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第九十六話
無明
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静寂の中に響きる深みのある声は、コンコンと静かに湧き出でる泉を思わせた。
「……元国王の正妻である私の母は、美しくそして非常に誇り高い人だった。元国王が男女を問わず無数に浮き名を流しても、取り乱す事もなく、夫をなじる事もせず常に落ち着いて笑顔を絶やさなかった。『出来た女性、完璧な后』と周りからも評された。けれども、ラディウスが生まれてからは、少しずつ焦燥感に駆られていくように見えた。それは、表では決して見せなかったけれども。ある時、我ながらよく出来たと思った風景画を母上に見せようとした時、部屋に入るのを侍女に止められた。不審に思い、制止を振り切ってドアの隙間から覗くと……。そこには憔悴し切って咽び泣く母親の姿があった。衝撃だった。その時は理由がよく分からなかったが、時々人払いをして鬱積した感情を露わにしている事を知ると、少しずつその理由を肌で感じるようになっていった。それに比例するかのように、以前から厳しくしつけられてきた事が更に厳しいものになっていった。……正妻として第一王子を産んだ事を唯一の心の拠り所といていたのだろう」
父上ではなく、元国王と呼ぶところに深い溝と闇を感じる。淡々と語る事で、却って生々しい程にその時の状況が想像出来た。目に浮かぶようだ。王太子殿下によく似た、氷の美貌の美女が誇り高く凛然と立っている姿が……。
「元国王は、男女を問わず数多の側室、愛人を持ったが、中でもクレメンス……ラディウスの母親を溺愛した。その息子のラディウスに跡を継がせようと、我が母と私を亡き者にしようと目論んだ……」
そんな! あからさまに!?
「私たちに仕えていた筈の従者たちは、保身を出世、そして私たちへの忠誠を秤にかけて保身と出世を選んだ」
「……そんな……」
誰一人、残らなかったなんて……言葉にならない。そんな状況からここまでくるのに、どれだけの屈辱と辛さを……想像するだけで、胸が潰れそうだ。
「ただ一人の従者を除いて、皆クレメンス側に寝返った」
王太子殿下は寂しそうに笑った。もしかして……
「……その、ただ一人の従者って……」
「そう、リアンだ」
やっぱり……
「奴は私の教育係りだったからな。……そんな顔するな」
俺は相当に悲痛な顔をしていたのだろう。王太子殿下は右手で俺の頭を軽くポンポンと叩き、そして撫でた。
「確かに、幽閉され長く過酷な闘いだったけれど、母上と私、そしてリアン。少数精鋭だ、母上は少し体調を崩されたり、という事もあったがな……」
再度、月光を湛えた瞳に影が差す。言葉には出来ない事が色々とあったのだろう。皇后の心中を思えば……察するに余りある。そう言えば、皇后は今どうされているのだろう? 勿論、聞く事は出来ないけれど……
「しおらしく言いなりになるふりをしながら水面下でまずは国民に真実の噂を流し、同情をかうことから始めた。少しじつ外堀を固めていく作戦が功を成し、今私はここにいる。元国王があのようになった。跡を継ぐのは私だ」
気高く微笑む彼は、生まれながらにして王の気質を備えているのだと思う。手を繋いでいるから跪けないけれど、自然に右足を引いて左手を胸につけ頭を下げていた。この方はもう、王太子殿下ではなく国王陛下になられるのだ。
「戴冠式は十日後だ。出席してくれるな?」
この上なく、優しい眼差し。
「はい! 身に余る光栄に存じます」
と即答した。皇后と王太子殿下とリアンの三人だけで闘い続けるのは、想像を絶する程過酷なものだったに違いない。ほんの少し、リアンに思いを馳せる……。
「……気が滅入りそうになると、ここに来て竹林と芒の群れを眺めたものだ。今でも、ここは私のお気に入りの場所だ。気分転換に来たりしている」
