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氷の王女の誕生
夜半の灯、青薔薇の印
しおりを挟む扉の前でアイリスは顔を上げた。
「……ひとりでカイルお兄様の傍にいさせて。」
小さな声。けれど、迷いはなかった。
ローエンは静かにうなずき術者と医師に下がるよう目で告げる。
「もし何かあったらすぐに呼びなさい」
短く命じて、扉を閉じた。
部屋はすぐ別の層の静けさになる。
薬草と香のぬるい匂い。薄い炎が、金の芯を小さく舐める。
手前の寝台でカイルが浅く息をし、右の眼帯が湿り包帯の端が汗で暗い。
奥の寝台ではミロが静かに眠っている、呼吸は一定で深い水面のように穏やかだった。
アイリスは椅子を引き寄せた。
指先は少し震える。それでも、布の上から胸のあたりへそっと触れる。
「……カイルお兄様。私を置いていかないで」
声は細い。けれど、途切れない。
「いかないで。」
一滴、涙が落ちて白い布に小さな輪がひろがる。
その瞬間、灯が微かに歪み、部屋の空気がひと息ぶんだけ内へ吸い寄せられた。
レースの裾が内側にふくらみ、床の埃が光粒に変わって舞う。
胸が痛い。怖い。けれど、離れられない。
「いかないで……お願い、いかないで……」
言葉が重なり願いが声より先に溢れ、体の内で何かが弾けた。
その瞬間、体の内側で何かが弾けた。
堰の切れる音が、骨の奥で確かにした。ランプの炎が針のように細り、すぐまた膨らむ。見えない風が床を這い上がり、脚から背へまとわりつく。髪が微かに逆立ち、壁の亀裂が低くきしむ。遠い結界がうなり、冬の匂いが部屋に満ちた。
掌の下で光が生まれる。白が金を呼び、金の縁に青が差す。縁だけが白く凍る、深く澄んだ青。光は布へ、皮膚へ、皮膚の下の鼓動へ沈んでいく。抵抗はない。呼ばれていたみたいに心臓が小さく応えた。
暴れはじめたのはそこからだった。
風が一気に厚みを増し灯の輪が弾ける。香の炎がふっと消え瞬く閃光とともに戻る。床板の継ぎ目から霜の筋が走り、窓の金具が鳴る。アイリスの両膝が勝手に震え胸の奥は焼けるように熱く指先だけが氷のように冷えた。
「いかないで、いかないで……やだ……っ」
涙が途切れず落ち掌の熱はさらに強くなる。熱いのに冷たい。痺れる。痛いほど強い。
――廊下。
「部屋の結界が揺れてる」
「圧が上がってる、扉押すな。このままだと吸われるぞ!」
短い命令と足音が折り重なり、金具が震えた。取っ手が回る。だが扉は内からの白い風に押し返される。
「閣下! 内圧が跳ね上がっています!」
「無理に開けるな、二重結界で受けろ。――崩れる」
ローエンの低い指示が飛ぶ。誰も入れない。中で何かが起きているのは分かるのに踏みこむことができない。
室内では渦が巻き拍をもって荒れた。
掌の周りに見えない流れが集まり、ぶつかり、跳ね、また集まる。
カイルの息はさらに乱れる。ひゅ、と短く吸い間が抜け喉が潰れる。
胸が落ち、戻らず、遅れてまた上がる。
生と死の境の狭い板を、ぎりぎりで踏み外さぬように歩くみたいな呼吸だ。
「――いかないで。ここにいて。わたしの、そばに」
アイリスは顔を上げ、涙に乱れた光の中で、ただ一つの願いだけを言い続けた。
「おにいさま、にげないで……わたし、ここにいるから……痛い?ごめんね……でも、いかないで……」
そのとき、爆ぜた。
音は小さいのに力は強かった。
空気が一度だけ完全に止まり次の瞬間に四方へ押し広がる。
扉の蝶番が外から軋み窓硝子が鈍く鳴り、廊下のランプが一斉に揺れた。
結界が波打ち押し返された警護が壁に手をつく。耳の内側を、雪を擦るような高音が走った。
掌の下の肌がふっと軽くなり鈴のような音が細く鳴る。
アイリスの肩が跳ねても、手は退かない。
青が皮膚の下へ入り、白い霜が中心をとめ、花弁が骨のきわで音もなく重なり、閉じ、そして――咲いた。
青薔薇が、鎖骨の上に現れていた。
渦はほどけ風が止む。霜の筋が消え、香の火が丸さを取り戻す。冷たさが引き、空気が柔らかくなる。
