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17.伸びていく、蔦
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ノック音の余韻が消え去らないうちに、キィと蝶番が音を立てた。ギクリと身体が強ばる。私と千歳だけの空間。そこへ第三者の侵入によって、空気感まで強ばっていくような気がした。
今の私と千歳のこの状況。テーブルを挟み、互いに触れ合っている。単なる取材中の様相ではないことは明白だ。千歳の秘書である靏田さんが何用かでここに戻ってきたのか、それとも亀ちゃんが編集長との電話を終えたのか。どちらにせよ私たちの関係性に気が付かれるような事態は避けなければ。
「すみません、戻りまし……た……?」
急いていく思考のままぎこちなく視線を出入口に向けると、この社長室に飛び込んできた亀ちゃんが私たちの様子を視認し目を丸くしていた。そういった反応になるのも当然だろう。なんと言い訳をするべきか、いや、何を言っても言い訳にすらならない。
(や、やばっ……!)
ざぁっと全身から血の気が引く。何かを唇に乗せようと思っても、何も言葉が出てこない。耳朶を打つのはどくどくと響く自分の早い鼓動だけ。心臓に血流が集中し、口の中に生まれた唾液の感覚にじりじりと胸が焦げていく。
「亀山さん。彼女、少し体調が悪いみたいなんです」
先手を打ったのは千歳だった。彼の言葉に扉を押し開いたままだった亀ちゃんがさらに瞠目し、表情を曇らせる。
「え! 鷹城さん、大丈夫ですか?」
「急にお身体がふらつかれたので僕も驚いたんですよ」
気が付けば、私の耳に触れていた千歳も眉を顰め、気遣わしげな表情を浮かべていた。そもそもこの状況に持ち込んだのは千歳本人だったくせに。白々しいことこの上ない、と、きつく睨めつけてやりたい気持ちをぐっと堪えた。
この場を切り抜けるには千歳に話を合わせるしかないと自分自身でもわかっている。手首をつかんでいた千歳の手を振りほどき、パタパタと駆けてくる亀ちゃんに向かって大慌てで首を振った。
「だっ、大丈夫、だから……!」
「顔、真っ青っスよ」
ソファのそばで膝をつき、亀ちゃんが私の顔を覗き込んでくる。私はこの場を乗り切る嘘を必死で探しているのに、対する亀ちゃんは声すらも曇らせていた。心の底から心配してくれている亀ちゃんに合わせる顔すらない気がして、思わず視線が泳ぐ。
「ほんとっ……大丈夫! ちょっと……その、眩暈が、した……だけ、だから」
「……そう、っスか? 取材、ちょっと休憩させてもらった方が」
訝しげな声色が落ちてくる。これ以上追及されてはまずい。確実にボロが出る。その言葉と同時に頭の中に思い浮かんだのは女性特有の事情のことだった。この理由だったら、亀ちゃんもここから先は踏み込んで来ることは難しい、はず。
「本当に大丈夫! えっとね、その。……今、貧血起こしやすい時期だから、さ?」
言いづらい、と主張するように困ったような笑顔を作って貼り付ける。今はそういう時期なのだ、と男性である彼に伝えれば、言い淀んだ心情についても、視線を泳がせた理由についても……勘違い、してくれるはず。
私の顔を覗き込む亀ちゃんは即座に「しまった」というような表情を浮かべた。騙してごめんと心の中で謝りながら自分の浅ましさに心の内でため息をつく。自分を取り繕う術というのは社会人である以上誰しもが持ち合わせているだろうけれど、これはさすがにやりすぎだ。でも、今はこうするしか選択肢がない。ぐっと自分を抑え、敢えて儚げな表情を作った。
「あ……すんません」
「ううん、大丈夫。景元さんもご心配をおかけしました。大変失礼しました」
ソファに沈みこんだまま千歳に向かってぺこりと頭を下げる。わざとらしくならぬよう、必死に平静を装った。
「いえ。少し休憩されてはいかがですか。白湯を準備しますので」
するりとソファから腰を上げた千歳は奥のデスク横のサイドボードに足を向けていた。向けられた言葉の通り、飲み物を準備してくれているのだろう。私が口にした嘘の理由に真実味を持たせようとするその行動。
ファーストコンタクトの時から年下とは思えないほどの気遣いが出来る子なのだと思っていた。けれど、世襲制とはいえ、そもそもこの年齢で社長に据えられていることを加味するならば、やはり千歳は頭が切れるタイプで――先ほどのボイスレコーダーを使い接触を試みた流れでも感じたけれど、彼はいわゆる頭脳派の人間、なのだと思う。
「……お心遣いありがとうございます。ご迷惑をおかけし申し訳ございません。その、お手洗いをお借りしてもよろしいでしょうか」
ひとまず思考を整理したい。混乱してしょうがない。取材対象が千歳だとわかった時からひどく心が乱されているのだ。このままではきちんと取材を全うすることなんて出来ない、と自分で自分に言い訳をしながら、鞄から小さなメイクポーチを取り出した。
「ええ、どうぞ。そちらを出てすぐ右手です」
千歳が穏やかに微笑みながらこちらを振り返る。ネイビーのスーツのジャケットの裾が翻るのを眺め、私は席を立ちふたたび小さく頭を下げた。
コツコツとヒールの音を鳴らしながら部屋を退出し、千歳に言われた通り右手の扉を開いた。レストルームとなっているこの場所も、落ち着いた雰囲気で景元証券という会社自体の品格を表しているようだった。オレンジがかった照明が一流ホテルを思わせるようなラグジュアリーな雰囲気すらも醸し出している。
はぁぁ、と、肺がまるごと出ていきそうなくらいの大きなため息を吐き出しながら化粧ポーチのチャックを開いた。そこからファンデーションのコンパクトを引っ張り出し、サイドの髪を左耳にかけ、反対の指先で軟骨に触れる。
(……)
壁に取り付けられた鏡にコンパクトの内鏡を映し出し、左耳の裏を確認する。そこに映っていたのは、肌色の上に浮かぶ……小さな黒点。
「……ある…」
手に持ったコンパクトを動かしながら小さく呟いた。千歳があの瞬間に口にした、左耳の軟骨の後ろにほくろがある、ということは、『本当のこと』……だった。
「千歳も……よく…知ってた、よね…」
他人のほくろの位置なんて。普通、覚えてやしないだろうに。私だって、過去の彼氏たちのほくろの位置なんて覚えたことはない。まして、それが千歳にとってただの性欲処理相手だったのならば尚更のことではないのだろうか。
そこまで考えて、はたと呼吸が止まる。
(……え?)
