「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第四十九帖 紫雲と藤花

薄月

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 鳳仙花は息を止め、長めの針のように細い二本の竹を操り、爪紅の液を沁み込ませた布を爪の上に乗せる。そして爪の形に沿って二本の竹でなぞるようにして爪を染めていく。素早く、されど丁寧にそして慎重に。向かい合う者の右手の小指に始まり、左手の小指に至るまで。そして再度、右手の小指から二度塗りをしていく。

 彰子は両手を鳳仙花に委ね、目を細めて自らの爪が紅に染まっていく様を見ていた。小さな朱の唇は終始穏やかに綻び、器用に細い竹を操る鳳仙花に尊敬の念を抱きつつ。流れるような黒髪が、紅から桃色の濃淡、白を重ねた桜の襲によく映える。緑から黄緑の濃淡、白を重ねた柳の襲を身に着けた鳳仙花と対照的である。室内に漂う梅花と沈香が混じり合ったような、落ち着いた甘さを持つ香りが心地よい。

「これで完了でございます。完全に乾くのを今しばらくお待ち下さいませ」

 鳳仙花は軽く頭を下げた。今宵、彰子の裳着の儀が行われる。東三条院詮子からは装束二具、太皇太后宮より額飾り、中宮定子からは香壺が。東宮より馬一疋など、非常に豪華で華美な宴になる事が予想された。

 彰子はホーッと溜息をつき、恍惚として爪を見つめている。

「何て美しいのでしょう! まるで生まれた時からこのお色だったみたいに自然な、透き通るようなくれないですこと」

 満足そうに微笑む。

「恐れ入ります」

 鳳仙花は丁寧に頭を下げた。

……十二歳で裳着の儀式、私の時と同じだけど……

 目の前の姫君をさり気なく見つめる。こうしてみると淑やかな美女という言の葉がしっくりくる、と鳳仙花は思う。派手さはないが、内側から柔らかな光が滲み出てくるようなしっとりとした魅力があった。何よりも人目を惹き、ハッとさせるのは涼やかな二眸である。透き通るような澄んだ漆黒の瞳は聡明な光を湛え、思慮深さと賢さが窺い知れるのだ。

……私より三歳年下でいらっしゃるのに、何だか私の方が子供というか、ろうたけた美人という感じね。それにしても……

 裳着の儀式が終了次第、すぐに入内して来るであろう事は誰の目にも明らかだった。鳳仙花は思う。

……定子様の心中は、如何に……

 誇り高く堂々と上等の品を贈り届けた定子の事を思うと、胸が詰まる。

……道長様は焦ってらっしゃるのだわ! 定子様に新しい命が宿って、それがもし皇子だったら、てね……

 だが、今は目の前の姫君に集中すべき時だ。それが、定子にも。また彰子にも誠実である対応の仕方だと鳳仙花は思う。

「この度はお目でとうございまする」

 姿勢を正し、三つ指をついて改めて頭を下げる。

「有難う。これから後宮でもお目にかかると思うけど、宜しくね。あなたが困った立ち場にならないよう、細心の注意を払うわ」
「そ、そんな! 私ごときに何と有り難きお心遣い! 勿体のうございまする! 今でも十分身に余るお心遣いと痛み入りまする」

 鳳仙花は慌てる。時の権力者の娘が自分に頭を下げるなど飛んでもない事だ。それこそ道長に耳に入れば投獄または流刑ものだ。そのような目にあったら、定子や文壇の立ち場が益々傾いてしまう。鳳仙花にしてみれば、最も避けねばならぬ事の一つであった。

「あら、当然よ。私があなたを気に入ってるのですもの。この後の帰りも、来て貰った時とは異なる文様の男車を用意させてあるから。もっとお話していたけど、私もこれから準備があるし、あなたもお仕事ですものね」

 と、彰子の笑みに憂いの影が差す。実際、今日は爪紅の吉日と卜いで出ている為か、この後宮中で二件ほど、夕刻からは定子の元で爪紅を施術する事になっていた。少し息をつく時が出来ると、隆家との今後の事が気になり、気が散ってしまう為、鳳仙花としても忙しいのは非常に有り難い事だった。

(本当はね、あなたが私の文壇に来てくれたらな、て思うの。でも、それはさすがに無理よね……)

 すっかり恐縮して焦っている様子の鳳仙花を、彰子は寂しそうに見つめた。


 実際に道長は、定子が入内して築きあげていく文壇に錚々そうそうたる女房たちを取り揃えようと画策していた。そしてそれは、今後益々増え、繁栄していく事を見越して。
 女房は四十人ほど。童女わらわは六人、雑用係は六人ほど。見た目と人柄重視で。例え地位が四、五位でも育ちの悪い者や人付き合いのなってないものは論外。その計画の元、道長自らが面接し採用をしていった。(※)

(……そうか。しかし、困ったな。未だ、しかも民衆にも噂が広まっているとなると、手は打っておかねばな……)

 その時、道長も今宵の裳着の儀式の準備で忙しくしていたが、気になる噂話を小耳に挟んでしまった。それは、およそ三年前の花山院乱闘事件についてである。伊周が自分の恋人に花山院が横恋慕していると思わせるように、東三条院詮子と道長が仕向けた、というものであった。当初からその噂は囁かれていたが、放って置けばその内消え去る程度のものだとタカを括っていた。だが、未だに、しかも民衆までもがそのような噂をしているとなると厄介である。

 道長は極端に神経質な面があり、自分が、或いは己の一族がどのように思われているのかが常に気になった。その為、藤原斉信にそれとなく探らせることは珍しくなかった。

(隆家に弁明するのに最適な日時を、安倍晴明に占わせよう)

 道長にとって未だに隆家には、心のどこかで「敵に回すのには惜しい男だ」と、一目置いている存在だった。伊周の事は、もう彼にとって政敵でもなんでもないものになっていた。




(※ 栄華物語より)
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