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第1章 Ⅲ節 イーディディイールにて
Ⅲ節 イーディディイールにて 2
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イグナティオが向かったのは、町の北にある貧困区であった。
貧困区はある程度栄える町には必ずと言って良いくらい存在する場所である。元々は食うに困った農村から逃げてきた者を1ヶ所に集めて遠ざけたのが始まりだったが、その後、国から管理をするよう遣わされた役人が、務めを怠って無法地帯になるのが一般的である。故に借金取りに追われた者や罪を犯した者たちの王道楽土となるのが大概であった。
処理をされない汚物や、飢えて行き倒れそのまま死んだ者の腐った死骸などから悪臭が放たれ、外の道理とは違うならず者たちの掟が敷かれた、裏の世界である。
そのような場所があることは、町に住む者なら誰でも知っていた。
しかし、宮廷から出たことがあまりないファルシールは知らなかった。ただ町の雰囲気が徐々に暗く荒れたものになっていくのに気づいて疑ったが、なす術がない。導かれるままに従った。
貧困区はひとつの通りを抜けるとすぐに現れた。
全てのものが粗末で、人のいなくなった建物や、屋根の崩れた建物などに布切れや戸板で覆いをして"家"の体を成しているようだった。砂地の地面には野犬の遺骸が転がっている。
ファルシールはその光景がホスロイの町の惨状を思い出させて気分が沈んだ。
(この男どこまでもタチが悪い......)
イグナティオは背後から向けられている侮蔑の視線を笑みで殺して、馬を止めると、馬から降りて与一を抱えた。
「......ここは何処だ」
「貧困区と呼ばれる場所です。罪人やならず者たちが棲む悪所とも言いますな」
「おまえ......っ!」
「品のある口調が崩れておりますよ? なに、心配なさらずとも契約がありますので取って食ったりはしませんよ」
そう冷やかして笑うと、イグナティオは与一を背中に背負って貧困区の奥へと進んでいく。ファルシールも馬を降りて歩いた。連れていた馬は通りを抜けられないので、外の道に留め置いた。
狭い場所に詰め込むように身を寄せあって眠る者たちや、ファルシールたちを虚ろな目で追う者、何かの肉を肉切り包丁で叩ききって捌いている者。
それらは余所者であるファルシールたちをその異様さで洗礼した。
「......!」
ファルシールは突然寝転がっていた者に足首を掴まれて、思わず足を飛び退けた。
様子を尻目に見ていたイグナティオは、ファルシールの戸惑う様を楽しんでいた。
少ししてようやくイグナティオは止まった。そこには、小ぢんまりとはしていたが、周りの建物よりかは随分と立派に見える小屋が建っていた。
「おい、扉をあけろ。飯だねを持ってきたぞ」
イグナティオは扉を叩いた。すると扉が勢いよく開き、暗い扉の向こうからいきなり手が伸びてきてイグナティオの胸ぐらを掴んだ。イグナティオは与一もろとも吊し上げられる。
「あら、ナティーちゃんじゃないのぉ! 心底会いたく"なかった"わ~! 元気にしてた~?」
暗がりから姿を現したのは、甲高い大声で喋る男とも女ともつかないが、おそらく男らしい背の高い人物だった。他の貧困区の者よりも羽振りが良さそうな格好をしている。
娼婦が着る女ものの薄手の衣服を纏ってはいるが、布地からはだけて見える身体は筋骨がしっかりとしていて、男だとはっきり分かる。何より扉の枠の上端に頭が当たるほどの大きさである。しかし、声と言い話し方と言い、所作は女のもので、余計にファルシールは分別に惑った。
イグナティオは「降ろせ」と短く切り捨てた。
「あらあらあら! この子たちは?」
それでも降ろさないオトコオンナにイグナティオは怒鳴る。
「降ろせ!」
「いやぁね。せっかちな男は嫌いよぉ。その中でもナティーちゃんはダントツで嫌いだけどね!」
オトコオンナはイグナティオを放り出すように降ろした。
「背中のが熱を出している。倒れてから一刻は経っている。こちらの"貴人"のご依頼だ」
ファルシールは一瞬、こちらを一瞥したオトコオンナの目に光が走ったように見えた。
「なるほどね。中へ連れてらっしゃい」
オトコオンナはイグナティオに入るよう言うと、自分は別の部屋へと消えていった。
「あれは何者だ」
ファルシールはイグナティオに問うた。
「私の知っている最高の医者にございます」
イグナティオは礼節を徹してはいたが、もはや口だけであった。
「──余は、そなたを信じるぞ」
そう静かに言い放ったファルシールの碧い目は、イグナティオの目の奥の曇りを鋭く刺した。イグナティオはその言い知れぬ強い圧をもつ真っ直ぐな瞳に、隠している下心を突かれ眉を潜めた。
(なんだこのガキ......)
