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ハッピーバースデー1
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明くる日曜、携帯の通知音で目が覚める。バイト先からのメール。今週の日曜空いてませんか、だって? そりゃこっちだって空いてませんと即答してやりたい。だが、俺の指先は意思とは真逆の返答をするべくいそいそと画面をスクロールした。空いてます、っと、送信。
図らずも五連勤が確定したのは、時刻にして朝九時四十分のことだった。前日の夜にわざわざ置き時計のアラームを解除し、早起き魔に起こさないでと言って安眠を確保したつもりだったが、詰めが甘かった。携帯は電源ごと切らなきゃ駄目か。
「……働きたくねぇ」
愛しの掛け布団にくるまって、現実逃避の呪文を唱える。これは今週だけのことじゃない。夏休みの間、いや、多少頻度が上下しようとも、延々と続いていく。就職してもこんな感じだろうな。
今日は丸一日休みだというのに、明日から入るバイトの事が気になって心置きなく休めない。加えて、節電のためにクーラーを切った蒸し暑い部屋は、寝汗をかいた俺を布団から追い出そうとしている。この部屋には、俺の味方はいないらしい。
渋々布団から這い出て起き上がる。何となく空気が薄いような感じがする。新しい空気を求めて襖の隙間に手をかける。隙間からは珈琲の香りがした。
《スッ―タンっ》
勝手知ったる我が家の襖を開くと、ソファの上でいつものように体育座りをした同居人と目が合った。手にはマグカップを持っている。
「やぁ」
同居人の朝の挨拶を聞いたのは、これが初めてだった。昨日まで声を失っていたのだから当然だが、二人での共同生活に慣れた頃合いには新鮮だった。
「今日も早いな」
「いや、これは優理が遅いよ」
「そうか? 休日だし、普通こんなもんだろ」
俺は冷蔵庫から牛乳を取り出し、洗浄済みのプラスチック製コップに容量一杯にそそぐ。目標の百七十五センチまであと二センチと迫った俺は、誰よりも牛乳の成長促進効果を信じていた。毎朝の日課である。
台所で飲んで、臆面も無くげっぷして、口を袖で拭った。紳士を謳い、良い格好をしようとしたのは最初の三日ぐらいのもので、今は寝癖まみれで安物のパジャマを着込んだ、冴えない男が品の悪い事をしているだけだ。女からすれば気に障るらしく、睨まれ、小さく手を上げてすまん、と視線をそらした。
「優理はもっと早く起きるべきだ」
朝日はマグカップを傾け、中のもの―おそらく珈琲―をすする。
「二度寝がたまらないんだな、これが」
全国の学生一同の声を代弁するように言った。いや、これでは語弊があるな。全国のダメ学生一同だったか。
朝日は口を尖らせ、時計を指差した。
「私と比べて、優理は五時間も人生を無駄にしている」
時計の中の鳩のギミックが十時を知らせる鳴き声を上げていた。俺は朝日の指摘に絶対的な欠陥があると知っていて、もちろん反論した。
「五時に起きてるお前と比較されても困る」
ウチの祖父母並みに早起きで、しかし深夜まで俺のパソコンで難解な論文を読み倒してる朝日は統計学的には外れ値なわけで、比較対象として適当とは言えない。
「てゆーか、そんな早くに起きて何やってんだ」
朝日は体育座りのまま足を組み替えて、人差し指を顎先にあてた。
「町内を散歩した後、公園でラジオ体操に参加して、帰ったら本読んで、珈琲飲んでまったりと……」
食卓の上には一冊の小説が置かれていた。薄い本の背表紙には、日本語や英語では無い言語でタイトルが記されていた。図書館から借りてきたという。
朝日の生態はまるで老婆のようだ。今時の若い女ではあり得ない朝の過ごし方を聞かされ、俺は唖然としていた。
「やってる事が年寄り臭いけど、そんなので良いのか」
「失敬な、私はまだティーンよ」
「今年で最後だが」
「うっ……、私は永遠の十九歳としてこれからも……」
「三年もすれば苦しい言い訳になるな」
