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挿話
Sunny afternoon.
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午後二時半。カーテン越しの陽射しが、今日はやけに優しい。俺はソファに座り、いつものように指しゃぶりをしてミルクを待つ息子をベビーベッドから抱き上げた。
「はい……ミルク。飲むでしょ?」
生まれてから三ヶ月が過ぎたものの、まだ首は座りかけ。左手でぐらつく頭を支えて、右手で哺乳瓶を構える。
最初はいつものように、ちょっと拗ねたように唇を尖らせて首を左右に振る。だけどすぐに諦めて、はむっとシリコンの乳首を小さな口に含んでちゅぱちゅぱと飲み始めた。吸う力が日に日に強くなってるのが、瓶越しに伝わってくる。
偶然にも、息子は俺と同じ、二月十八日が誕生日だ。予定日まであと二週間、という日に生まれてきた。
あの日は未明からあっという間にお産が進み、俺は急な展開に動転していた。妻は俺よりも八つも年上だからか終始冷静で、俺は何もできなくて、最後までただカナさんの手を握ってただけだった。
あのときの無力感が、今でも胸の奥にこびりついてる。だからせめて、子育てに関して俺にできることはなんでもやろうと思っていたけれど、なんでもそつなくこなすカナさんにいつの間にか先を越されていて。
医療体制が整っているわけじゃないこの地での出産で、休む間もなく育児が始まって。きつそうには見せないけれど、絶対にしんどいはずなのに、カナさんは育児はいいから自分の代わりに商社の方の仕事を回すようにってなかなか聞いてくれなくて。
『せめてミルクくらい俺にさせてくれない?』
『ええ? 産褥期が終わるまでは私が立ち上げた会社の方にマサが表立って専念するって約束だったでしょう。仕事に穴開けて今までの私たちの努力を崩したくないって気持ち、あの時わかってくれたじゃない』
『そう……だけど。でも、このままカナさんが一手に引き受け続けて倒れちゃったら元も子もないでしょ?』
『倒れないわよ~。今までどんなに忙しくったって大丈夫だったもの。マサったら本当に心配性なんだから』
のらりくらりと躱してくるカナさんを説得するも上手くいかず、最終的に義兄の力も借りて、午後から日没までのお世話は俺が担当することで落ち着いた。その間、カナさんには自分の時間を取ってもらっている。夜間は母乳を飲ませた方がよく寝てくれる子だから、俺の出番はない。
(まったくもう……)
チュッチュッと息子がミルクを飲む規則的な音を聞きながら、ふっと苦笑が漏れた。
『倒れないわよ~』なんて軽く言ってたけど、出産から数日しか経ってない身体で、昼夜問わず息子に付きっきりになって、合間に会社の連絡も返して。普通なら絶対どこかでへばるはず。
俺が「ちょっと休んだら?」と口にしても――
『休んでるわよ? ほら、今も座ってるじゃない』
なんて、いつものいたずらっぽい笑顔で平然と返してくるのだから、本当に何度頭を抱えたことか。
……だけど。
(その強さに何度助けられたか……わからないんだけどね~ぇ……)
いつだって、カナさんの手に助けられてきた。カナさんが俺の手を引いて、明るい場所へ連れ出してくれた。
夢みたいな日々が穏やかに続いていて、まだ、この日々が現実だと信じられないくらいだ。
哺乳瓶越しに見つめる息子は、目を閉じてミルクを飲むことに集中している。その小さな手は、俺のTシャツの胸元をしっかりと握りしめていた。
半分くらい飲んだところで、息子がふと吸うのをやめた。
乳首をくわえたまま、ぽかんと口を開けて、俺を見上げてくる。
目が――合った。少しばかりグレーがかった大きな瞳と視線が絡み合った瞬間、息子はニカっと笑った。口角が上がって、目が細くなって、頬に小さなえくぼができた。
息子のそのふにゃりとした笑顔に、胸の奥が一気に溶けていく。
「……はいはい、かわいいのは知ってるよ。飲もうね?」
