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接触
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俺の通う大学はちょっとした片田舎にあるため、交通の便は悪く、周囲には基本的に何もない。あるとすれば、豊かな木々と澄んだ空気ぐらいだろうか。小さな商業施設くらいならバスを使えばたどり着けるが、この大学に通う学生のほとんどは、講義が終わり次第電車に乗り込んで都会へと繰り出す。かく言う俺もこの町ですることなど特になく、用事が済めばそそくさと自宅へ戻るか、たまにサークルに顔を出す程度である。
中島とは学部が違うので、大学に着くとすぐに別れることになるのだが、その別れ際に、「また何か不幸に見舞われたら相談しろよ。お祓いぐらいしてやるから」などと皮肉を言われた。「からかうんじゃねぇよ」と苦笑いで答え、俺はいつものように礼拝堂へと向かう―
我が大学の最大の特徴といえば、それは間違いなく、キリスト教の信仰をモットーにしていることだ。いわゆるミッション系の大学で、毎朝のチャペル出席を一・二回生全員に義務づけている。ここで十字の切り方も教わるわけだが、間違って覚えたままの不出来な学生も少なくない。嫌々十字を切り、朝の眠そうな顔で「アーメン」とあくび混じりに唱えるような輩ばかりでは当然の結果とも言えるが、この現状に肩を落とし嘆く宗教師事の望月教授が半ば諦めムードとあっては改善のしようもない。
「―今日はここまでとします」
いつもの一言でチャペルを終わらせた教授は、なぜか俺の方を一瞥し、部屋を後にした。
こんな時は心配になるものだろう。心中穏やかでない。
「何だ、何が悪かったんだ」
「あれか、ふざけてラーメンと唱えていたのがまずかったか」
「いやいや、聖書を盾に漫画を読んでいたのが悟られたのかも」
「―はっ! まさか俺の個性的な十字の切り方がお気に召さなかったか……」
などと無駄に思索を巡らせてみたものの、考えてみても埒が明かず、忘れることにした。チャペルをふざけ倒したサークルの先輩が単位を剥奪されたのは有名な話だから、多少心残りではあるが、外に出て雨が降り始めたことを知ると、絶望感で小さな心配などかき消えた。
(……厄日まっしぐらじゃねぇか、ったく)
大学での講義も終わり、今日は大雨らしいので早めに帰ろうと皆が思ったに違いない。こういう日は一斉に学生の帰宅ラッシュが起こる。
もはや座ることすら許されない電車の中で、窓の外を眺めながら、
「今日は散々だった」
と、愚痴をこぼし、ため息を吐いた。こんな時そばに彼女でもいれば、この情けない男にも優しく労いの言葉をかけてくれるのだろうかと、いるはずのない女を抱きしめようとして空を切る悲しい男が、そこにいた。あまりに闇の深い光景だったろうから、誰もが目をそらしたに違いない。電車の中で目立つのが得意な男である。
―最寄りの駅に降りた俺は、かなり憂鬱な気分だった。なんと言っても、傘が無い。しかも朝は急いでいて、雨もまだ降ってはいなかったからと、駅前まで自転車で来ていたのだが、不幸にも道中でパンクしている。そして、愛車を放置自転車として撤去される訳にはいかないから、これから大雨の中、自転車を押して帰らねばならないわけだ。
年中金欠の一人暮らし学生ともなれば、コンビニでビニール傘を買うことすら渋る。さかしい俺は代替案として、自宅アパートまでの数あるルートの中から最も雨に濡れないであろうコースを導き出し、「もしかしたらそこまで濡れないかも」と、後で後悔しそうな甘々計算で傘無し帰宅を決心したのだった。もちろん、十二星座最下位の男の読みは外れる……
「はぁ……っはぁ……。靴の中まで濡れてきたぁ……」
―全身ずぶ濡れで歩いていたのは、河川敷沿いの砂利道。通れるはずだった道が工事で通れず、他の候補も謎の交通規制でことごとく通せんぼされたおかげで、仕方なしに見知らぬ道をたどって、今ここにいる。
何かの意思に誘導されているんじゃないかと疑いたくなるような、そんなずぶ濡れ強制コースを、俺は足裏で味わっていた。この時すでに、いくら濡れようとも動じないメンタルを得ており、今更急いだりはしまいと思っていた―が、
「……急がないと危ないよな、たぶん」
この街に越してきた時、大家からは、この河川は滅多なことでは氾濫しないと聞いていたが、あまりの豪雨に増水著しく、見れば、どうにも溢れそうな様子だった。鈍い俺でも身の危険を感じて足を早めようとしたのだが、ぬかるんだ地面が自転車のタイヤに絡みついて、いくら押しても思うように進まない。