「わ、私なら五年はもつ!」
サッシ窓から差す穏やかな光は丁度ソファの辺りまで伸びて、朝日を明るく照らしている。見慣れたはずの同居人の顔は、影が濃度を増して、いつもと違って見える。
「お前の永遠は五年なのか?」
「……揚げ足取らないでよ」
違って見えるけれど、中身はいつも通り。諸々の妙な点に目をつむってしまえば、どうと言うことはない、普通の女の子だ。もっとも、いつまで目をつむっていられるかは別の問題だが。
朝日はキツい目つきでこちらを見ている。揚げ足を取られた不満をその鋭い眼光に乗せ、ぶつけてくる。しかし、思いのほか平気で見返す事が出来た。数ヶ月間この無言の視線に晒されている身としては、いい加減慣れてきたということだろうか。
「朝日」
「何?」
「本当に声出せるようになったんだよな」
家政婦は健やかに笑った。
「うん、今日も順調に話せてる」
「……そりゃ良かった」
彼女の表情は明るい。出来ることなら、その表情を崩したくない。
「そうそう、明日からのことなんだけどな」
「金曜までずっと帰りが遅くなりそうなんだ。だから、晩飯は先に食べてくれたら良い」
言った途端に朝日の顔が曇った。さりげなく話しても、大事なことは聞き逃さないし、流してくれない。
「やっぱり、バイト忙しいんだ……」
「ん、まぁ、そんなとこだ」
察しの良い居候は、事情を把握した上で尋ねた。
「私に働けって言わないのは、なぜ?」
「いや、お前には家のことを全部やって貰ってんだから、これ以上働かせるのもあれかなって」
懐疑的な、偽りを暴く目が、真っ直ぐ俺を捉えていた。
「別に、働きに出たいなら、それでも良いんだぞ。ある程度貯金が出来たら、どっか部屋借りて、一人暮らしだって出来る、そうなったら、晴れて居候卒業だ」
―そうだ、朝日はもう話せる、きっと働ける。昼間にバイトしてくれるなら、家に少し金を入れて貰えるかもしれないし、朝日の方にも貯金が出来て、将来的な自立に繋がる。家事だってちょっと前までは一人でやってたんだ。朝日がこの部屋を出る事になっても、生活できるはずだ。どう考えても、俺が働き詰めになる必要はない。でも―
朝日はたまたま俺に拾われたにすぎない。つまり、赤の他人である俺と共同生活を続ける義理なんて、実はどこにも無い。この揺るぎない事実は一つの強迫観念となって、俺を惑わせた。
「嫌だ」
良く通る鮮明な声色に、嫌悪感が少量混じったような言葉だった。どういう意味なのかハッキリしないが、俺は自分にとって最も都合の良い解釈をした。すると、頭の中で絡まったあらゆる葛藤が瞬時に霧散した。
「そうか」
この話をすると何となく空気が悪くなるような気がしていたから、俺はそれ以上何も言わず、短く業務連絡を終了させた。続く言葉は日常的なものだった。
「優理、汗すごい」
「え? あぁ」
まだ寝間着が汗で張り付いている。リビングに出ても暑いから、汗をかいて、期待したほど乾かない。寝癖で前髪が上に跳ね上がっていて、額から小さく発汗していた。
使用人はソファから立ち上がって、すぐに隣部屋から白のタオルを一枚持ってきてくれた。
「わざわざどうも」
受け取って額を拭い、上着の下から入れて中の汗も拭き取った。俺が食卓椅子に座ると、朝日も向かいの椅子に着いた。
「またクーラー切って寝たんでしょ」
「おうよ、電気代がもったいないからな」
朝日はいつも占拠している居間ではなく、リビングで夜を明かしていた。クーラーを切った居間より、リビングの方が涼しいからだ。リモコンは俺が没収した。足下でオンボロの扇風機が壊れそうな音で回っている。見ればこの女、設定を強にしてやがる。
「弱で十分だ」
足の指でボタンを押して設定を切り替える。
「優理、暑いの苦手なのに……」
「どうってことねーよ」
俺としては生活の知恵というか、節電のスタンダードを述べたつもりだったが、朝日はそう思わなかった。徐々に、しかし着実に生活の端々が落ちぶれて行く事が金銭的な困窮を臭わせ、今までの生活スタイルに無理があった事を明確にするだけだった。