思い当たったひとつの推測。瞬時にかぁっと全身が赤くなる。どくどくとうるさいほどの鼓動が、私の心を急き立てていく。
千歳は、私が知らないほくろの位置まで。正確に、知っていた。
それ、は――――
(私を、抱くとき……)
これまで私が組み立ていた予想とは、違って。
(え……え、ちょっと、まって……)
誰かの代わりではなく、きちんと――『私』という存在を見てくれていた、ということに繋がるような、気がして。
『やよさん』
不意に脳裏に蘇った――数分前の。千歳の、声。
私を貫いていった――熱を孕んだ、視線。
その、甘く、低い声に。
熱い視線の、名残りに。
ぎゅうっ、と。心臓を鷲掴みにされていく。
薄氷上の関係だと思っていた。身体だけで繋がっている、どちらかが一歩を踏み出せば崩れてしまう関係だと。
けれど。この推測が、万が一……正しかったのなら。
(……勘違い、して、も……)
そのままズルズルとその場に蹲り、動けなくなる。コンパクトを握りしめる手が、声を絞り出す声帯が。小さく、震えている。
「……いい、の……?」
私は。その一言を零すだけで、精一杯……だった。
今の私と千歳のこの状況。テーブルを挟み、互いに触れ合っている。単なる取材中の様相ではないことは明白だ。千歳の秘書である靏田さんが何用かでここに戻ってきたのか、それとも亀ちゃんが編集長との電話を終えたのか。どちらにせよ私たちの関係性に気が付かれるような事態は避けなければ。
「すみません、戻りまし……た……?」
急いていく思考のままぎこちなく視線を出入口に向けると、この社長室に飛び込んできた亀ちゃんが私たちの様子を視認し目を丸くしていた。そういった反応になるのも当然だろう。なんと言い訳をするべきか、いや、何を言っても言い訳にすらならない。
(や、やばっ……!)
ざぁっと全身から血の気が引く。何かを唇に乗せようと思っても、何も言葉が出てこない。耳朶を打つのはどくどくと響く自分の早い鼓動だけ。心臓に血流が集中し、口の中に生まれた唾液の感覚にじりじりと胸が焦げていく。
「亀山さん。彼女、少し体調が悪いみたいなんです」
先手を打ったのは千歳だった。彼の言葉に扉を押し開いたままだった亀ちゃんがさらに瞠目し、表情を曇らせる。
「え! 鷹城さん、大丈夫ですか?」
「急にお身体がふらつかれたので僕も驚いたんですよ」
気が付けば、私の耳に触れていた千歳も眉を顰め、気遣わしげな表情を浮かべていた。そもそもこの状況に持ち込んだのは千歳本人だったくせに。白々しいことこの上ない、と、きつく睨めつけてやりたい気持ちをぐっと堪えた。
この場を切り抜けるには千歳に話を合わせるしかないと自分自身でもわかっている。手首をつかんでいた千歳の手を振りほどき、パタパタと駆けてくる亀ちゃんに向かって大慌てで首を振った。
「だっ、大丈夫、だから……!」
「顔、真っ青っスよ」
ソファのそばで膝をつき、亀ちゃんが私の顔を覗き込んでくる。私はこの場を乗り切る嘘を必死で探しているのに、対する亀ちゃんは声すらも曇らせていた。心の底から心配してくれている亀ちゃんに合わせる顔すらない気がして、思わず視線が泳ぐ。
「ほんとっ……大丈夫! ちょっと……その、眩暈が、した……だけ、だから」
「……そう、っスか? 取材、ちょっと休憩させてもらった方が」
訝しげな声色が落ちてくる。これ以上追及されてはまずい。確実にボロが出る。その言葉と同時に頭の中に思い浮かんだのは女性特有の事情のことだった。この理由だったら、亀ちゃんもここから先は踏み込んで来ることは難しい、はず。
「本当に大丈夫! えっとね、その。……今、貧血起こしやすい時期だから、さ?」
言いづらい、と主張するように困ったような笑顔を作って貼り付ける。今はそういう時期なのだ、と男性である彼に伝えれば、言い淀んだ心情についても、視線を泳がせた理由についても……勘違い、してくれるはず。
私の顔を覗き込む亀ちゃんは即座に「しまった」というような表情を浮かべた。騙してごめんと心の中で謝りながら自分の浅ましさに心の内でため息をつく。自分を取り繕う術というのは社会人である以上誰しもが持ち合わせているだろうけれど、これはさすがにやりすぎだ。でも、今はこうするしか選択肢がない。ぐっと自分を抑え、敢えて儚げな表情を作った。