ここまでうだつの上がらない帰路はそうそう無いだろう。やるせなさから危機感は徐々に遠のき、気づけば足取りは焦る前より重くなっていた。この重い両脚にはおそらく、もう一つ遠因がある。それは、産まれてから十九年間、この生来の不幸体質と真っ正面から向き合い続けた心労だった。ここ数年、俺はこんな風に、小さな出来事から過剰なストレスを感じて、体のどこかが鉛になる。
―少年だった頃の、どこまでも軽い体はどこへやったのだろう。
降りしきる雨に叩かれ、うつむきながら歩く最中、誰かに呼ばれた気がした。ふと顔を上げると二十メートルほど先だろうか、道を何かが塞いでいた。目があまり良くなかった俺はこの時はまだ分からなかったが、近づいてみてはっきりした。―人だ。人が倒れている。こんな雨の中を人が倒れているなんて信じられず、困惑したが、とにかく助けなければと自転車を道路脇に停め、倒れている人影に駆け寄った。
「あのっ、大丈夫ですか!」
倒れていたのはずいぶんと若い女性だった。俺より二つ三つ下に見えるから、高校生ぐらいだろうか。
裾がほつれ、所々穴の開いた黒のジャージ姿で見つかった彼女は、横向けに倒れていた。肩程までの黒髪は、散らばった毛先が頭上の水たまりに着水していて、しかも、履いていた靴は明らかに男物。靴裏がめくれているせいで中の生足が少し見えている。一言で言うならホームレス。女性らしからぬ、見るも無惨な装いだった。
「どこか具合悪いですか!」
少し声を張ってみたが、返事がない。揺すっても起きないから意識は無いみたいだが、息はしている。こういう時は救急車を呼ぶもんだと、一一九番通報しようとして、肝心の携帯を持っていない事を思い出した。ここからだと病院は遠いし、周囲に人はいない。どうしたものかと頭を悩ませている内に、河川はいよいよ激流となって俺を急かした。当然だが彼女を放っておく事などできない。もし放置などしようものなら、最悪の場合、彼女は氾濫した河川の濁流に飲まれて、たちまち土左衛門となる。のちに下流で女性の水死体が見つかったとかニュースになったりなんかした日には、罪悪感で俺がショック死して墓穴二つ! 今日の運の悪さからして、あり得ない話ではないだろう。
―かつてない疲労感と、差し迫った状況が、俺から冷静な判断力を奪ったのだと、ここで言い訳しておこう。もはや帰りたい一心だった俺は、人生最大の過ちを犯す。
(……あぁ、もう、俺にどうしろってんだ! こうか!)
彼女を背中に担ぎ上げた後、人をおぶったままパンクした自転車を押して帰れないことを悟った俺は、愛車に別れを告げ、ようやく帰路についた。
中島とは学部が違うので、大学に着くとすぐに別れることになるのだが、その別れ際に、「また何か不幸に見舞われたら相談しろよ。お祓いぐらいしてやるから」などと皮肉を言われた。「からかうんじゃねぇよ」と苦笑いで答え、俺はいつものように礼拝堂へと向かう―
我が大学の最大の特徴といえば、それは間違いなく、キリスト教の信仰をモットーにしていることだ。いわゆるミッション系の大学で、毎朝のチャペル出席を一・二回生全員に義務づけている。ここで十字の切り方も教わるわけだが、間違って覚えたままの不出来な学生も少なくない。嫌々十字を切り、朝の眠そうな顔で「アーメン」とあくび混じりに唱えるような輩ばかりでは当然の結果とも言えるが、この現状に肩を落とし嘆く宗教師事の望月教授が半ば諦めムードとあっては改善のしようもない。
「―今日はここまでとします」
いつもの一言でチャペルを終わらせた教授は、なぜか俺の方を一瞥し、部屋を後にした。
こんな時は心配になるものだろう。心中穏やかでない。
「何だ、何が悪かったんだ」
「あれか、ふざけてラーメンと唱えていたのがまずかったか」
「いやいや、聖書を盾に漫画を読んでいたのが悟られたのかも」
「―はっ! まさか俺の個性的な十字の切り方がお気に召さなかったか……」
などと無駄に思索を巡らせてみたものの、考えてみても埒が明かず、忘れることにした。チャペルをふざけ倒したサークルの先輩が単位を剥奪されたのは有名な話だから、多少心残りではあるが、外に出て雨が降り始めたことを知ると、絶望感で小さな心配などかき消えた。
(……厄日まっしぐらじゃねぇか、ったく)
大学での講義も終わり、今日は大雨らしいので早めに帰ろうと皆が思ったに違いない。こういう日は一斉に学生の帰宅ラッシュが起こる。
もはや座ることすら許されない電車の中で、窓の外を眺めながら、
「今日は散々だった」