「今年の夏は、ものすごく暑いんだから、働いちゃダメだよ」
「優理は暑さに特別弱いんだ、体が持たないよ」
女の切実な表情を間近で見た。男が働くことを引き止める世にも奇妙な女の表情だ。
「大丈夫、持つよ」
軽いノリで言うと、それは逆鱗に触れた。食卓が強く叩かれる。
「持たない! 強がらないで!」
「お、大げさだなぁ……、心配ないって」
いくら目くじらを立てようとも、頑なに意見を変えようとしない。そんな雇用主にしびれを切らしたのか、ついにうなだれて、朝日は独り言をつぶやくようになった。どもった感じで、聞き取りにくいが、何か自問自答しているように見えた。自分に問いかける度に等幅で頭を横に振って、まるで壊れたロボットのように無機的な気配があった。頭を悩ませる、といった人的なものではなく、自己修復プログラムの作成に時間がかかっているみたいで、見ていてあまり良い気持ちはしなかった。
朝日は気の済むまで小言を吐いた後、ピタリと止った。そこから左右の手のひらを一気に丸めて、髪をくしゃっと掴んで、こう言った。
「許せない」
俺が働くことに何の許しがいるんだ。
「何が許せないって?」
俺は頬杖を突いて、眠そうに問う。
ばらついた前髪の隙間から、見覚えのある瞳が俺を覗いた。
「一緒にいられない夏休みなんて、認めない」
なんだか主旨が違ってきている。働くのを必死に引き止めるのは、俺の体調面を心配してのことじゃなかったか。
朝日は静かに立ち上がり、居間へ戻った。それからすぐに戻ってきた。後ろ手に何か持っている。
「昨日言ってた特効薬を持ってきた」
特効薬……、そう言えば。
「滅入った気分を良くしてくれるってやつか」
冗談で言ったように思っていた。だが、
「気分だけじゃない。優理が将来的に直面する全ての困難を解消する特効薬」
……ますます冗談めいてきた。
「いかがわしいことこの上ないな」
一般に、そんな都合の良いものはこの世界に存在しない。もしそんなものがあるなら、とっくに世界平和は実現されているだろう。
「そこまで言うなら、見せてみろよ、その特効薬とやらを」
―朝日は冷笑した。昨日駅前で見せたあの表情。
「Happy Birthday,Yuri」
いたく流暢な発音で誕生日を祝って、朝日は隠していたある物を差し出した。
図らずも五連勤が確定したのは、時刻にして朝九時四十分のことだった。前日の夜にわざわざ置き時計のアラームを解除し、早起き魔に起こさないでと言って安眠を確保したつもりだったが、詰めが甘かった。携帯は電源ごと切らなきゃ駄目か。
「……働きたくねぇ」
愛しの掛け布団にくるまって、現実逃避の呪文を唱える。これは今週だけのことじゃない。夏休みの間、いや、多少頻度が上下しようとも、延々と続いていく。就職してもこんな感じだろうな。
今日は丸一日休みだというのに、明日から入るバイトの事が気になって心置きなく休めない。加えて、節電のためにクーラーを切った蒸し暑い部屋は、寝汗をかいた俺を布団から追い出そうとしている。この部屋には、俺の味方はいないらしい。
渋々布団から這い出て起き上がる。何となく空気が薄いような感じがする。新しい空気を求めて襖の隙間に手をかける。隙間からは珈琲の香りがした。
《スッ―タンっ》
勝手知ったる我が家の襖を開くと、ソファの上でいつものように体育座りをした同居人と目が合った。手にはマグカップを持っている。
「やぁ」
同居人の朝の挨拶を聞いたのは、これが初めてだった。昨日まで声を失っていたのだから当然だが、二人での共同生活に慣れた頃合いには新鮮だった。
「今日も早いな」
「いや、これは優理が遅いよ」
「そうか? 休日だし、普通こんなもんだろ」
俺は冷蔵庫から牛乳を取り出し、洗浄済みのプラスチック製コップに容量一杯にそそぐ。目標の百七十五センチまであと二センチと迫った俺は、誰よりも牛乳の成長促進効果を信じていた。毎朝の日課である。
