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挿話
I’ll make some coffee for you.
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「ねぇ、マサ。私、コーヒー飲みたいんだけど」
「…………は?」
カナさんの赤い唇から転がってきた想定外の言葉。夕食の後片付けをしていた俺は皿を拭き上げる手を止め、思わずぽかんと口を開いた。数秒ののちに我に返り、眉を顰める。相変わらずこの人はこうして突拍子もないことをやってのけて、俺際限なく驚かせていく。
「……いや、カナさん妊娠中でしょ?」
雨が静かに降り注ぐタンザニアの十一月。俺が日本から移住してきてようやく一年が過ぎ、カナさんのお腹も大きくなりつつある。最近は胎動を感じることもあるようで、先月は俺が手を当てても時折動きが認知できるまでになった。
「だって、お医者さんは一杯くらいならいいって言ってたわよ? だいたい、マサが過保護すぎるだけなのよ。私まだ全然動けるのに、食事の準備もお皿洗いもぜーんぶマサがやるっていうから」
ダイニングチェアに腰掛けたまま不機嫌そうに頬杖をつくカナさんの鮮やかな赤い唇がへの字を描いている。
六月にカナさんの妊娠がわかり、俺は夕食後のコーヒーをやめた。それどころか、分担していた家事も俺がすべて引き受けるようにしている。最近、カナさんに対して過保護になっている自覚は大いにある。それもそうだろう、彼女は四十路に入ってからの初産でもあるし、仕事となるとカナさんはいつだって自身の身体を顧みないのだから。
「それでもカフェインは今はカナさんの身体にもよくないから、だめ」
妊娠中は何が起こるがわからない。もし彼女の身に何かあったら――文字通り俺の生命をかけてやっとの思いで手に入れた夜明けをまた失うなんて、もう考えたくもなかった。
カナさんの要望を一蹴し、拭きあげた皿を棚に仕舞っていく。すると、カタンと音を立てて席を立ったカナさんが軽やかな足取りで俺の隣へと足を進めた。
「マサならそう言うと思ってたから、兄さんに送ってもらったの。......あった、これ。これならいいでしょ?」
カナさんは意気揚々と生活用品を収納している棚の奥から見慣れた茶色の紙袋を引っ張り出した。
『デカフェ グァテマラ サンタカタリーナ農園』と義兄の文字で記されたそれを手に持った彼女の楽しげな表情を見遣り、俺は思わず額を抑える。
(やられた......)
先月、義兄から珍しく俺宛てに電話があった。要件としては日本の腐れ縁夫婦にも子宝が恵まれたという話。あちらは四月一日が予定日らしく、もしかするとこちらと同級生になるかもしれないらしい。正直聞きたくもない話題だったけれど、まぁ、あちらも無事に生まれたらいいとは思う。
恐らくその時からきっとこの兄妹に仕組まれていた。あの夫婦もマスターの店の常連客。コーヒー好きなので、デカフェ豆の需要があると言いたかったのだろう。毎度毎度、この兄妹は俺を予想外の方向に振り回してくれる。
「~~~、わかった……」
「ふふふ、ありがとうマサ」
不承不承頷くと、いつものように悪戯っぽく微笑んだ彼女は含んだような笑みを唇に乗せている。お湯を注ぐとドリッパーにセットされたフィルターの中から芳醇な香りが立ちのぼる。カナさん用のマグカップに淹れたてのコーヒーを移し替えダイニングテーブルに置くと、カナさんは頬をほころばせて甘く笑みを浮かべた。
「カナさん猫舌なんだからすぐ飲んじゃっ……て!」
「熱っ」
マグカップに口をつけたカナさんは一瞬で顔を顰めている。思わずガタリと席をたち、水の入ったグラスを手に取って彼女の前に差し出した。
「ほらもう言わんこっちゃないっ! 少し冷めるまで待てばいいのに」
「だって、何ヶ月も飲んでなかったんだもの……」
コーヒーを待ちきれなかったらしい彼女は、火傷した舌を冷ますように口を開閉させる。むくれたように俺を見遣るその瞳には明らかな不満の色が滲んでいた。
「気持ちはわかるけど、少しは自分の身体に気を配ってよカナさん……」
これではいくつ生命があっても足りない。彼女の一挙手一投足にひやひやさせられるこちらの身にもなって欲しい。
相変わらずな彼女の振る舞いに眉根を寄せていると、カナさんはこてんと首を傾げた。
「じゃぁ、これからマサが毎日デカフェのコーヒー淹れてくれる?」
彼女はいつだって自由奔放で束縛されない。決まったルールにこだわらない。わがままで面倒くさがり。話を聞いているように見えても、実は頭の中には何も入っちゃいない。俺よりも八つも年上のカナさんだけれど、ペガサスな彼女はいつだって俺の想像の遥か上を行くのだ。自分の気持ちに嘘をつかず、好きなものは好きと言って、興味のあるところに臆さずに飛び込んでいく。
そんな、くるくると表情を変える彼女に。
俺は途方もなく、溺れている。
「………デカフェなら、毎日淹れるから」
少しだけぶっきらぼうな物言いになったことは自覚しているが、この状況では仕方ないと思う。
口紅を纏わずとも妖艶な赤い唇が、楽しそうに弧を描いた。
「ふふ。じゃあ、今日はゆっくり飲むわね?」
その笑顔に、身体の奥に潜む中枢がどくりと跳ねる。
「……………今日だけじゃなくて、いつもゆっくり飲んでよ」
何度だって、カナさんのためにコーヒーを淹れてあげるから。
その想いはきっと、言葉にせずとも伝わったのだと思う。目の前のカナさんが、首肯するように小さく吐息を落としたから。