イグナティオは返事をするでもなく与一を薄い帳が幾重にも垂らされた不思議な匂いのする香が焚いてある部屋の奥に連れていった。ファルシールも決心して中へと続いた。
部屋には帷帳で細かく区切って床に筵を敷いただけの小さな寝床らしきものが幾つかあった。ファルシールはそれらを気掛かりに思いながらも、イグナティオの背中を追う。
突き当たりまで進むと、帷帳で区切られた少し大きめの空間が現れた。応接間とでも言うように東国風の丸椅子と円卓が使い古しのろうそくに囲まれて小綺麗に並べられている。その奥に一際広くしっかりとした寝台があった。
イグナティオは与一をその寝台に寝かせると、疲れたように手前の丸椅子に座り込んだ。
しばらくして、先ほどのオトコオンナが盥に水と布を浸したものを持って帳を潜った。
「この子の事はわたしが責任を持って看病するわ。安心して!」
オトコオンナは片目を瞑って不安げなファルシールを宥めた。なんとも言えない寒気がファルシールの背中を走る。
だが、見かけによらずオトコオンナの手際は見事なものだった。汗と返り血が生乾きになった与一の服を素早く脱がせると、新しい服を着せて毛布を掛け、額に井戸水で濡らして冷やした布を載せた。
その後すぐ「薬を煎じてくるわ~」と言い残して応接間を去っていった。
ファルシールは丸椅子に掛けて頬杖を突いているイグナティオと実質二人きりになった。話すことのないふたりは自然と無口になる。
「......此度の仕事、大義であった」
先に口を開いたファルシールは、そうひとこと賞しておいてイグナティオの出方を窺った。
「礼には及びません。契約ですから」
イグナティオは相変わらずのわざとらしい笑みをファルシールに向けた。
「そなた、余を囲って何をするつもりだ?」
「今はまだ機ではございませんので、後ほど」
「こちらも礼と言い報酬と言い、用意せねばならぬのでな。あまりに余の予想を超えられては、すぐには受け取れぬやも知れぬぞ」
「そうですな......。ではご厚意に賜り、僭越ながら」
イグナティオは右手を出した。
「まずあのキースヴァルトの馬を全て」
「まず、か」
「はい。次に、今後も私めとお取引して頂けるお約束を」
「良いだろう」
「加えて、あなた様の持つ情報と伝手の全て」
「全て、とは欲張りだな」
「先刻快くご契約下さいましたので甘えさせて頂きました」
ファルシールは嫌なことを思い出した。確かに契約を快諾したようなものだった。神前にての契約は蔑ろに出来ない。
「......良かろう」
「以上になります」
イグナティオは言い終わると手をさげた。
「それではさっそく馬の様子を見て参ります。後の事は奴が何とかしますでしょうから」
「そうすると良い。大事な"そなたの"馬だ。数頭逃げでもしたら報酬が減るからな」
ファルシールは嬉々としているイグナティオに微力ながら毒づいた。馬を全て持っていかれることが惜しかったのもあったが、このような男に良いように転がされた自分の情けなさをぶつける相手が欲しかったのもあった。
イグナティオは一礼すると帷帳を潜って応接間を後にした。
イグナティオが向かったのは、町の北にある貧困区であった。
貧困区はある程度栄える町には必ずと言って良いくらい存在する場所である。元々は食うに困った農村から逃げてきた者を1ヶ所に集めて遠ざけたのが始まりだったが、その後、国から管理をするよう遣わされた役人が、務めを怠って無法地帯になるのが一般的である。故に借金取りに追われた者や罪を犯した者たちの王道楽土となるのが大概であった。
処理をされない汚物や、飢えて行き倒れそのまま死んだ者の腐った死骸などから悪臭が放たれ、外の道理とは違うならず者たちの掟が敷かれた、裏の世界である。
そのような場所があることは、町に住む者なら誰でも知っていた。
