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第四十九帖 紫雲と藤花
藤壺・後編
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「……男の子でしょうな」
琵琶の音色を思わせる低めで深みのある声で、男は淡々と答えた。束帯装束に身を包んだ長身細身の男は、書類と筆が乗せられいる台を挟んで向かい側に座る道長を落ち着き払った眼差しで答えた。燭台は男と道長の間に一つのみ。六畳一間の四方を囲む御簾と、銀の地に東に青龍、南に朱雀、北に玄武、西に白虎の四獣がが描かれた屏風を赤々と照らす。安倍晴明の邸である。普段は陰陽寮におり、邸は非公開の場所で限られた人しか入る事は許されない空閑だ。
「何と……男とは……」
ガクリと頭を垂れ、落胆した様子の道長。不安と焦燥に苛まれ、眉が下がる。
「そう焦る事もありますまい? 全ての手筈は整えてあるでしょうに」
晴明は冷たいほどに冴え冴えと澄み切った瞳で、道長を見つめた。
「だ、だが……いささか強引過ぎではなかろうか? 後に、怨みでわしがとり殺されたりせぬだろうか?」
すがるようにして晴明を見つめる道長。
「怨霊が怖いですかな?」
「そ、それは誰だって……」
「おやおや、何と小心な。天下を執ろうという御方が、怨霊の一つは二つを気にしてどうします? 栄華を極まれば極めるほどに、嫉妬や憎悪の念が深まる事はあなたが一番よくご存じの筈でしょう? そういった全てを引き受けるおつもりでいるくらいの器になりませんと」
晴明は揶揄うようにして道長をあしらう。
「そうは言っても……」
「迷いと罪悪感が、怨霊や生す霊に力を与えてしまいます。堂々としていなされ。それではいくら呪術・生す霊返しをしてもキリがありませんぞ」
晴明は諭すように言いながら、
(この御方の業は、娘の彰子様が半分以上引き受けてくださる。よく出来た姫君だ。この男には勿体無い程の……)
と内心で付け加える。そして
「何を今更、という感じですぞ。自らの手は直接汚す事なく、闇から闇に葬り去るなど、もう数え切れぬほど策を労して来たでしょうに」
晴明の脳裏に、花山院乱闘の件、定子の邸の燃え盛る姿が浮かびあがる。萎縮している様子の道長。晴明は流れを変えるように話しを続けた。
「……さてさて、十一月六日の夜本格的に産気づかれ、お生まれになるのは十一月七日の朝でしょう。何もかも予め手筈を整えいえていた通りになさいませ」
と言ってカラカラと笑った。外はしーんと静まり返った夜のしじまに、深々と雪が降る。
愛馬をお供に、牛車の前に佇む男。
『……ええ、隆家様がいい加減な事をする御方ではない事は、分かってはいるのですよ。不安定なお立場である事と、鳳仙花様の御一族が特殊なものである事も鑑みれば、どうする事も出来ない、という事も分かりますしね。援助の件も大変に有り難いですし。ただ……』
敦也の脳裏に、保子の言の葉が甦る。敦也は保子の気持がよく理解出来た。
(このままの状態は、鳳仙花様にとって良くない。何らかの形ではっきりさせなければ)
敦也は思う。主に忠誠は誓っていたが、だからこそ問わねばならない。
(ずっと、言わねばと思っていたが、とうとうその時が来たようだな)
決意を新たに、空を見上げた。灰色の空から、時折はらはらと六花が舞い落ちる。
(……鳳仙花様……)
彼にはそれが、白き蓮の花に見えた。そっと目を閉じる。鳳仙花の笑みと、彼女の白い手が己の肩に触れる姿が思い浮かぶ。白い花びらは、彼の固く結んだ唇にはらりと舞い降りた。一瞬、冷たさを感じるもすぐにふわりと溶け、自らの体温と混じりあって透明の雫となりて彼の喉元へと流れ落ちる。
(……もし、主が鳳仙花様に踏み込まぬままと言うのなら、この敦也が!)
