Sunrise Devil in the rain

masa

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覚声1

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 ハンガーラックに吊された白の上着を手に取る。中は青のティーシャツだから、上からはおると丁度良い。丁度良い、とは、もちろん無難というニュアンスである。もう無理なファッションはしない。二度と田舎ヤンキーにはならない。
 夏に片足突っ込んだ外の様子を思い浮かべると、もはや靴下すら履きたくなかった。だが、サンダルを実家に置き去りにしたミスにより、あるのは赤のクロックスだが、これは服に合わないから却下。依然、靴下を探す必要性があった。
 おもむろに居間の襖を開けた。靴下とベルトは最後と決めている。脱衣所にベルトは見当たらなかった。靴下は全部丸めてタンスにしまってある。両方この部屋にあるな……、っと。
 部屋に踏み入った途端、足下に熱源体。まぁ、言わなくても分かるだろうが、朝日だ。薄いベージュのパジャマ姿で、頭を襖の方に向けて寝息を立てている。こいつには物置部屋を寝床として貸し与えていたが、個室に一人で寝るのは寂しいだのどうだのと、俺の寝室を兼ねるこの部屋に毎晩ノコノコとやって来る。不健全極まりない。夜中に俺が変な気を起こして、襲いでもしたらどうすると再三注意したが、当の本人は、
『優理にそんな事をする勇気は無い』
 眠たげにまぶたを擦って、半目でこんな事を言い出す始末。全てを見透かしたような言いぐさには遺憾を覚えたが、未だ襲った試しは無い。理性がしっかり働いて、朝日が寝付いた時を見計らって、ダイニングに出る。そして、平たい座布団を枕代わりに、硬いソファの上で夜を過ごす。何という気遣い、何というお人好し。
 気遣いの他にも、部屋を明け渡す理由がある。それは、ご覧の通り、同居人の寝相が悪いからだ。根城にしていたベッドから落下しても目覚めない深過ぎる眠りと、部屋の全てを地ならしするような寝返りローラー作戦は大層恐ろしく、これに巻き込まれたくないのが本心かも知れない。
 寝こけている分には構わない。起きていると、『どこ行くの』やら、『何時に帰る?』やら、母親っぽい事を言い出すに決まっている。野暮用の度にそんな会話していられない。さっさと靴下とベルトを回収して、寝ている間に外に出ちまおう。
 朝日を起こさないように、抜き足差し足忍び足の精神で、まず床に転がっていたベルトを金具の音に気を付けながら腰に巻いて、それからタンスを覗いて、地味な色合いの靴下を取って、そろっと履いた。アディダスの白黒のスニーカーに足を差し込んで、踵を踏んだままドアを開けると、乾いた熱気が全身を迎え入れた。
昼食を駅そばで済ませて、期限が今日までの定期を使って電車に乗り込む。