しかし、宮廷から出たことがあまりないファルシールは知らなかった。ただ町の雰囲気が徐々に暗く荒れたものになっていくのに気づいて疑ったが、なす術がない。導かれるままに従った。
貧困区はひとつの通りを抜けるとすぐに現れた。
全てのものが粗末で、人のいなくなった建物や、屋根の崩れた建物などに布切れや戸板で覆いをして"家"の体を成しているようだった。砂地の地面には野犬の遺骸が転がっている。
ファルシールはその光景がホスロイの町の惨状を思い出させて気分が沈んだ。
(この男どこまでもタチが悪い......)
イグナティオは背後から向けられている侮蔑の視線を笑みで殺して、馬を止めると、馬から降りて与一を抱えた。
「......ここは何処だ」
「貧困区と呼ばれる場所です。罪人やならず者たちが棲む悪所とも言いますな」
「おまえ......っ!」
「品のある口調が崩れておりますよ? なに、心配なさらずとも契約がありますので取って食ったりはしませんよ」
そう冷やかして笑うと、イグナティオは与一を背中に背負って貧困区の奥へと進んでいく。ファルシールも馬を降りて歩いた。連れていた馬は通りを抜けられないので、外の道に留め置いた。
狭い場所に詰め込むように身を寄せあって眠る者たちや、ファルシールたちを虚ろな目で追う者、何かの肉を肉切り包丁で叩ききって捌いている者。
それらは余所者であるファルシールたちをその異様さで洗礼した。
「......!」
ファルシールは突然寝転がっていた者に足首を掴まれて、思わず足を飛び退けた。
様子を尻目に見ていたイグナティオは、ファルシールの戸惑う様を楽しんでいた。
少ししてようやくイグナティオは止まった。そこには、小ぢんまりとはしていたが、周りの建物よりかは随分と立派に見える小屋が建っていた。
「おい、扉をあけろ。飯だねを持ってきたぞ」
イグナティオは扉を叩いた。すると扉が勢いよく開き、暗い扉の向こうからいきなり手が伸びてきてイグナティオの胸ぐらを掴んだ。イグナティオは与一もろとも吊し上げられる。
「あら、ナティーちゃんじゃないのぉ! 心底会いたく"なかった"わ~! 元気にしてた~?」
暗がりから姿を現したのは、甲高い大声で喋る男とも女ともつかないが、おそらく男らしい背の高い人物だった。他の貧困区の者よりも羽振りが良さそうな格好をしている。
娼婦が着る女ものの薄手の衣服を纏ってはいるが、布地からはだけて見える身体は筋骨がしっかりとしていて、男だとはっきり分かる。何より扉の枠の上端に頭が当たるほどの大きさである。しかし、声と言い話し方と言い、所作は女のもので、余計にファルシールは分別に惑った。
イグナティオは「降ろせ」と短く切り捨てた。
「あらあらあら! この子たちは?」
それでも降ろさないオトコオンナにイグナティオは怒鳴る。
「降ろせ!」
「いやぁね。せっかちな男は嫌いよぉ。その中でもナティーちゃんはダントツで嫌いだけどね!」
オトコオンナはイグナティオを放り出すように降ろした。
「背中のが熱を出している。倒れてから一刻は経っている。こちらの"貴人"のご依頼だ」
ファルシールは一瞬、こちらを一瞥したオトコオンナの目に光が走ったように見えた。
「なるほどね。中へ連れてらっしゃい」
オトコオンナはイグナティオに入るよう言うと、自分は別の部屋へと消えていった。
「あれは何者だ」
ファルシールはイグナティオに問うた。
「私の知っている最高の医者にございます」
イグナティオは礼節を徹してはいたが、もはや口だけであった。
「──余は、そなたを信じるぞ」
そう静かに言い放ったファルシールの碧い目は、イグナティオの目の奥の曇りを鋭く刺した。イグナティオはその言い知れぬ強い圧をもつ真っ直ぐな瞳に、隠している下心を突かれ眉を潜めた。
(なんだこのガキ......)