指先が白くなるほどに力を込めて両手に握りこぶしを作る。そのまま、主の仕事が終わるのを待ち続けた。
「定子様! お気を確かに!」
「大丈夫でございます。皆、ついておりますよ」
六日夕刻、産気づきそうな定子を慰め、励ます清少納言と産婆役の女房。寝所を囲うようにして見守る女房たち。勿論、鳳仙花もその中に居て定子を見守る。母体ともに、新しい命が無事に生まれてくるよう祈りを込めて。
そしてそれら全てを見守るようにして伊周の姿があった。体調が悪いとか方違えがどうのとか、適当に理由を作って仕事を早々に切り上げてきたのだ。もう誰も己に期待していないので、「はいはいまたずる休みか」というような感じで咎める者も居ない。完全に開き直っていた。少なくとも、己の真の思いは、すぐ側にいる鳳仙花が分かっていてくれるから。
『忘れまじ 尊き華よ 永久に 名も無き花の 我が身なれども』
弟を介して受け取った鳳仙花からの返歌が、彼を支え続けていた。
(それにしても道長に寝返る奴らばかりで反吐が出そうだ。邸が全焼して出産を場がない定子を、卜いの元に割り出されてもその方角で近辺に邸を持つ者は誰も名乗りを上げやしない)
伊周は憤る。それもこれも、己の軽率な行いが原因だと思えば何も言う立ち場にはないのだが……。道長の目を気にしている者しか宮中には居ない事が改めて浮き彫りとなった。「狭くてむさくるしいところでも宜しければ」と控えに名乗り出た下級武士の家で出産を迎える事になったのだ。本来中宮につく筈の案内役も警護の者も、道長の心証を気にして誰もいない中、邸の提供を名乗り出た者自らが案内役と警護をかって出たかたちとなった。
十一月七日の朝に、帝と定子の待望の長男『敦康親王』が誕生した。
だが、道長の嫌がらせは容赦なく続く。定子の出産した七日の夜に一条天皇との祝言の儀が盛大に行われ、その後に二人の初床入りが行われた。
琵琶の音色を思わせる低めで深みのある声で、男は淡々と答えた。束帯装束に身を包んだ長身細身の男は、書類と筆が乗せられいる台を挟んで向かい側に座る道長を落ち着き払った眼差しで答えた。燭台は男と道長の間に一つのみ。六畳一間の四方を囲む御簾と、銀の地に東に青龍、南に朱雀、北に玄武、西に白虎の四獣がが描かれた屏風を赤々と照らす。安倍晴明の邸である。普段は陰陽寮におり、邸は非公開の場所で限られた人しか入る事は許されない空閑だ。
「何と……男とは……」
ガクリと頭を垂れ、落胆した様子の道長。不安と焦燥に苛まれ、眉が下がる。
「そう焦る事もありますまい? 全ての手筈は整えてあるでしょうに」
晴明は冷たいほどに冴え冴えと澄み切った瞳で、道長を見つめた。
「だ、だが……いささか強引過ぎではなかろうか? 後に、怨みでわしがとり殺されたりせぬだろうか?」
すがるようにして晴明を見つめる道長。
「怨霊が怖いですかな?」
「そ、それは誰だって……」
「おやおや、何と小心な。天下を執ろうという御方が、怨霊の一つは二つを気にしてどうします? 栄華を極まれば極めるほどに、嫉妬や憎悪の念が深まる事はあなたが一番よくご存じの筈でしょう? そういった全てを引き受けるおつもりでいるくらいの器になりませんと」
晴明は揶揄うようにして道長をあしらう。
「そうは言っても……」
「迷いと罪悪感が、怨霊や生す霊に力を与えてしまいます。堂々としていなされ。それではいくら呪術・生す霊返しをしてもキリがありませんぞ」
晴明は諭すように言いながら、
(この御方の業は、娘の彰子様が半分以上引き受けてくださる。よく出来た姫君だ。この男には勿体無い程の……)
と内心で付け加える。そして