 ―二駅だから、十分もかからずに到着。自動ドアが開くと、「清流駅」と書かれた看板が目に入る。この駅で降りるのは二ヶ月ぶりのことだが、前回中島家でゲーム三昧した記憶がすでに曖昧になっていた。特に最近は、女拾ったり、そのせいで増やしたバイトに忙殺されたり、濃度の濃すぎる日々を送るはめになっていたから、薄味だった二ヶ月前なんて記憶からすっ飛んでいた。唯一ハッキリと覚えている事は、中島の部屋があらゆるゲームを完備しており、ゲーム好きには夢中になれる楽園だった事だ。ん? 神社だから、楽園じゃなくて極楽浄土? え、どっちでも良いって? 
 つまらない疑問が脳内を浮遊しているが、そんな事はお構いなしに階段を下りる。
最後の一段を左足から下りた時、背後から名を呼ばれた。
「優理!」
 澄み切った、良く通る声だった。
 俺を下の名で呼ぶ人間を瞬間的に思い浮かべる。家族か、大学の連中か、地元の知り合いか。そして、上記の誰とも当てはまらない、聞いた事の無いはずのこの声の主を、俺は知っていた。声は、自分勝手に作り上げたイメージに異様にフィットしていた。
 振り向きざま、流れるように彼女を想起した。確信に近いものがあった。見上げてすぐ、下降口からのまばゆい陽光を浴び、その中に人影を見つけた。麦わら帽子に白のワンピース。夏に映える服装の色白な女が、帽子を押さえ、黒髪をなびかせ、宙を舞っていた。
 鮮烈な光景に気持ちが追いつかず、全てがスローモーションに見え始める。ゆるやかに落下する女の姿が少しずつ大きくなるにつれて、大まかな落下地点の予測がつく。立ち尽くす俺に向かって、真っ直ぐ落ちてくる。このままだと衝突は避けられない。
 受け止めて貰えることを前提としたダイブに屈し、その乱暴な前提を許容した瞬間、特殊相対性理論の魔法は解け、せき止められていた時間が一挙に流れ出す。
「うぁっっ!」
 受け止める体勢すらろくに整えられないまま、全身に衝撃が伝わる。衝撃の度合いから察するに、かなり上段の方で踏み切ったのだろう。俺は支えきれずに倒れ、背中全体を地面に強打した。
「―っ!」
 ともすれば呼吸困難に陥る程の衝撃で、背中に張り巡らされた神経が、受けたダメージを量りかねていた。痛覚がいかれたのか、何も感じない。
 狙い通り全ての衝撃から守られた女は、仰向けになった俺に馬乗りになって言った。
「優理! 私、声が出せるようになった!」
 目を覗き込むように、馬乗りの彼女は俺の耳のそばに手を突いた。壁ドンならぬ、床ドンとでも言うべき体勢で、人目を気にする様子はない。後ろの方の髪が顔前に垂れて、数本は唇に毛先が当たっていた。すぐに指で払いのける。
「分かった、朝日、良かったな。でも、とりあえずのいてくれ、背中が痛い」
 彼女が立ち退くと、俺は上半身だけ起こして、ようやく痛み出した背中を手で擦った。
「あのなぁ、朝日……。嬉しいのは分かるけど、もっと平和な表現方法は無かったのか?」
 彼女は、俺の返答に納得いかない様子で、
「説教はお断りします」
 悪態ついて、反省の色を見せない。聞きたい事は山ほどあったが、先にため息をついて、立ち上がってから埃を払った。
 彼女はなおも不満そうにしていた。しかし、表情には別のテイストが加わった。
「嬉しく無いの?」
 彼女の、朝日の頭の中では、きっと今頃、お互いにハイタッチを繰り返し、笑い合うことで喜びを共有している絵が出来上がっていたのだろう。そうではないから不安を見せているのだと、鈍い俺でも分かった。
「いや、嬉しい、嬉しいに決まってる。ずっと心配してたんだ、本当に良かった、安心した」
 もっと素敵な言葉があったはずだが、早く伝えたくて、簡単な言葉を矢継ぎ早に吐き出すしか出来なかった。もどかしさが舌の上に残って、口が半開きのままでいる事に気付かなかった。
 朝日は何故だかうつむいて、麦わら帽子のつばを下げ、深く被り直した。表情を隠すようだった。身長差から、口元しか見えない。閉じていると思ったら、にわかに下唇から動いた。
「そっか、心配してくれてたんだ……」
 焦って漏らした本音を上手くキャッチされた。今まで心配する素振りを見せないようにしていただけに、気恥ずかしく、居たたまれない。
 照れた仕草は同じ感情を、空気をつたって他者へと伝播する。朝日は右手でワンピの袖を掴んでいる。ギュッと掴んでいるから、生地にシワが寄っている。左斜め上からの陽光は、微動だにしない体の陰影を際立たせ、スポットライトの役割を果たしていた。何かの舞台で、往年の名女優を相手取っている新人俳優のような気分だった。
 俺は視線を上に向け、まごついた口調で「えぇと」や、「まぁ、その」とつぶやいた。次のセリフが見つからないのか、頬をポリポリと掻く。もし監督がいたなら、カットの怒号とともに、すぐさま代役と交代させたような、稚拙な演技だったと思う。ぶつ切りに現れる無言の間は、間断なく響く蝉の鳴き声が埋めてくれていた。
 とは言え、これは映画でもドラマでも舞台でも無く、現実だ。もとより台本なんて無い訳だから、筋書き通りに行かなくて当然。現場の独断で場所を移しても構わないはずだ。
「ここで立ち話も難だから、とりあえず外に出よう」
 朝日はせっかく話せるようになったというのに、黙りこくったまま、首を縦に振った。俺が先導して、改札を抜ける。
(あれ? そう言えばアイツ、どうやって……)
 振り向くと、朝日が俺の背にピッタリと張り付いていた。
「おい、朝日、お前まさか……」
 麦わら帽子のつばを人差し指で小さく持ち上げ、自ら表情を晒す。アインシュタインさながらのいたずらな舌出しフェイスで俺の疑いにイエスと答える。
 ―朝日は無賃乗車をしていた。小遣いなどいらんと言って金銭を一切受け取らなかった奴が駅内にいることは、ちゃんちゃらおかしな話だったのだ。これを本格青春映画のワンシーンだというのは不適切で、三流コメディドラマのオチならばしっくり来る。コメディなら、俺の大根役者っぷりは最適だったろう。
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