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第6話「眠る貴族を嫉妬する将軍」
しおりを挟む王国へ戻る馬車の中、一郎はついに緊張から解放され、本物の熟睡を楽しんでいた。彼は座席に深く沈み込み、口を半開きにして時折いびきをかいている。アイリス王女は微笑みながらそんな彼を見つめていた。
「こうして見ると、ただの疲れた青年ですね」
彼女の言葉にフレデリック執事が小声で答えた。「はい、かなりお疲れのようです。国境交渉の緊張から解放されて…」
「いえ、それもありますが」アイリスは小さく笑った。「彼は前世でもよく寝ていたようですね。『いつでもどこでも眠れる』という特技は、前世からの才能なのかもしれません」
「前世…」執事は依然として主人の秘密を完全には理解していなかったが、王女が知っているとなれば、もはや隠す必要はないと感じた。「確かに、最近のエドガー様は、立ったまま眠ることもあれば、こうして普通に眠ることもあり…」
「プリン…食べたい…」
突然、一郎が寝言を言った。
「プリン?」アイリスは首を傾げた。
「異世界のお菓子でしょうか」執事も不思議そうな顔をした。
「唐揚げにレモン…絞るな…」
今度はもう少し長い寝言。アイリスは手で口を押さえて笑いを堪えた。
「彼の世界のお料理の話でしょうか」
「うーん…締め切り…間に合わない…」
一郎の表情が苦しそうに変わる。前世のトラウマがフラッシュバックしているようだ。
「エドガー様、大丈夫ですよ」執事が優しく彼の肩に手を置いた。
その瞬間、一郎は飛び起きた。「レポート完成しました!」
「エドガー様?」
一郎は周囲を見回し、状況を把握すると恥ずかしそうに頭を掻いた。
「あ、すみません…夢を見ていました」
アイリスはくすくすと笑った。「プリンと唐揚げの夢ですか?」
「え?」一郎は赤面した。「寝言を言っていたんですか?」
「とても興味深いものでしたよ」
一郎は顔を覆い、うめいた。「恥ずかしい…」
「気にしないでください」アイリスは優しく言った。「むしろ、あなたが本当の眠りを楽しめているのを見ると安心します」
馬車は王都に近づいていた。窓の外を見ると、集まってくる市民たちの姿が見えた。彼らは旗を振り、馬車を待ち構えている。
「なんだこれは?」一郎は驚いた。
「噂が広まったようですね」フレデリックは微笑んだ。「エドガー様が国境危機を解決したという知らせが」
「でも、俺はただ…」
「謙虚さも大切ですが」アイリスは真剣な表情で言った。「今は『エドガー・フォン・リヒター』として彼らの期待に応えてください」
一郎は深呼吸した。彼は日本のサラリーマン時代、目立つことを避け、黙々と働くタイプだった。しかし今、彼は英雄として人々に迎えられようとしている。
「わかりました。頑張ります」
馬車が王都の門をくぐると、歓声が上がった。
「眠れる交渉人!」
「エドガー様万歳!」
「伯爵様の瞑想が我らを救った!」
人々は熱狂的に騒ぎ、花を投げ、一郎の名を呼んでいた。前のエドガーなら鼻高々だったろうが、一郎はただ照れくさそうに手を振るだけだった。
「すごい…変わり様だな」
アイリスは誇らしげに微笑んだ。「これがあなたの新しい人生の始まりです」
---
王宮では、国王アルバート3世が二人の帰還を待っていた。謁見の間で報告を聞いた国王は、満足げに頷いた。
「よくやった、リヒター伯爵。お前の『瞑想』の力が、我が国に平和をもたらしたわけだな」
「いえ、王女様とキース将軍の協力があってこそです」一郎は謙虚に答えた。
「謙遜する必要はない」国王は大きな声で言った。「お前の功績を讃え、特別な宴を催す。明晩、王宮で行う」
一郎は驚いて目を見開いた。「そ、そんな…」
「それに」国王は意味深な笑みを浮かべた。「お前と我が娘の関係も、今回の出来事で深まったようだな」
「父上!」アイリスが赤面して抗議した。
「なに?私は単に外交上の協力関係を言っているだけだが?」国王は無邪気に言い返した。「それとも、他に何かあったのかな?」
一郎もアイリスも顔を赤らめて言葉に詰まった。国王は満足げに笑いながら、執務官に宴の準備を命じた。
廷臣たちや貴族たちも、一郎への態度を一変させていた。以前は冷たい視線や嘲笑を向けていた者たちが、今は彼に近づき、友好的な言葉をかけてくる。
「リヒター伯爵、ずっと誤解していました」
「あなたの洞察力は素晴らしい」
「ぜひ私の娘を紹介させてください」
一郎は応対に疲れ果て、なんとか謁見の間を後にした。廊下では、キース・ヴァンガード将軍が壁に寄りかかり、彼を待っていた。
