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業務日誌(一冊目)

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「ローザ・ブラックデル! 貴様のような性悪令嬢は、不要だ!」


 という婚約者の怒鳴り声を聞いた瞬間、ローザの脳は、見知らぬ記憶の坩堝るつぼに投げ込まれていた。

(え、何これ…まさか前世の記憶?)

 ローザの国では、前の人生の記憶を持ったまま生まれてくる人間が、時々出現する。

 そういう人間は、幼児の頃から大人顔負けの知識を持っていて、魔術などの技量に優れている場合が多いため、国による手厚い保護を受けて、特別な施設で養育されることが、法律によって定められている。

 要は、現世で余計な知恵をつける前に、きっちり囲い込んで、国のために従順に働く駒にしようという薄汚い魂胆なのだが、前世持ちの子どもの親には多額の補助金が出るために、苦情を持ち込む親は滅多にいない。

 たとえ苦情を持ち込む親がいても、いつの間にか親族ごと消えていたりするという、なかなか怖い国なのだった。

 それはともかく、ローザ・ブラックデルは幼児ではない。

 半年後に予定されている結婚式の打ち合わせのために婚約者の屋敷に呼ばれ、応接室で待たされること三時間。

 婚約者のゲブリル・リバーズがやっと来たと思ったら、前置きもなく「性悪は不要だ」と怒鳴られた。

 不要というなら、婚約も結婚も無しということだろうけれど、脳が坩堝で煮えているローザには、怒声の内容を吟味する余裕などない。

 それどころではなかったのだ。


(前世が邪神って、どういうことよ…)


 理解不能な記憶を咀嚼できず、青い顔で黙り込んでいるローザは、傍目には婚約者の暴言に深く傷つく、か弱い令嬢そのものだった。


 けれどもゲブリル・リバーズは、自分の暴言の効果がまだ十分ではないと考えたらしい。

「ふん、泣きもしないのか。醜く図太い貴様のことだから、親に媚を売らせれば結婚にこぎつけられるとでも考えているのだろう。だが残念だな。婚約破棄は決定事項だ。悪役令嬢など、我が家門に相応しくないからな!」

(邪神だから、生まれた時から超邪悪な女で、呪術で国中の人間を呪っていた…?)

「いいか、このことは、俺の両親だけでなく、貴様の両親も了承済みだ! 貴様がどうあがこうと、無駄だからな!」

(家族も王族も魅了にかけて、贅沢三昧、暴虐無人に酒池肉林の限りを尽くして、国を乗っ取る寸前に、隣国の皇子に倒されたって……前世の私、何やってるのよ!)


「ふっ、反論もせずに震えているだけとはな。いいザマだ」

(贅沢三昧はまだ分かるけど、伯爵令嬢が幼児の頃から酒池肉林に耽るって何? 三歳児が綺麗どころを侍らせて鯨飲馬食とかありえるの? なんで誰も止めないの!? 国中バカなの!?)

 ローザはあまりにも荒唐無稽な前世の記憶に震えているのだが、ゲブリル・リバーズは自分の威光に怯えているのだと思い込んでいる。


「貴様に散々苦しめられたらしいルーシェにも見せてやりたいところだが、あいにくと今日は衣装合わせで来られない。もっとも、貴様の如き醜い者など、見たくもないだろうがな!」

(邪神の私を滅ぼした隣国の皇子は、実は神で嗜虐趣味の変態だったとか……もう、訳がわからなすぎる)

 震えるだけで返事をしないローザに、ゲブリル・リバーズは飽き足らなくなったらしい。

「おい、聞いてるのか! 少しは反論なり泣き言なり口にしてみろ! 一言くらいなら聞いてやらんでもない。面白ければだがな!)

(全然面白くないわよ! 何よこの記憶! 信じたくもないけど、謎の実感が強すぎて、夢だとか妄想だとか思えない! 大体私は常識人よ、こんなの自力で妄想するなんて、不可能すぎる!)


「人を馬鹿にしてるのか? だんまりもいい加減にしろ!」

 とうとう痺れを切らしたゲブリル・リバーズは、自分にだけ出されていた熱い紅茶を、ローザの頭にばちゃりとかけた。

「びゃっ!」

「やっと汚い声を出したな」

「常識的な令嬢はっ」

「な、なんだ、文句があるのか」

「いきなり酒池肉林には走りません。そうですよね?」

「はあ?」

 ローザは記憶の坩堝に脳を蹂躙されたことに対して、完全にブチ切れていた。

 その怒りの持って行き場を咄嗟に見つけることができず、つい、目の前で勝手にいきり立っているゲブリル・リバーズに全力で投げつけてしまっていた。

「そして! 多少非常識だからといって、見境なしの色恋三昧の合間に鯨飲馬食に耽りまくるとか、やりませんよね、令嬢は!」

「なんだそれは、誰のことだ」

「私のことです! いいですか? 私こと、ローザ・ブラックデルは、品行方正にして温厚篤実、才色兼備、心は常に明鏡止水の境地にあり、良妻賢母間違いなしとまで使用人全員に毎日言われているけど、その正体は凡庸でどこにでもいる令嬢です! そりゃ容姿端麗眉目秀麗とまでは言いませんよ。けど佳人薄命など目指すつもりは毛頭ありませんから構いません! つまり何が言いたいかっていうと!」

「な、なんだ…」

 元々そんなに肝の据わった人間でもないゲブリル・リバーズは、ローザの謎の勢いに、すっかり気圧され、呑まれていた。

「私は、どこにでもいる、ごく普通の、平凡で良識ある、取り立ててどうもいうこともない、その他大勢の令嬢だってことなんです! そうですよね!?」

「あ、ああ、まあ…」

「普通で凡庸で、際立っていないからこそ、需要があるんです! 私のように汎用性の高い令嬢こそが、いつの世でもあまねく求められている! 薄利多売! 広く、浅く、お手頃に!」

 そこまで言い切ると、ローザは紅茶で濡れて顔に貼り付いていた前髪を手でピシャリと払いのけ、すっくと席を立った。


「ですので! 私は需要を求めて他を当たることに決めました!」

「なんだと? それはどういうことだ」

「あまり聞いてませんでしたけど、あなた、私が不要だと、さっきドヤ顔で宣言なさってましたよね」

「そうだ。貴様との婚約は破棄と決まった。いまさら取り縋っても撤回は」


「撤回は結構。私、自分を出荷いたします!」

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