「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第四十九帖 紫雲と藤花

藤壺・前編

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……馥郁ふくいくたる、て言の葉はきっとこんな感じを言うのね……

 鳳仙花はしみじみと感じた。空薫物そらだきもの(※①)が自然に漂う空気のように部屋と一体化している。白檀と沈香、菊花の薫りが絶妙に混じり合った高貴な香りだ。

……王宮の薫り、て感じかしら。それにしても本当、何だ真っ白な雪に薄紅梅の花びらがひらひらと舞っているみたい……

 定子の雪のように白い手に爪紅を染めた指先を見て思う。紅ではなく、薄紅梅色に染めるのが定子の好みなのだ。爪紅と言えば鮮やかな紅に染めるのが主流の中、斬新かつ粋である。それは亡き母より受け継いた術を忠実にこなす事で生まれる。

 不意に、鳳仙花に緊張が走った。まるで氷のやいばを喉元に突き付けられた気分だ。紅の跡を継ぐ形で定子の専属磨爪師となってからおよそ二年ほど経つ。磨爪術をし終わった後、定子が仕上がりを確認するように手首から爪先までくまなく見つめる。それが鳳仙花には毎回のように打ち首か否かの宣告に思え、生きた心地がしないのだ。しかも定子は、施術中は人払いをしており、広々とした空間に二人だけという重圧が、時間が経つごとに重くじりじりとのしかかってくる。しかも出産を控え、些細な事で体調に変化が訪れやすい時期だ。いつも以上に素早く、そして丁寧に終わらせないといけない事実が、無言の圧力となって締め上げる。
 
 爪紅を塗り終わり乾いた頃合いを見計らって両手を上に上げ、手の甲から、手の平を顔に向けて軽く握りこぶしを作るようにして爪先を見る定子。くれないの薔薇《さうび》(※②)花びらを思わせる唇は、満足そうに緩やかな弧を描く。黒水晶のように深く澄んだ瞳が喜びを湛えてきらきらと光り輝く。

 その姿を見て少しずつ緊張が解けていくのだ。少なくとも氷の刃は普通のものへと変わり冷たさは無くなる。けれども、少しでも身じろきすればたちどころに首がねられる。まだ油断はならない。

 やがて定子は鳳仙花に微笑みかけた。思わず見惚れてしまう程の慈愛に満ちた笑みに。まるで菩薩の微笑みだと鳳仙花は毎回思う。白いかんばせの周りを縁取る漆黒の髪が、さらさらと小川のように音を立てて流れる。

まことに、生きた薄紅梅を爪先に乗せているようじゃ。心が弾むのぅ。ご苦労であったな」

 ころころと琴の音が転がるような澄んだ声が花が咲くように零れる。鳳仙花はその言の葉で漸く深く呼吸が出来るのだ。そして突き付けられていた刃は跡形もなく消える。硬直した体のこわばりが瞬く間に解ける。

「恐れ入ります」

 と頭を下げた。

「益々、紅に似て来たな……」

 定子は懐かしむように目を細めた。今も尊敬し、理想像となっている母親に似ていると言われるのはとても嬉しい。

「だが、紅はどこか儚げな印象であったが、そなたはまるで春先の陽だまりのように強い力に満ちておる」

 定子はいつになく真剣に語り出した。食い入るように見つめる視線を不思議に思いながらも、鳳仙花はしかと受け止めた。

「これから立場上、色々と苦境に立たされる事もあるやも知れぬ。だが、生きろ!」
「……定子様?」

 様子がおかしい。まるで唐突に遺言のようだと不吉に感じた鳳仙花はその真意を確かめようと口を開くも、定子は軽く右手をあげ、やんわりと制した。

「春先の草木や花ように力強く芽吹き、伸びやかに上を向き、生きろ。嵐や吹雪の際はじっと耐え忍び、時が来るのを待て。しなやかに、そして強かに生き抜け。紅や私の分も永く、出来だけ永く生きて時の世を見届け、そして味わい尽くせ」

 激流のように淀みなく激しい勢いで流れ出る言の葉の一つ一つが、鳳仙花の胸に響き渡る。そこで言の葉を止めると、定子は悪戯っ子のように笑った。さながら一条天皇と悪戯を楽しんだ時のように。(※③)

「これは命令じゃ。これきり、此度こたび一度しか言わぬ」

 そして次の瞬間、ぽつりと寂しそうに呟いた。

「……間もなく、彰子殿が入内されるな……。私はそなたが羨ましい。その気になれば、何にも囚われぬ自由であるそなたが……」

 鳳仙花は堪らなくなって「御門は定子様一筋ですから!」と言いたくなる気持ちをグッと堪え、静かに耳を傾ける。単なる磨爪師の分際で、天皇や皇后を始め宮中の事に口を挟むなど許されない。本来なら宮中に出入りなど許されぬ身なのだ。けれども、女としての定子の心情は痛いほど伝わり、また共感出来た。せめて耳を傾け、真剣に受け止める事くらいはさせて欲しかった。

「この子が皇子であろうと、周りの者は祝福せぬ」

 帝が還俗させたとは言え、また文壇ではなかった事にしているとは言え、世間では『尼』であると言う事実は消えない。『尼が妊娠など不謹慎極まりない』、それが世間の印象であった。その事を理由に、道長は定子に中宮の役目である神事での仕事を一切させなかった。

「だが、私はこの子を守る! もし皇子なら、一族の誇りをかけて世継ぎに!!」

 定子の瞳に、水晶のように透明な雫の膜が張った。

「定子様……」

 鳳仙花は大きく何度も頷き、定子の話に共感し味方である事を何とかして伝えたかった。だが、そうして頷き、肯定の意を示す事しか出来ぬ身が歯がゆく、虚しい。一条天皇は定子を強く愛している。それは揺るぎない事実だ。
 しかし現実を述べれば、定子だけを愛し抜くのには限界がある。今やまつりごとの全てを牛耳っている道長。定子への風当たりは厳しい。彰子の入内も、定子の出産間際に狙っての嫌がらせと言っても良いだろう。それ故、帝は彰子の事も無碍には出来ない。先に入内していた二人の女御とも世継ぎの為の交わりは避けられない。もし定子の立ち場だったら……とても正気を保つ事は出来ぬ。そう思うと、鳳仙花は改めて定子の気高さに畏敬の念を抱くのだった。

「定子様……はい……はい!」

 瞳に映る定子が霞む。そして姿が歪んで……頬に涙が滴り落ちた。また、霞む。ただ、何度も何度も、頷き続けた。



 その頃、道長は愛娘の入内を目前に、安部晴明の卜いをもとに、気掛かりな事は全て晴らすべく行動をしていた。そのうちの一つが、隆家に「花山院乱闘事件の黒幕は自らではない」、と取り繕う事である。隆家の仕事の計画や足取りを調べさせていた。

 


(※① どこに香炉があって焚いているのか分からないようにする焚き方)
(※② 現代のように八重の花ではなく、当時はノイバラのようなもので、白と深紅あたりの種類はあったと思われる)
(※③ 枕草子 第一三一段「円融院の御はての年」より)
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