「リヒター伯爵…いや、『眠れる交渉人』か」将軍は皮肉な口調で言った。
「将軍、あなたのサポートがなければ、交渉は成功しなかったでしょう」一郎は誠実に答えた。
「おだてても無駄だ」キースは腕を組んだ。「私はまだお前を完全には信用していない」
「それは当然です」一郎は微笑んだ。「人は簡単には変わらないでしょう」
「しかし…」キースは少し表情を和らげた。「お前の『瞑想』の力には興味がある。その力が本物なら、王国にとって貴重な資産だ」
「それで?」
「明日、軍の訓練場に来い」キースは挑戦的な笑みを浮かべた。「お前の『力』が戦場でも役立つのか、試してみたい」
「戦場…」
一郎は顔を引きつらせた。彼は剣も振るえない現代人だ。戦闘となれば、彼の無力さがすぐにバレてしまう。
「恐れているのか?」キースは挑発した。
「いえ、行きます」一郎は覚悟を決めた。「でも、私は剣術には…」
「心配するな」キースは不敵に笑った。「お前は剣を振るう必要はない。ただ、いつものように『瞑想』すればいい」
その言葉に、一郎は少し安心した。彼の「睡眠無双」スキルが本当に役立つなら、単に眠るだけでいいはずだ。
「明日の午前中、お待ちしています」
キースはそれだけ言って立ち去った。彼の背中からは、まだ嫉妬と不信の感情が感じられた。
---
翌朝、一郎は執事フレデリックと共に、王宮の訓練場へと向かった。そこは広大な砂地の広場で、周囲には観覧席が設けられていた。
「意外と人が…」
観覧席にはかなりの数の人々が集まっていた。貴族や軍人だけでなく、許可を得た市民たちもいるようだった。
「エドガー様の『瞑想の力』を見たいと、皆が集まっているのでしょう」フレデリックは説明した。
「圧力だな…」一郎は冷や汗を浮かべた。
訓練場の中央では、キース将軍が部下たちに指示を出していた。一郎を見つけると、彼は満足げな表情で近づいてきた。
「来たか、リヒター伯爵」
「約束通りです」一郎は緊張しながらも冷静を装った。「どのような試験ですか?」
「単純だ」キースは手を広げた。「この訓練場で、私の精鋭兵士たちと対戦してもらう」
「対戦?」一郎は声が裏返りそうになった。「私は戦えません」
「だから、お前は戦わなくていい」キースは不思議そうに言った。「ただ、あの丘の上に立って『瞑想』するだけだ」
彼が指差した先には、訓練場を見下ろす小さな丘があった。
「私の部下20名が、お前の『瞑想』の影響を受けながら訓練を行う」キースは続けた。「本当にお前の力が彼らを強くするのか、試してみたいのだ」
一郎は安堵のため息をついた。彼は直接戦う必要はないらしい。
「わかりました」
彼が丘に向かおうとしたとき、アイリス王女が姿を現した。彼女は優雅な乗馬服姿で、驚いたことに観客席ではなく訓練場に入ってきた。
「王女様?」キースも驚いた様子だった。
「今日の試験には、私も立ち会わせていただきます」アイリスは静かに言った。「エドガー伯爵の能力が、私の『夢見の力』とどう反応するか、興味があるのです」
キースは少し考えた後、頷いた。「光栄です。では、王女様も丘の上でお願いします」
アイリスは一郎に寄り添って歩き始めた。
「大丈夫?」彼女は小声で訊ねた。
「ええ、まあ…」一郎は苦笑した。「少なくとも剣を振るわなくて済むだけマシです」
二人が丘に到着すると、キースが兵士たちに命令を下し始めた。20名の兵士が10名ずつ二手に分かれ、訓練用の木剣を持って対峙した。
「では始めよう!」キースの声が訓練場に響いた。「リヒター伯爵、『瞑想』をお願いする」
観客から期待の声が上がる。一郎は深呼吸して、緊張を高めようとした。
「緊張しないと眠れないんだった…」
アイリスが彼の横で囁いた。「想像してみて。あの兵士たちが、あなたの力を頼りにしている」
その言葉に、責任感からくる緊張が一郎の体を襲った。それは彼の「睡眠無双」スキルを発動させるのに十分だった。彼の意識が遠のき始める。
「ありがとう…」
彼はそのまま立ったまま眠りに落ちた。アイリスは微笑みながら、彼の隣に立った。彼女の目が紫に輝き始める。
「私も力を貸しましょう」
訓練場では、キースの命令で模擬戦が始まった。しかし、開始直後から異変が起きた。
通常なら均衡している筈の兵士たちが、突然、予想外の動きを見せ始めたのだ。彼らの反射神経が鋭くなり、動作が流れるように滑らかになった。木剣が風を切る音が、いつもより鋭く響く。
「なんだこれは…」キースは目を見開いた。
両チームの兵士たちは互いに互角の戦いを繰り広げていたが、それは通常の訓練とは明らかに違っていた。彼らの動きには、普段の練習では見られない優雅さと力強さがあった。
