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第6話:森の死闘と微かな光明
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森の入り口に響き渡った獣の低い唸り声は、俺たちの前進を明確に拒絶していた。ざわざわと不気味に揺れる木々の奥から、赤黒い影が複数、ゆっくりと姿を現す。
「狼……か? いや、にしては大きいな」
ゴルドが警戒を強め、剣の柄を握る手に力を込めた。現れたのは、灰色熊ほどもある巨大な狼型の魔物だった。全部で三体。血走った赤い瞳が飢えた光を宿し、鋭い牙を剥き出しにして涎を垂らしている。体毛は所々抜け落ち、醜い傷跡がいくつも見える。明らかに通常の生物ではない、邪悪な気配を纏っていた。
「あれが、噂の奇妙な魔物の一種かもしれんな。数が多い、油断するなよ!」バルドが杖を構え、低い声で警告を発する。
ルナは息を呑み、俺の背後に一歩下がった。彼女の肩が小さく震えているのが、背中に伝わる熱で分かる。その震えが、俺の心に奇妙な昂ぶりと、そして強烈な庇護欲を同時に呼び起こした。
「ルナ、俺の後ろに。絶対に離れるな」
「は、はいっ!」
狼型の魔物――ひとまず「魔狼」と呼ぼう――は、俺たちを獲物と定めたのか、一斉に地面を蹴って襲い掛かってきた。その動きは巨体に似合わず俊敏だ。
「散開しろ! 一箇所に固まるな!」ゴルドが叫び、先頭の一体に斬りかかる。鋼の剣が魔狼の硬質な毛皮と衝突し、火花を散らした。
「フレイムランス!」
バルドの杖先から放たれた炎の槍が、別の魔狼の側面を捉える。魔狼は苦痛の咆哮を上げ、僅かに動きを止めたが、その凶暴性は衰えない。
俺は、ルナを守りながら、残る一体の魔狼と対峙した。ホードリング・ボアとの戦いを思い出す。あの時は、ルナの髪の香りが引き金となって、不思議な力が湧き上がった。だが、今はまだその兆候はない。焦りが胸をよぎる。
(落ち着け……バルドさんの言葉を思い出せ。精神的な同調……共感……)
魔狼が鋭い爪を振りかざし、俺に飛びかかってきた。俺はルナを庇うように体を捻り、辛うじてその攻撃を避ける。爪が掠めた腕に、じわりと熱い痛みが走った。
「レンさん!」ルナの悲鳴に近い声が耳朶を打つ。
その瞬間、ふわりと、あの甘い香りが鼻腔をくすぐった。ルナが俺のすぐ背後にいる。彼女の恐怖、俺への心配、その強い感情が、香りとともに俺の中に流れ込んでくるような感覚。
(この匂い……ルナの気持ち……!)
腹の底から、再びあの温かい力が湧き上がってくるのを感じた。視界がクリアになり、周囲の動きが僅かにゆっくりと感じられる。
「させるかよっ!」
俺は地面を強く踏み込み、魔狼の懐に潜り込むように飛び込んだ。武器はない。だが、不思議な自信が全身に満ちていた。狙うは、ホードリング・ボアを倒した時と同じ、関節。魔狼が俺の動きに戸惑った一瞬の隙を突き、その前足の付け根に渾身の蹴りを叩き込んだ。
「グギャンッ!?」
魔狼が奇妙な悲鳴を上げ、巨体をよろめかせる。よし、効いた!
だが、敵は一体ではない。ゴルドとバルドも、それぞれ一体ずつを相手に激しい攻防を繰り広げていた。ゴルドは歴戦の騎士らしく巧みな剣捌きで魔狼の攻撃を凌いでいるが、相手の力も強く、徐々に押され始めているように見える。バルドは魔法で牽制しつつ距離を取っているが、魔狼の素早い動きに翻弄され、詠唱の時間も十分に取れないようだ。
俺が体勢を崩した魔狼に追撃しようとしたその時、ゴルドが相手にしていた魔狼が、彼を押し倒した!
「ゴルドさん!」
魔狼の牙が、ゴルドの首筋に迫る。絶体絶命だ!
「させない!」
ルナが、小さな体を震わせながらも、石を拾って魔狼に投げつけた。石は魔狼の頭に当たり、大したダメージにはならなかったが、その注意をゴルドから一瞬だけ逸らすことには成功した。
「ルナ、危ない!」
俺は叫びながら、ゴルドを助けるために駆け出そうとした。しかし、俺が相手にしていた魔狼が、その隙を見逃さず、ルナに向かって方向転換したのだ!