「何を今更、という感じですぞ。自らの手は直接汚す事なく、闇から闇に葬り去るなど、もう数え切れぬほど策を労して来たでしょうに」
晴明の脳裏に、花山院乱闘の件、定子の邸の燃え盛る姿が浮かびあがる。萎縮している様子の道長。晴明は流れを変えるように話しを続けた。
「……さてさて、十一月六日の夜本格的に産気づかれ、お生まれになるのは十一月七日の朝でしょう。何もかも予め手筈を整えいえていた通りになさいませ」
と言ってカラカラと笑った。外はしーんと静まり返った夜のしじまに、深々と雪が降る。
愛馬をお供に、牛車の前に佇む男。
『……ええ、隆家様がいい加減な事をする御方ではない事は、分かってはいるのですよ。不安定なお立場である事と、鳳仙花様の御一族が特殊なものである事も鑑みれば、どうする事も出来ない、という事も分かりますしね。援助の件も大変に有り難いですし。ただ……』
敦也の脳裏に、保子の言の葉が甦る。敦也は保子の気持がよく理解出来た。
(このままの状態は、鳳仙花様にとって良くない。何らかの形ではっきりさせなければ)
敦也は思う。主に忠誠は誓っていたが、だからこそ問わねばならない。
(ずっと、言わねばと思っていたが、とうとうその時が来たようだな)
決意を新たに、空を見上げた。灰色の空から、時折はらはらと六花が舞い落ちる。
(……鳳仙花様……)
彼にはそれが、白き蓮の花に見えた。そっと目を閉じる。鳳仙花の笑みと、彼女の白い手が己の肩に触れる姿が思い浮かぶ。白い花びらは、彼の固く結んだ唇にはらりと舞い降りた。一瞬、冷たさを感じるもすぐにふわりと溶け、自らの体温と混じりあって透明の雫となりて彼の喉元へと流れ落ちる。
(……もし、主が鳳仙花様に踏み込まぬままと言うのなら、この敦也が!)
指先が白くなるほどに力を込めて両手に握りこぶしを作る。そのまま、主の仕事が終わるのを待ち続けた。
「定子様! お気を確かに!」
「大丈夫でございます。皆、ついておりますよ」
六日夕刻、産気づきそうな定子を慰め、励ます清少納言と産婆役の女房。寝所を囲うようにして見守る女房たち。勿論、鳳仙花もその中に居て定子を見守る。母体ともに、新しい命が無事に生まれてくるよう祈りを込めて。
そしてそれら全てを見守るようにして伊周の姿があった。体調が悪いとか方違えがどうのとか、適当に理由を作って仕事を早々に切り上げてきたのだ。もう誰も己に期待していないので、「はいはいまたずる休みか」というような感じで咎める者も居ない。完全に開き直っていた。少なくとも、己の真の思いは、すぐ側にいる鳳仙花が分かっていてくれるから。
『忘れまじ 尊き華よ 永久に 名も無き花の 我が身なれども』
弟を介して受け取った鳳仙花からの返歌が、彼を支え続けていた。
(それにしても道長に寝返る奴らばかりで反吐が出そうだ。邸が全焼して出産を場がない定子を、卜いの元に割り出されてもその方角で近辺に邸を持つ者は誰も名乗りを上げやしない)
伊周は憤る。それもこれも、己の軽率な行いが原因だと思えば何も言う立ち場にはないのだが……。道長の目を気にしている者しか宮中には居ない事が改めて浮き彫りとなった。「狭くてむさくるしいところでも宜しければ」と控えに名乗り出た下級武士の家で出産を迎える事になったのだ。本来中宮につく筈の案内役も警護の者も、道長の心証を気にして誰もいない中、邸の提供を名乗り出た者自らが案内役と警護をかって出たかたちとなった。
十一月七日の朝に、帝と定子の待望の長男『敦康親王』が誕生した。
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