台所で飲んで、臆面も無くげっぷして、口を袖で拭った。紳士を謳い、良い格好をしようとしたのは最初の三日ぐらいのもので、今は寝癖まみれで安物のパジャマを着込んだ、冴えない男が品の悪い事をしているだけだ。女からすれば気に障るらしく、睨まれ、小さく手を上げてすまん、と視線をそらした。
「優理はもっと早く起きるべきだ」
朝日はマグカップを傾け、中のもの―おそらく珈琲―をすする。
「二度寝がたまらないんだな、これが」
全国の学生一同の声を代弁するように言った。いや、これでは語弊があるな。全国のダメ学生一同だったか。
朝日は口を尖らせ、時計を指差した。
「私と比べて、優理は五時間も人生を無駄にしている」
時計の中の鳩のギミックが十時を知らせる鳴き声を上げていた。俺は朝日の指摘に絶対的な欠陥があると知っていて、もちろん反論した。
「五時に起きてるお前と比較されても困る」
ウチの祖父母並みに早起きで、しかし深夜まで俺のパソコンで難解な論文を読み倒してる朝日は統計学的には外れ値なわけで、比較対象として適当とは言えない。
「てゆーか、そんな早くに起きて何やってんだ」
朝日は体育座りのまま足を組み替えて、人差し指を顎先にあてた。
「町内を散歩した後、公園でラジオ体操に参加して、帰ったら本読んで、珈琲飲んでまったりと……」
食卓の上には一冊の小説が置かれていた。薄い本の背表紙には、日本語や英語では無い言語でタイトルが記されていた。図書館から借りてきたという。
朝日の生態はまるで老婆のようだ。今時の若い女ではあり得ない朝の過ごし方を聞かされ、俺は唖然としていた。
「やってる事が年寄り臭いけど、そんなので良いのか」
「失敬な、私はまだティーンよ」
「今年で最後だが」
「うっ……、私は永遠の十九歳としてこれからも……」
「三年もすれば苦しい言い訳になるな」
「わ、私なら五年はもつ!」
サッシ窓から差す穏やかな光は丁度ソファの辺りまで伸びて、朝日を明るく照らしている。見慣れたはずの同居人の顔は、影が濃度を増して、いつもと違って見える。
「お前の永遠は五年なのか?」
「……揚げ足取らないでよ」
違って見えるけれど、中身はいつも通り。諸々の妙な点に目をつむってしまえば、どうと言うことはない、普通の女の子だ。もっとも、いつまで目をつむっていられるかは別の問題だが。
朝日はキツい目つきでこちらを見ている。揚げ足を取られた不満をその鋭い眼光に乗せ、ぶつけてくる。しかし、思いのほか平気で見返す事が出来た。数ヶ月間この無言の視線に晒されている身としては、いい加減慣れてきたということだろうか。
「朝日」
「何?」
「本当に声出せるようになったんだよな」
家政婦は健やかに笑った。
「うん、今日も順調に話せてる」
「……そりゃ良かった」
彼女の表情は明るい。出来ることなら、その表情を崩したくない。
「そうそう、明日からのことなんだけどな」
「金曜までずっと帰りが遅くなりそうなんだ。だから、晩飯は先に食べてくれたら良い」
言った途端に朝日の顔が曇った。さりげなく話しても、大事なことは聞き逃さないし、流してくれない。
「やっぱり、バイト忙しいんだ……」
「ん、まぁ、そんなとこだ」
察しの良い居候は、事情を把握した上で尋ねた。
「私に働けって言わないのは、なぜ?」
「いや、お前には家のことを全部やって貰ってんだから、これ以上働かせるのもあれかなって」
懐疑的な、偽りを暴く目が、真っ直ぐ俺を捉えていた。
「別に、働きに出たいなら、それでも良いんだぞ。ある程度貯金が出来たら、どっか部屋借りて、一人暮らしだって出来る、そうなったら、晴れて居候卒業だ」
―そうだ、朝日はもう話せる、きっと働ける。昼間にバイトしてくれるなら、家に少し金を入れて貰えるかもしれないし、朝日の方にも貯金が出来て、将来的な自立に繋がる。家事だってちょっと前までは一人でやってたんだ。朝日がこの部屋を出る事になっても、生活できるはずだ。どう考えても、俺が働き詰めになる必要はない。でも―
朝日はたまたま俺に拾われたにすぎない。つまり、赤の他人である俺と共同生活を続ける義理なんて、実はどこにも無い。この揺るぎない事実は一つの強迫観念となって、俺を惑わせた。
