「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第四十一帖 二つの華

【第弐部】 狭間・前編

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 996年師走。痺れるような冷たさに冴え渡る空気、そして純白の大地に包まれる頃……。

「定子様のご出産、予定よりも大幅に遅れて十二月十六日に無事御生まれになったそうよ」
「定子様も御子様……脩子内親王様も御無事無事で本当に良かったわ」
「御出産が大幅に遅れてしまわれたのは、十月に定子様の母上様である貴子様が御逝去されてしまわれた衝撃と心労もあおりかと思うのよ」
「ええ、その通りかと。庶民やら無関係な人たちは『懐妊十二月』、なんて噂してた、て話よ」

 まだ清少納言が戻ってきて居ない頃の事である。文壇の女房たちは、詰所で鳳仙花に爪と指先の手入れをして貰っていた。

「全く! 噂話ってあっと言う間に広がっちゃうから……」
「本当よね! 少しは考えて欲しいわ」
「同感です」

……ていうか、自分たちもその批判している人と同じ事をしてるのに。自分の事、て案外気付かないものなのよね。でもここ、特に筒抜けになるから控えた方が良いと思うんだけどなぁ。御簾を二枚挟んだお隣は、陰陽師の方々の控え室だから……

 鳳仙花は思った。けれども敢えて指摘はしない。彼女たちも十分に分かっている筈だからである。

「そう言えば聞いた話なのだけど。掃司に入ってきたばかりの新人りがね、先輩女房に生意気な口を聞くのですって!」
「まぁ、最近の若い方たちって私たちの時は考えられないような事をする傾向にありません?」
「あ、そうそう。それ思いました」
「若さ故の怖いもの知らず、と言うか。それにしても……ねぇ」(※①)
「酒司の部署の新人りも……」

 興奮した女房たちは益々声が大きくなっていく。

……お隣の陰陽師の方たち、いらっしゃる時はいつも静かに息を潜めらして。どんな思いで噂話や悪口を聞いてるのだろう? いらっしゃる時は皆さん、いつもひっそりと無言で。まるで置物になったみたいに静かにしてらっしゃるみたいだけど。あ! もしかして無になる修行の場になってたりして!……

 我ながらその考えは言いあて妙だと可笑しくなった。勿論、表面上は黙々と施術に集中している。

「それにしても、定子様。男の子を御生みになれれば安泰でしたのに……」

 女房の一人が、声を落としてぽつりと言った。

「確かに。今のままでは……」

 一気にその場の空気が湿ってどんよりとしたものへと変わる。お目出度い事には違いないのだが、後ろ盾のない定子にとって、帝の世継ぎを産む事が出来ればその地位は確固たるものとなるのだ。

……女が一人で生き抜くのって、どんな地位の人でも大変だなぁ……

 鳳仙花はしみじみと思うのだった。



 それから季節は巡り、桜の花がはらはらと散り始める頃……。

パタパタと渡殿を急ぐ足音が文壇に近づく。

「み! 皆さん!」

 息せき切って入って来た女房は興奮で頬を上気させ、喜々とした笑みを浮かべている。

「な、何?」
「どうしたの?」

 女房たちは文壇で双六をするもの、和歌を詠み合うもの、貝合かいあわせをするものに分かれ、知識を磨きあっていた。鳳仙花はそんな中、手がはなせる女房たちに手首から指先を揉みほぐす施術を行っていた。

「来月……四月に伊周様と隆家様が戻ってらっしゃるって!」
「その情報は確かなの?」
「勿論! 道長様が頭中将様とお話されているのを見たの。私の他にも女蔵人にょくろうどもたまたま一緒に見ていたの。特に何もおっしゃらなかったから、すぐに正式な発表になると思うわ」
「まぁ! それは良かった!」

……あぁ、良かった……

 場は一気に喜びの声に包まれる。

……これで、定子様も少しは安心されるかしら。それにしても、頭中将様、すっかり道長様の飼い犬ね……

 鳳仙花はホッと胸を撫で下ろすのと同時に微かな不快感も覚える。

「それだけじゃないわ!」

 女房は興奮醒めやらぬ感じだ。「何?」と女房たちは再び一斉に注目する。

「御門が、定子様を後宮に呼び戻すのですって! 場所を整えて、六月頃になるらしいわ」
「えー? でも定子様は出家されているから戻るのは難しいのでは……」

 鳳仙花も女房たちも同意見だ。

「そうなんだけどね、還俗(※②)させるそうよ!」
「素敵! やっぱり御門の愛は本物だったのね!」

 文壇は大いに盛り上がるのだった。

……何だろう? 手放しでは喜べない気がするのは……

 帝の愛の強さに感動しつつも、何故か漠然とした鳳仙花は胸騒ぎがしするのであった。そして、そろそろ控え室
に戻って磨爪術の道具の手入れや整頓をしようと文壇の女房たちに軽く挨拶をして部屋を出る。施術道具を整えてに控え室へと向かった。

「あの! もし? 鳳仙花殿ではありませんか?」

……この声は!……

 聞き覚えのある鼻にかかったような猫撫で声が背後に響く。ゆっくりと降り返ると、

「頭中将様……」

 予想した人物が束帯装束を身に着け、人の良さそうな笑みを浮かべて立っていた。更に、驚く事に彼の背後には

「藤原道長様!」

 鳳仙花は目を大きく見開き、驚きのあまり思考が停止した。





(※① 実際に、このような傾向はあったようである。「枕草子の第二五段」にも書かれている)
(※② 僧から一般に戻す事をさす)
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