「あ……すんません」
「ううん、大丈夫。景元さんもご心配をおかけしました。大変失礼しました」
ソファに沈みこんだまま千歳に向かってぺこりと頭を下げる。わざとらしくならぬよう、必死に平静を装った。
「いえ。少し休憩されてはいかがですか。白湯を準備しますので」
するりとソファから腰を上げた千歳は奥のデスク横のサイドボードに足を向けていた。向けられた言葉の通り、飲み物を準備してくれているのだろう。私が口にした嘘の理由に真実味を持たせようとするその行動。
ファーストコンタクトの時から年下とは思えないほどの気遣いが出来る子なのだと思っていた。けれど、世襲制とはいえ、そもそもこの年齢で社長に据えられていることを加味するならば、やはり千歳は頭が切れるタイプで――先ほどのボイスレコーダーを使い接触を試みた流れでも感じたけれど、彼はいわゆる頭脳派の人間、なのだと思う。
「……お心遣いありがとうございます。ご迷惑をおかけし申し訳ございません。その、お手洗いをお借りしてもよろしいでしょうか」
ひとまず思考を整理したい。混乱してしょうがない。取材対象が千歳だとわかった時からひどく心が乱されているのだ。このままではきちんと取材を全うすることなんて出来ない、と自分で自分に言い訳をしながら、鞄から小さなメイクポーチを取り出した。
「ええ、どうぞ。そちらを出てすぐ右手です」
千歳が穏やかに微笑みながらこちらを振り返る。ネイビーのスーツのジャケットの裾が翻るのを眺め、私は席を立ちふたたび小さく頭を下げた。
コツコツとヒールの音を鳴らしながら部屋を退出し、千歳に言われた通り右手の扉を開いた。レストルームとなっているこの場所も、落ち着いた雰囲気で景元証券という会社自体の品格を表しているようだった。オレンジがかった照明が一流ホテルを思わせるようなラグジュアリーな雰囲気すらも醸し出している。
はぁぁ、と、肺がまるごと出ていきそうなくらいの大きなため息を吐き出しながら化粧ポーチのチャックを開いた。そこからファンデーションのコンパクトを引っ張り出し、サイドの髪を左耳にかけ、反対の指先で軟骨に触れる。
(……)
壁に取り付けられた鏡にコンパクトの内鏡を映し出し、左耳の裏を確認する。そこに映っていたのは、肌色の上に浮かぶ……小さな黒点。
「……ある…」
手に持ったコンパクトを動かしながら小さく呟いた。千歳があの瞬間に口にした、左耳の軟骨の後ろにほくろがある、ということは、『本当のこと』……だった。
「千歳も……よく…知ってた、よね…」
他人のほくろの位置なんて。普通、覚えてやしないだろうに。私だって、過去の彼氏たちのほくろの位置なんて覚えたことはない。まして、それが千歳にとってただの性欲処理相手だったのならば尚更のことではないのだろうか。
そこまで考えて、はたと呼吸が止まる。
(……え?)
思い当たったひとつの推測。瞬時にかぁっと全身が赤くなる。どくどくとうるさいほどの鼓動が、私の心を急き立てていく。
千歳は、私が知らないほくろの位置まで。正確に、知っていた。
それ、は――――
(私を、抱くとき……)
これまで私が組み立ていた予想とは、違って。
(え……え、ちょっと、まって……)
誰かの代わりではなく、きちんと――『私』という存在を見てくれていた、ということに繋がるような、気がして。
『やよさん』
不意に脳裏に蘇った――数分前の。千歳の、声。
私を貫いていった――熱を孕んだ、視線。
その、甘く、低い声に。
熱い視線の、名残りに。
ぎゅうっ、と。心臓を鷲掴みにされていく。
薄氷上の関係だと思っていた。身体だけで繋がっている、どちらかが一歩を踏み出せば崩れてしまう関係だと。
けれど。この推測が、万が一……正しかったのなら。
(……勘違い、して、も……)
そのままズルズルとその場に蹲り、動けなくなる。コンパクトを握りしめる手が、声を絞り出す声帯が。小さく、震えている。
「……いい、の……?」
私は。その一言を零すだけで、精一杯……だった。
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