「嫌だ」
良く通る鮮明な声色に、嫌悪感が少量混じったような言葉だった。どういう意味なのかハッキリしないが、俺は自分にとって最も都合の良い解釈をした。すると、頭の中で絡まったあらゆる葛藤が瞬時に霧散した。
「そうか」
この話をすると何となく空気が悪くなるような気がしていたから、俺はそれ以上何も言わず、短く業務連絡を終了させた。続く言葉は日常的なものだった。
「優理、汗すごい」
「え? あぁ」
まだ寝間着が汗で張り付いている。リビングに出ても暑いから、汗をかいて、期待したほど乾かない。寝癖で前髪が上に跳ね上がっていて、額から小さく発汗していた。
使用人はソファから立ち上がって、すぐに隣部屋から白のタオルを一枚持ってきてくれた。
「わざわざどうも」
受け取って額を拭い、上着の下から入れて中の汗も拭き取った。俺が食卓椅子に座ると、朝日も向かいの椅子に着いた。
「またクーラー切って寝たんでしょ」
「おうよ、電気代がもったいないからな」
朝日はいつも占拠している居間ではなく、リビングで夜を明かしていた。クーラーを切った居間より、リビングの方が涼しいからだ。リモコンは俺が没収した。足下でオンボロの扇風機が壊れそうな音で回っている。見ればこの女、設定を強にしてやがる。
「弱で十分だ」
足の指でボタンを押して設定を切り替える。
「優理、暑いの苦手なのに……」
「どうってことねーよ」
俺としては生活の知恵というか、節電のスタンダードを述べたつもりだったが、朝日はそう思わなかった。徐々に、しかし着実に生活の端々が落ちぶれて行く事が金銭的な困窮を臭わせ、今までの生活スタイルに無理があった事を明確にするだけだった。
「今年の夏は、ものすごく暑いんだから、働いちゃダメだよ」
「優理は暑さに特別弱いんだ、体が持たないよ」
女の切実な表情を間近で見た。男が働くことを引き止める世にも奇妙な女の表情だ。
「大丈夫、持つよ」
軽いノリで言うと、それは逆鱗に触れた。食卓が強く叩かれる。
「持たない! 強がらないで!」
「お、大げさだなぁ……、心配ないって」
いくら目くじらを立てようとも、頑なに意見を変えようとしない。そんな雇用主にしびれを切らしたのか、ついにうなだれて、朝日は独り言をつぶやくようになった。どもった感じで、聞き取りにくいが、何か自問自答しているように見えた。自分に問いかける度に等幅で頭を横に振って、まるで壊れたロボットのように無機的な気配があった。頭を悩ませる、といった人的なものではなく、自己修復プログラムの作成に時間がかかっているみたいで、見ていてあまり良い気持ちはしなかった。
朝日は気の済むまで小言を吐いた後、ピタリと止った。そこから左右の手のひらを一気に丸めて、髪をくしゃっと掴んで、こう言った。
「許せない」
俺が働くことに何の許しがいるんだ。
「何が許せないって?」
俺は頬杖を突いて、眠そうに問う。
ばらついた前髪の隙間から、見覚えのある瞳が俺を覗いた。
「一緒にいられない夏休みなんて、認めない」
なんだか主旨が違ってきている。働くのを必死に引き止めるのは、俺の体調面を心配してのことじゃなかったか。
朝日は静かに立ち上がり、居間へ戻った。それからすぐに戻ってきた。後ろ手に何か持っている。
「昨日言ってた特効薬を持ってきた」
特効薬……、そう言えば。
「滅入った気分を良くしてくれるってやつか」
冗談で言ったように思っていた。だが、
「気分だけじゃない。優理が将来的に直面する全ての困難を解消する特効薬」
……ますます冗談めいてきた。
「いかがわしいことこの上ないな」
一般に、そんな都合の良いものはこの世界に存在しない。もしそんなものがあるなら、とっくに世界平和は実現されているだろう。
「そこまで言うなら、見せてみろよ、その特効薬とやらを」
―朝日は冷笑した。昨日駅前で見せたあの表情。
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