしてないの……!」


 肩を揺さぶられ、アイリスは息を荒げた。


 「カイルお兄様と……ミロが……! こんなに……!」

言葉は嗚咽にかき消され、再び二人を抱き寄せる。
使用人たちは顔を見合わせ、すぐに騎士が前に出て指示を飛ばした。


「治療班を呼べ!止血道具を持て、急げ!」
「魔導医師も!一刻を争うぞ!」


別の使用人が姫の体に触れ、必死に落ち着かせようとする。

「姫様、大丈夫です。お二人は必ず助けます。ですから……」

しかしアイリスの瞳は涙で霞み、目の前の二人から離れることができない。
その間にも、担架が運び込まれ騎士たちは二人の体を慎重に持ち上げた。
 

担架に乗せられたカイルとミロが、廊下の奥へと運ばれていく。
その腕から引き離された瞬間、アイリスの胸に鋭い痛みが走った。


「いやっ……!離れたくないの!カイルお兄様!ミロ!」


叫びながら必死に駆け寄ろうとするが、使用人が二人がかりで抱きとめる。
小さな体は力任せに暴れ、腕を振りほどこうとする。
涙で視界が滲み、血の匂いと焦げた空気が肺を焼く。


「姫様、お下がりください!」
「だめ!行くの!一緒に行くの!」


声は掠れ、喉が痛む。
それでも叫ばずにはいられない。
廊下の奥で担架が遠ざかっていくその距離が恐ろしくてたまらない。


――その時。
低く落ち着いた声が、喧騒を切り裂くように響いた。


「……もうよい。私が引き受ける」

ローエン公爵だった。
濃紺の外套を翻し、片手をゆっくりと掲げる。
その指先に、淡い蒼光の魔法陣が静かに広がった。

「おとうさま……! お願い、二人を……!」

アイリスは涙の瞳で訴える。
しかし公爵の表情は悲しみに満ちつつも、決意の色が宿っていた。


「安心しろ。必ず助ける。そのために――今は眠れ」


次の瞬間、蒼光が小さな額を包み優しい温もりが意識をさらっていく。
抗おうと伸ばした手は、もう力を失っていた。
最後に見えたのは、遠ざかる二人の背と父の腕に抱き上げられる自分の小さな手。

廊下の喧騒はゆるやかに遠のき、血の匂いも、焦げた空気も、やがて闇に溶けて消えた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

身代りの花嫁は25歳年上の海軍士官に溺愛される

絵麻
恋愛
 桐島花は父が病没後、継母義妹に虐げられて、使用人同然の生活を送っていた。  父の財産も尽きかけた頃、義妹に縁談が舞い込むが継母は花を嫁がせた。  理由は多額の結納金を手に入れるため。  相手は二十五歳も歳上の、海軍の大佐だという。  放り出すように、嫁がされた花を待っていたものは。  地味で冴えないと卑下された日々、花の真の力が時東邸で活かされる。  

自己肯定感の低い令嬢が策士な騎士の溺愛に絡め取られるまで

嘉月
恋愛
平凡より少し劣る頭の出来と、ぱっとしない容姿。 誰にも望まれず、夜会ではいつも壁の花になる。 でもそんな事、気にしたこともなかった。だって、人と話すのも目立つのも好きではないのだもの。 このまま実家でのんびりと一生を生きていくのだと信じていた。 そんな拗らせ内気令嬢が策士な騎士の罠に掛かるまでの恋物語 執筆済みで完結確約です。

孤児ですが、神獣の声を担当しています~ただし身バレ禁止のため、王子様から逃走中~

鬼ヶ咲あちたん
恋愛
タヌキにそっくりな孤児のマーヤと、お疲れ気味な王子さまとの物語

記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】

かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。 名前も年齢も住んでた町も覚えてません。 ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。 プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。 小説家になろう様にも公開してます。

ご褒美人生~転生した私の溺愛な?日常~

紅子
恋愛
魂の修行を終えた私は、ご褒美に神様から丈夫な身体をもらい最後の転生しました。公爵令嬢に生まれ落ち、素敵な仮婚約者もできました。家族や仮婚約者から溺愛されて、幸せです。ですけど、神様。私、お願いしましたよね?寿命をベッドの上で迎えるような普通の目立たない人生を送りたいと。やりすぎですよ💢神様。 毎週火・金曜日00:00に更新します。→完結済みです。毎日更新に変更します。 R15は、念のため。 自己満足の世界に付き、合わないと感じた方は読むのをお止めください。設定ゆるゆるの思い付き、ご都合主義で書いているため、深い内容ではありません。さらっと読みたい方向けです。矛盾点などあったらごめんなさい(>_<)

下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~

星森
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。 王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。 そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。 これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。 ⚠️本作はAIとの共同製作です。

『身長185cmの私が異世界転移したら、「ちっちゃくて可愛い」って言われました!? 〜女神ルミエール様の気まぐれ〜』

透子(とおるこ)
恋愛
身長185cmの女子大生・三浦ヨウコ。 「ちっちゃくて可愛い女の子に、私もなってみたい……」 そんな密かな願望を抱えながら、今日もバイト帰りにクタクタになっていた――はずが! 突然現れたテンションMAXの女神ルミエールに「今度はこの子に決〜めた☆」と宣言され、理由もなく異世界に強制転移!? 気づけば、森の中で虫に囲まれ、何もわからずパニック状態! けれど、そこは“3メートル超えの巨人たち”が暮らす世界で―― 「なんて可憐な子なんだ……!」 ……え、私が“ちっちゃくて可愛い”枠!? これは、背が高すぎて自信が持てなかった女子大生が、異世界でまさかのモテ無双(?)!? ちょっと変わった視点で描く、逆転系・異世界ラブコメ、ここに開幕☆

【完結】氷の王太子に嫁いだら、毎晩甘やかされすぎて困っています

22時完結
恋愛
王国一の冷血漢と噂される王太子レオナード殿下。 誰に対しても冷たく、感情を見せることがないことから、「氷の王太子」と恐れられている。 そんな彼との政略結婚が決まったのは、公爵家の地味な令嬢リリア。 (殿下は私に興味なんてないはず……) 結婚前はそう思っていたのに―― 「リリア、寒くないか?」 「……え?」 「もっとこっちに寄れ。俺の腕の中なら、温かいだろう?」 冷酷なはずの殿下が、新婚初夜から優しすぎる!? それどころか、毎晩のように甘やかされ、気づけば離してもらえなくなっていた。 「お前の笑顔は俺だけのものだ。他の男に見せるな」 「こんなに可愛いお前を、冷たく扱うわけがないだろう?」 (ちょ、待ってください! 殿下、本当に氷のように冷たい人なんですよね!?) 結婚してみたら、噂とは真逆で、私にだけ甘すぎる旦那様だったようです――!?

処理中です...