カナさんのその仕草を見届け、俺もそっと手元のマグカップに口付けた。
ペガサスな彼女に振り回される日々もやっぱり、悪くは無い。そんな風に独りごちながら。
「…………は?」
カナさんの赤い唇から転がってきた想定外の言葉。夕食の後片付けをしていた俺は皿を拭き上げる手を止め、思わずぽかんと口を開いた。数秒ののちに我に返り、眉を顰める。相変わらずこの人はこうして突拍子もないことをやってのけて、俺際限なく驚かせていく。
「……いや、カナさん妊娠中でしょ?」
雨が静かに降り注ぐタンザニアの十一月。俺が日本から移住してきてようやく一年が過ぎ、カナさんのお腹も大きくなりつつある。最近は胎動を感じることもあるようで、先月は俺が手を当てても時折動きが認知できるまでになった。
「だって、お医者さんは一杯くらいならいいって言ってたわよ? だいたい、マサが過保護すぎるだけなのよ。私まだ全然動けるのに、食事の準備もお皿洗いもぜーんぶマサがやるっていうから」
ダイニングチェアに腰掛けたまま不機嫌そうに頬杖をつくカナさんの鮮やかな赤い唇がへの字を描いている。
六月にカナさんの妊娠がわかり、俺は夕食後のコーヒーをやめた。それどころか、分担していた家事も俺がすべて引き受けるようにしている。最近、カナさんに対して過保護になっている自覚は大いにある。それもそうだろう、彼女は四十路に入ってからの初産でもあるし、仕事となるとカナさんはいつだって自身の身体を顧みないのだから。
「それでもカフェインは今はカナさんの身体にもよくないから、だめ」
妊娠中は何が起こるがわからない。もし彼女の身に何かあったら――文字通り俺の生命をかけてやっとの思いで手に入れた夜明けをまた失うなんて、もう考えたくもなかった。
カナさんの要望を一蹴し、拭きあげた皿を棚に仕舞っていく。すると、カタンと音を立てて席を立ったカナさんが軽やかな足取りで俺の隣へと足を進めた。
「マサならそう言うと思ってたから、兄さんに送ってもらったの。......あった、これ。これならいいでしょ?」
カナさんは意気揚々と生活用品を収納している棚の奥から見慣れた茶色の紙袋を引っ張り出した。
『デカフェ グァテマラ サンタカタリーナ農園』と義兄の文字で記されたそれを手に持った彼女の楽しげな表情を見遣り、俺は思わず額を抑える。
(やられた......)
先月、義兄から珍しく俺宛てに電話があった。要件としては日本の腐れ縁夫婦にも子宝が恵まれたという話。あちらは四月一日が予定日らしく、もしかするとこちらと同級生になるかもしれないらしい。正直聞きたくもない話題だったけれど、まぁ、あちらも無事に生まれたらいいとは思う。
恐らくその時からきっとこの兄妹に仕組まれていた。あの夫婦もマスターの店の常連客。コーヒー好きなので、デカフェ豆の需要があると言いたかったのだろう。毎度毎度、この兄妹は俺を予想外の方向に振り回してくれる。
「~~~、わかった……」
「ふふふ、ありがとうマサ」
不承不承頷くと、いつものように悪戯っぽく微笑んだ彼女は含んだような笑みを唇に乗せている。お湯を注ぐとドリッパーにセットされたフィルターの中から芳醇な香りが立ちのぼる。カナさん用のマグカップに淹れたてのコーヒーを移し替えダイニングテーブルに置くと、カナさんは頬をほころばせて甘く笑みを浮かべた。
「カナさん猫舌なんだからすぐ飲んじゃっ……て!」
「熱っ」
マグカップに口をつけたカナさんは一瞬で顔を顰めている。思わずガタリと席をたち、水の入ったグラスを手に取って彼女の前に差し出した。
「ほらもう言わんこっちゃないっ! 少し冷めるまで待てばいいのに」
「だって、何ヶ月も飲んでなかったんだもの……」
コーヒーを待ちきれなかったらしい彼女は、火傷した舌を冷ますように口を開閉させる。むくれたように俺を見遣るその瞳には明らかな不満の色が滲んでいた。
「気持ちはわかるけど、少しは自分の身体に気を配ってよカナさん……」
これではいくつ生命があっても足りない。彼女の一挙手一投足にひやひやさせられるこちらの身にもなって欲しい。
相変わらずな彼女の振る舞いに眉根を寄せていると、カナさんはこてんと首を傾げた。
「じゃぁ、これからマサが毎日デカフェのコーヒー淹れてくれる?」
彼女はいつだって自由奔放で束縛されない。決まったルールにこだわらない。わがままで面倒くさがり。話を聞いているように見えても、実は頭の中には何も入っちゃいない。俺よりも八つも年上のカナさんだけれど、ペガサスな彼女はいつだって俺の想像の遥か上を行くのだ。自分の気持ちに嘘をつかず、好きなものは好きと言って、興味のあるところに臆さずに飛び込んでいく。
そんな、くるくると表情を変える彼女に。
俺は途方もなく、溺れている。
「………デカフェなら、毎日淹れるから」
少しだけぶっきらぼうな物言いになったことは自覚しているが、この状況では仕方ないと思う。
口紅を纏わずとも妖艶な赤い唇が、楽しそうに弧を描いた。
「ふふ。じゃあ、今日はゆっくり飲むわね?」
その笑顔に、身体の奥に潜む中枢がどくりと跳ねる。
「……………今日だけじゃなくて、いつもゆっくり飲んでよ」
何度だって、カナさんのためにコーヒーを淹れてあげるから。
その想いはきっと、言葉にせずとも伝わったのだと思う。目の前のカナさんが、首肯するように小さく吐息を落としたから。
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