イグナティオは返事をするでもなく与一を薄い帳が幾重にも垂らされた不思議な匂いのする香が焚いてある部屋の奥に連れていった。ファルシールも決心して中へと続いた。
部屋には帷帳で細かく区切って床に筵を敷いただけの小さな寝床らしきものが幾つかあった。ファルシールはそれらを気掛かりに思いながらも、イグナティオの背中を追う。
突き当たりまで進むと、帷帳で区切られた少し大きめの空間が現れた。応接間とでも言うように東国風の丸椅子と円卓が使い古しのろうそくに囲まれて小綺麗に並べられている。その奥に一際広くしっかりとした寝台があった。
イグナティオは与一をその寝台に寝かせると、疲れたように手前の丸椅子に座り込んだ。
しばらくして、先ほどのオトコオンナが盥に水と布を浸したものを持って帳を潜った。
「この子の事はわたしが責任を持って看病するわ。安心して!」
オトコオンナは片目を瞑って不安げなファルシールを宥めた。なんとも言えない寒気がファルシールの背中を走る。
だが、見かけによらずオトコオンナの手際は見事なものだった。汗と返り血が生乾きになった与一の服を素早く脱がせると、新しい服を着せて毛布を掛け、額に井戸水で濡らして冷やした布を載せた。
その後すぐ「薬を煎じてくるわ~」と言い残して応接間を去っていった。
ファルシールは丸椅子に掛けて頬杖を突いているイグナティオと実質二人きりになった。話すことのないふたりは自然と無口になる。
「......此度の仕事、大義であった」
先に口を開いたファルシールは、そうひとこと賞しておいてイグナティオの出方を窺った。
「礼には及びません。契約ですから」
イグナティオは相変わらずのわざとらしい笑みをファルシールに向けた。
「そなた、余を囲って何をするつもりだ?」
「今はまだ機ではございませんので、後ほど」
「こちらも礼と言い報酬と言い、用意せねばならぬのでな。あまりに余の予想を超えられては、すぐには受け取れぬやも知れぬぞ」
「そうですな......。ではご厚意に賜り、僭越ながら」
イグナティオは右手を出した。
「まずあのキースヴァルトの馬を全て」
「まず、か」
「はい。次に、今後も私めとお取引して頂けるお約束を」
「良いだろう」
「加えて、あなた様の持つ情報と伝手の全て」
「全て、とは欲張りだな」
「先刻快くご契約下さいましたので甘えさせて頂きました」
ファルシールは嫌なことを思い出した。確かに契約を快諾したようなものだった。神前にての契約は蔑ろに出来ない。
「......良かろう」
「以上になります」
イグナティオは言い終わると手をさげた。
「それではさっそく馬の様子を見て参ります。後の事は奴が何とかしますでしょうから」
「そうすると良い。大事な"そなたの"馬だ。数頭逃げでもしたら報酬が減るからな」
ファルシールは嬉々としているイグナティオに微力ながら毒づいた。馬を全て持っていかれることが惜しかったのもあったが、このような男に良いように転がされた自分の情けなさをぶつける相手が欲しかったのもあった。
イグナティオは一礼すると帷帳を潜って応接間を後にした。
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