「しまっ……!」
ルナの細い喉から、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。彼女は恐怖で足が竦み、動けないでいる。魔狼の赤い瞳が、確実にルナを捉えていた。
(駄目だ……間に合わない!)
その瞬間、俺の頭の中で何かが弾けた。ルナの恐怖が、絶望が、まるで自分のことのように感じられる。彼女のあのくすぐったがる声、華奢な肩、柔らかそうなお尻、その全てが、この獰猛な獣の牙によって引き裂かれる光景を想像してしまい、全身の血が沸騰するような怒りと、どうしようもない焦燥感が俺を支配した。
「ルナァァァァッ!!」
俺は、自分でも信じられないほどの速度で地面を蹴っていた。ルナと魔狼の間に割り込むように、文字通り飛び込む。
手に武器はない。だが、今、俺の全身には、ホードリング・ボアを倒した時以上の、熱く、強力なエネルギーが満ち溢れていた。それは、ルナを守りたいという純粋な願いと、そして、彼女の無防備な姿に対する、ある種の独占欲にも似た、歪んだ感情が混ざり合った、激しい衝動だったのかもしれない。
魔狼が振り下ろそうとした爪を、俺は両腕で受け止めた。凄まじい衝撃。腕の骨が軋む音が聞こえた気がしたが、不思議と痛みは感じなかった。
「グォオオオオッ!」
魔狼が、小さな人間が自分の攻撃を受け止めたことに驚愕し、怒りの咆哮を上げる。その口から、生臭い息が俺の顔に吹き付けられた。
「お前に……ルナは……渡さない!!」
俺は吠え、渾身の力を込めて魔狼の腕を押し返すと同時に、がら空きになったその腹部に、強烈な頭突きを叩き込んだ。
ゴッ!!!という鈍い音と共に、魔狼の巨体がくの字に折れ曲がり、短い呻き声を上げて後ろへ吹き飛んだ。そのまま地面に激突し、動かなくなる。
「はぁ……はぁ……っ」
激しい消耗感と共に、俺はその場に膝をついた。腕はまだジンジンと痺れている。
「レンさん! 大丈夫ですか!?」
ルナが泣きそうな顔で駆け寄ってくる。彼女の瞳は恐怖と安堵で潤み、長い耳はぺたんと垂れていた。その姿を見て、俺は心の底からホッとした。と同時に、彼女の華奢な肩や、恐怖で震える唇に、またしても不謹慎な考えが頭をよぎりそうになるのを、必死で抑え込んだ。
「……ああ、大丈夫だ。ルナこそ、怪我はないか?」
「わ、私は……大丈夫です……レンさんが、助けてくれたから……」彼女はそう言うと、俺の腕にそっと触れた。その小さな手の温もりが、心地よかった。
その時、ゴルドとバルドも、それぞれの相手を仕留めたようだった。ゴルドは肩で息をしながらも、剣を杖代わりにして立ち上がり、バルドは額の汗を拭っている。
「……レン殿、またしても、君の力に助けられたな」ゴルドが、驚きと感謝の入り混じった表情で言った。
バルドも頷きながら、「先程の動き……明らかに常人のものではなかった。特に、ルナ嬢を庇った時のあの気迫と力……『盟約の力』が、また一段と強く発現したということか……」と呟いた。
俺は、まだ激しく高鳴る心臓を抑えながら、倒れた魔狼を見つめた。今回は、ルナの髪の香りが直接的なトリガーになったわけではない。だが、彼女の危機、彼女の感情が、俺の内に眠る何かを揺り動かしたことは確かだった。そして、その力の発現には、純粋な守りたいという気持ちだけでなく、もっと複雑な、言葉にし難い感情も絡んでいるような気がした。
戦闘の興奮が冷めやらぬ中、森の奥から、先程の魔狼たちとは比べ物にならないほど禍々しい気配が、微かに漂ってきたのを感じた。それは、まるで地の底から響いてくるような、重く、冷たいプレッシャーだった。
「……まだ、何かいるのか?」
俺の呟きに、ゴルドとバルドも表情を引き締める。ルナは、再び俺の腕をぎゅっと掴んだ。その小さな手の震えが、新たな脅威の大きさを物語っているようだった。
北の森の探索は、まだ始まったばかりだというのに、既に俺たちはその深淵の一端に触れてしまったのかもしれない。
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