と、愚痴をこぼし、ため息を吐いた。こんな時そばに彼女でもいれば、この情けない男にも優しく労いの言葉をかけてくれるのだろうかと、いるはずのない女を抱きしめようとして空を切る悲しい男が、そこにいた。あまりに闇の深い光景だったろうから、誰もが目をそらしたに違いない。電車の中で目立つのが得意な男である。
―最寄りの駅に降りた俺は、かなり憂鬱な気分だった。なんと言っても、傘が無い。しかも朝は急いでいて、雨もまだ降ってはいなかったからと、駅前まで自転車で来ていたのだが、不幸にも道中でパンクしている。そして、愛車を放置自転車として撤去される訳にはいかないから、これから大雨の中、自転車を押して帰らねばならないわけだ。
年中金欠の一人暮らし学生ともなれば、コンビニでビニール傘を買うことすら渋る。さかしい俺は代替案として、自宅アパートまでの数あるルートの中から最も雨に濡れないであろうコースを導き出し、「もしかしたらそこまで濡れないかも」と、後で後悔しそうな甘々計算で傘無し帰宅を決心したのだった。もちろん、十二星座最下位の男の読みは外れる……
「はぁ……っはぁ……。靴の中まで濡れてきたぁ……」
―全身ずぶ濡れで歩いていたのは、河川敷沿いの砂利道。通れるはずだった道が工事で通れず、他の候補も謎の交通規制でことごとく通せんぼされたおかげで、仕方なしに見知らぬ道をたどって、今ここにいる。
何かの意思に誘導されているんじゃないかと疑いたくなるような、そんなずぶ濡れ強制コースを、俺は足裏で味わっていた。この時すでに、いくら濡れようとも動じないメンタルを得ており、今更急いだりはしまいと思っていた―が、
「……急がないと危ないよな、たぶん」
この街に越してきた時、大家からは、この河川は滅多なことでは氾濫しないと聞いていたが、あまりの豪雨に増水著しく、見れば、どうにも溢れそうな様子だった。鈍い俺でも身の危険を感じて足を早めようとしたのだが、ぬかるんだ地面が自転車のタイヤに絡みついて、いくら押しても思うように進まない。
ここまでうだつの上がらない帰路はそうそう無いだろう。やるせなさから危機感は徐々に遠のき、気づけば足取りは焦る前より重くなっていた。この重い両脚にはおそらく、もう一つ遠因がある。それは、産まれてから十九年間、この生来の不幸体質と真っ正面から向き合い続けた心労だった。ここ数年、俺はこんな風に、小さな出来事から過剰なストレスを感じて、体のどこかが鉛になる。
―少年だった頃の、どこまでも軽い体はどこへやったのだろう。
降りしきる雨に叩かれ、うつむきながら歩く最中、誰かに呼ばれた気がした。ふと顔を上げると二十メートルほど先だろうか、道を何かが塞いでいた。目があまり良くなかった俺はこの時はまだ分からなかったが、近づいてみてはっきりした。―人だ。人が倒れている。こんな雨の中を人が倒れているなんて信じられず、困惑したが、とにかく助けなければと自転車を道路脇に停め、倒れている人影に駆け寄った。
「あのっ、大丈夫ですか!」
倒れていたのはずいぶんと若い女性だった。俺より二つ三つ下に見えるから、高校生ぐらいだろうか。
裾がほつれ、所々穴の開いた黒のジャージ姿で見つかった彼女は、横向けに倒れていた。肩程までの黒髪は、散らばった毛先が頭上の水たまりに着水していて、しかも、履いていた靴は明らかに男物。靴裏がめくれているせいで中の生足が少し見えている。一言で言うならホームレス。女性らしからぬ、見るも無惨な装いだった。
「どこか具合悪いですか!」
少し声を張ってみたが、返事がない。揺すっても起きないから意識は無いみたいだが、息はしている。こういう時は救急車を呼ぶもんだと、一一九番通報しようとして、肝心の携帯を持っていない事を思い出した。ここからだと病院は遠いし、周囲に人はいない。どうしたものかと頭を悩ませている内に、河川はいよいよ激流となって俺を急かした。当然だが彼女を放っておく事などできない。もし放置などしようものなら、最悪の場合、彼女は氾濫した河川の濁流に飲まれて、たちまち土左衛門となる。のちに下流で女性の水死体が見つかったとかニュースになったりなんかした日には、罪悪感で俺がショック死して墓穴二つ! 今日の運の悪さからして、あり得ない話ではないだろう。
―かつてない疲労感と、差し迫った状況が、俺から冷静な判断力を奪ったのだと、ここで言い訳しておこう。もはや帰りたい一心だった俺は、人生最大の過ちを犯す。
(……あぁ、もう、俺にどうしろってんだ! こうか!)
彼女を背中に担ぎ上げた後、人をおぶったままパンクした自転車を押して帰れないことを悟った俺は、愛車に別れを告げ、ようやく帰路についた。
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