そう言って、再び天を仰いだ。その横顔は、とても柔和で穏やかだった。サヤサヤと風に靡く竹林の音が耳に心地良い。俺自身もここに居ると、自然からの力を分けて貰えるような気がした。
「……元国王の正妻である私の母は、美しくそして非常に誇り高い人だった。元国王が男女を問わず無数に浮き名を流しても、取り乱す事もなく、夫をなじる事もせず常に落ち着いて笑顔を絶やさなかった。『出来た女性、完璧な后』と周りからも評された。けれども、ラディウスが生まれてからは、少しずつ焦燥感に駆られていくように見えた。それは、表では決して見せなかったけれども。ある時、我ながらよく出来たと思った風景画を母上に見せようとした時、部屋に入るのを侍女に止められた。不審に思い、制止を振り切ってドアの隙間から覗くと……。そこには憔悴し切って咽び泣く母親の姿があった。衝撃だった。その時は理由がよく分からなかったが、時々人払いをして鬱積した感情を露わにしている事を知ると、少しずつその理由を肌で感じるようになっていった。それに比例するかのように、以前から厳しくしつけられてきた事が更に厳しいものになっていった。……正妻として第一王子を産んだ事を唯一の心の拠り所といていたのだろう」
父上ではなく、元国王と呼ぶところに深い溝と闇を感じる。淡々と語る事で、却って生々しい程にその時の状況が想像出来た。目に浮かぶようだ。王太子殿下によく似た、氷の美貌の美女が誇り高く凛然と立っている姿が……。
「元国王は、男女を問わず数多の側室、愛人を持ったが、中でもクレメンス……ラディウスの母親を溺愛した。その息子のラディウスに跡を継がせようと、我が母と私を亡き者にしようと目論んだ……」
そんな! あからさまに!?
「私たちに仕えていた筈の従者たちは、保身を出世、そして私たちへの忠誠を秤にかけて保身と出世を選んだ」
「……そんな……」
誰一人、残らなかったなんて……言葉にならない。そんな状況からここまでくるのに、どれだけの屈辱と辛さを……想像するだけで、胸が潰れそうだ。
「ただ一人の従者を除いて、皆クレメンス側に寝返った」
王太子殿下は寂しそうに笑った。もしかして……
「……その、ただ一人の従者って……」
「そう、リアンだ」
やっぱり……
「奴は私の教育係りだったからな。……そんな顔するな」
俺は相当に悲痛な顔をしていたのだろう。王太子殿下は右手で俺の頭を軽くポンポンと叩き、そして撫でた。
「確かに、幽閉され長く過酷な闘いだったけれど、母上と私、そしてリアン。少数精鋭だ、母上は少し体調を崩されたり、という事もあったがな……」
再度、月光を湛えた瞳に影が差す。言葉には出来ない事が色々とあったのだろう。皇后の心中を思えば……察するに余りある。そう言えば、皇后は今どうされているのだろう? 勿論、聞く事は出来ないけれど……
「しおらしく言いなりになるふりをしながら水面下でまずは国民に真実の噂を流し、同情をかうことから始めた。少しじつ外堀を固めていく作戦が功を成し、今私はここにいる。元国王があのようになった。跡を継ぐのは私だ」
気高く微笑む彼は、生まれながらにして王の気質を備えているのだと思う。手を繋いでいるから跪けないけれど、自然に右足を引いて左手を胸につけ頭を下げていた。この方はもう、王太子殿下ではなく国王陛下になられるのだ。
「戴冠式は十日後だ。出席してくれるな?」
この上なく、優しい眼差し。
「はい! 身に余る光栄に存じます」
と即答した。皇后と王太子殿下とリアンの三人だけで闘い続けるのは、想像を絶する程過酷なものだったに違いない。ほんの少し、リアンに思いを馳せる……。
「……気が滅入りそうになると、ここに来て竹林と芒の群れを眺めたものだ。今でも、ここは私のお気に入りの場所だ。気分転換に来たりしている」
そう言って、再び天を仰いだ。その横顔は、とても柔和で穏やかだった。サヤサヤと風に靡く竹林の音が耳に心地良い。俺自身もここに居ると、自然からの力を分けて貰えるような気がした。
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