「将軍!」一人の副官が驚いた声で叫んだ。「兵士たちの動きが、王都最高武術大会のレベルです!」
キースは丘の上を見上げた。青い光に包まれた一郎と、紫の輝きを放つアイリス王女。二人の力が訓練場全体に広がっているようだった。
15分後、演習は終了した。兵士たちは疲れた様子だったが、彼らの顔には達成感と驚きが浮かんでいた。
「信じられません、将軍」一人の剣士が興奮した様子で報告した。「体が勝手に動き、普段できないような技が繰り出せました」
「まるで、体が軽くなったようだ」別の兵士も証言した。
キースは黙って丘の上を見つめていた。そこでは、一郎が目を覚まし、アイリスと静かに話していた。
「不思議な力だ…」キースは呟いた。
観客席からは熱狂的な拍手と歓声が上がっていた。『眠れる交渉人』の評判は、これでさらに高まることになる。
---
「全く信じられないよ」
訓練場を後にした一郎は、フレデリックとアイリスと共に王宮の庭園を歩いていた。
「私、本当に何もしていないんですよ?」
「いいえ、あなたは確かに影響を与えていました」アイリスは静かに言った。「私にはそれが見えました。あなたが眠ると、周囲の人々の運命の糸が変わるのです」
「運命の糸?」
「目に見えない絆のようなものです」彼女は手を動かして表現しようとした。「あなたの周りに青い光が広がり、それが周囲の人々に触れると、彼らの可能性が広がるのです」
「でも、なぜ俺に…」
「それはわかりません」アイリスは首を振った。「でも、あなたがこの世界に来た理由が、その力にあるのかもしれません」
フレデリックが控えめに口を挟んだ。「エドガー様、キース将軍の様子はいかがでしたか?」
「あぁ」一郎は思い出したように言った。「彼、最後はどうだった?」
「複雑な表情をされていました」執事は答えた。「認めたくないけれど、認めざるを得ない…という感じでしょうか」
「嫉妬しているんでしょうね」アイリスがくすくすと笑った。「キース将軍は常に完璧を目指し、自分の努力と鍛錬で地位を築いてきた人です。それなのに、あなたがただ眠るだけで皆を強くするなんて…彼のプライドが許さないのでしょう」
「確かに複雑だろうな…」一郎は同情した。「前世でも、努力家の上司が『楽して成果を上げる部下』を見ると激怒していたし」
三人が歩いていると、突然、庭園の茂みから人影が飛び出してきた。
「リヒター伯爵様!」
慌てふためいた様子の若い女性貴族だった。彼女は緊張した面持ちで一郎の前に立ちはだかった。
「あの、私は…ローズマリー・フォン・ブルーメンと申します」彼女は震える声で言った。「明日の宴で、ぜひ私とお話しいただけませんでしょうか?」
「え?ええ、もちろん…」一郎は戸惑いながらも答えた。
「ありがとうございます!」彼女は顔を真っ赤にして、深々とお辞儀をした。「では、明日!」
そう言って、彼女は来た時と同じように急いで去っていった。
「なんだったんだ…?」
「ふふ、始まりましたね」アイリスは意味深な笑みを浮かべた。
「何が?」
「女性貴族たちの猛アタックです」フレデリックが説明した。「エドガー様が英雄となり、王女様とも親しいとなれば、貴族の娘たちが黙っているはずがありません」
「えぇ!?」一郎は動揺した。「俺、そういうの苦手なんだけど…」
「前世でも女性には縁がなかったのですか?」アイリスが好奇心いっぱいの表情で尋ねた。
「仕事が忙しくて…」一郎は言い訳するように答えた。
「これも試練ですね」アイリスはからかうように言った。「『眠れる交渉人』が、女性たちの心をどう交渉するか」
「助けてください、王女様」一郎は本気で懇願した。
「大丈夫」彼女は優しく微笑んだ。「明日の宴では、私が救出に行きますから」
フレデリックは二人を見て、静かに微笑んだ。エドガー様と王女様の関係は、単なる同盟以上のものに発展しているようだった。
そんな彼らの様子を、キース・ヴァンガード将軍が遠くから見つめていた。彼の目には、複雑な感情が宿っていた。
「『眠れる交渉人』か…」彼は呟いた。「お前の力が本物だとして、それは本当に王国のためになるのか?それとも…」
将軍は考え込みながら、自分の訓練場へと戻っていった。彼の心には、認めたくない感情が渦巻いていた。
嫉妬。それは努力の人が、才能の人を見たときに感じる避けがたい感情だった。
―― 第6話 「眠る貴族を嫉妬する将軍」 終 ――
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