カイルの呼吸がわずかに深くなり、切れていた線が繋がった。
細い板の上から半歩だけこちらへ戻ってきたような息だ。
アイリスは胸の上に掌を置いたまま、肩で呼吸していた。
「……よかった。ここに……いる」
安堵と同時に熱が逆流した。視界の端が白み脚の力が抜ける。
「――っ」
小さな身体が前に傾いた瞬間、椅子の脚が床を鳴らし、薄い額が汗に濡れた。
魔力が燃え尽き、芯だけが高熱を残している。
息は浅く頬は火照り指先は空を掻くように宙を探す。
「アイリス様!」
駆けつけた侍女が支えようとして室内の圧に弾かれ、一歩退いた。
やがて圧が抜けた。
扉が音もなく開く。先に家令ジョゼフ、すぐ背でローエンが入る。
「アイリス様――いったいなにが」
呼びかけは、胸の上の紋で途切れた。
青が灯に合わせてごく微かに呼吸している。
ジョゼフは一歩で息を呑み、記録板の角を指に押し当てて震えを殺す。
「……あれは――青薔薇……?」
目は確かめるように見開かれ、喉仏が上下する。
「年代記の図と一致している……中央の霜、縁の凍り、六弁の比率……建国の女王陛下がただ一度刻まれた印。以後、レディアール王国では誰ひとり継げず、いまは伝説と――」
ローエンは紋に影を落とさぬよう身をかがめ、青の中心の白霜を凝視した。
喉の奥で、言葉にならない息が転がる。
――印、か。
――いや、馬鹿な。年が幼すぎる。
通常は成人である16歳を過ぎたのち、お互いが了承したのちに刻まれる……。誰もいないここで、カイルは眠っているこの部屋で娘は……
それでも、形は――完璧だ。色も、霜も、紛れもない。建国以来、誰も継げなかった“伝説の刻印”がいま目の前で息をしている。
「カイル様の呼吸は安定へ転じています」
医師が寝台の反対側で小声に報せる。
「ですが姫様が――高熱で魔力枯渇の兆候があります。魔力暴走が原因かと」
侍女が濡れ布を取りに走る。アイリスは浅い息のまま、うわごとのように呟いた。
「……いかないで……ここに、いて……」
ローエンは小さな肩を支え、額に手を当てる。熱い。
「寝かせて氷袋を、刺激はするな」短い命が飛ぶ。
ジョゼフが問う。「閣下、どうなさいます」
「今見た者の口を閉じる。記録はしなくてよい」
ローエンは一拍の沈黙ののち、静かに続けた。
「――そして女王セレスタリアに繋げ。私自身が話す。書付ではない、私の言葉で。」
ジョゼフの表情が引き締まる。
「謁見の申請をさせていただきます」
「頼んだ。だが印に関する一切は、私の許可があるまで沈黙。女王陛下へも、私の口で伝える」
「畏まりました」
アイリスの呼吸が少しだけ深くなる。熱は高いが、震えは治まりつつあった。
「……いるよ。ここに、いる」
目を閉じたままの独り言。小さく確かだった。
カイルの胸の上下は先ほどより確かで、ミロの均一な呼吸と歩調を合わせるように、部屋の空気を静かに落ち着かせていく。
ジョゼフが扉へ向かう前もう一度だけ印へ視線を落とした。
「……青薔薇の刻印。伝説だと学びましたが、今夜、現実になりました」
ローエンは短く頷く。
「ならば、その一行を封じて保て。――それが我らの務めだ」
侍女が戻り冷たい布を新しく替える。
ローエンは娘の髪を指先で払い、栗色の額に短く触れた。
「よく、カイルを救ってくれた」
称賛ではない。救いの重さを分かち合うための、短い言葉だった。
青薔薇は胸の中心でひそやかに呼吸している。
灯は丸く香は淡い。
外ではまだ夜が深いが、風の匂いが少し変わった。
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「ジョゼフ」
「はい、閣下」
「女王陛下への伝達路を確保しろ。――早朝だ。誰にも悟られるな」
「直ちに」
家令は深く一礼し、扉の向こうへ消える。
ローエンは娘とカイルを同じ視界に収め、長い呼吸をひとつ置いてから低く祈るように目を閉じた。
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