最近直母でも遊び飲みをするとカナさんが困ったように言っていたけれど、どうやら遊び飲みは哺乳瓶でも発動しているらしい。
俺がそっと哺乳瓶を持ち直すと、息子はニヤっとわざとらしいレベルで口角を引き上げ、乳首をぷいっと舌で押し返してくる。
「も~……俺を振り回して。カナさんそっくりだね君は。あとちょっとだけでいいから飲んで?」
大きなため息を吐き出しながら、俺は息子の身体を飲みやすい体勢に調整し直す。すると、息子は少しばかり不服そうに唇を尖らせながらも、はむっと乳首を咥えなおす。
再びちゅぱちゅぱと飲み始めた息子を見つめながら、胸の奥がじんわり熱くなる。小さな身体で一生懸命生きようとしていて、でも時々こうして甘えてきて、笑って、俺の心をあっさり持っていく。
(こんなあったかな存在が……俺の腕の中にいるなんて、ね~ぇ……)
ふいに――脳裏に落ちてきた言葉が、喉の奥までせり上がった。
「Did Haruki choose me as his dad?」
俺は腕の中の小さな温かい塊を見つめながら、ふと抑えきれない疑問を口にした。それは、問いというより、むしろ独り言に近い声だった。
息子はごくりと喉を鳴らして、哺乳瓶の乳首をつるんと静かに離し俺を見上げてきた。
そして次の瞬間、まるで言葉の意味を理解したかのように――口を大きく広げて、キャッと声にならない笑い声を上げた。
「……あ……」
その笑顔は、あまりにも純粋で、あまりにもタイミングが良すぎた。ただの偶然だ、ミルクを飲んで機嫌が良くなっただけだろう。カナさんとの普段の会話は日本語を使っているし、息子に声掛けをするときも日本語だ。だから息子が俺の英語を聞きとって理解しているわけではないことも、もちろんわかっている。
けれど――理屈ではない感情が、俺の心を一気に突き上げた。
『うん、そう』
そんな風に、目の前の息子に言われた気がした。胸の奥が一気にほどけて、世界がじわりと滲んだ。
「……ありがとう」
堪えきれない雫がぽたりと落ちていく。俺の言葉に、息子は今度は答えなかった。彼はそのまま、目の前の乳首をちゅっと吸い直していく。
温かい重みを胸に感じながら、息子がミルクを飲み終えるまで、俺はずっと、ずっと、息子の柔らかな頬を撫でていた。
こんな日が来るなんて、昔の俺は想像すらしていなかった。腕の中の小さな命は、言葉なんて知らないくせにまっすぐに俺の胸を撃ち抜いていく。
弱くて、立ち止まって、欲張って悲しみだけを抱え込んで、蹲っていた俺を抱きしめ直してくれるみたいに。
奇跡みたいな瞬間を――一生分、与えてもらったような気がした。
「はい……ミルク。飲むでしょ?」
生まれてから三ヶ月が過ぎたものの、まだ首は座りかけ。左手でぐらつく頭を支えて、右手で哺乳瓶を構える。
最初はいつものように、ちょっと拗ねたように唇を尖らせて首を左右に振る。だけどすぐに諦めて、はむっとシリコンの乳首を小さな口に含んでちゅぱちゅぱと飲み始めた。吸う力が日に日に強くなってるのが、瓶越しに伝わってくる。
偶然にも、息子は俺と同じ、二月十八日が誕生日だ。予定日まであと二週間、という日に生まれてきた。
あの日は未明からあっという間にお産が進み、俺は急な展開に動転していた。妻は俺よりも八つも年上だからか終始冷静で、俺は何もできなくて、最後までただカナさんの手を握ってただけだった。
あのときの無力感が、今でも胸の奥にこびりついてる。だからせめて、子育てに関して俺にできることはなんでもやろうと思っていたけれど、なんでもそつなくこなすカナさんにいつの間にか先を越されていて。
医療体制が整っているわけじゃないこの地での出産で、休む間もなく育児が始まって。きつそうには見せないけれど、絶対にしんどいはずなのに、カナさんは育児はいいから自分の代わりに商社の方の仕事を回すようにってなかなか聞いてくれなくて。
『せめてミルクくらい俺にさせてくれない?』
『ええ? 産褥期が終わるまでは私が立ち上げた会社の方にマサが表立って専念するって約束だったでしょう。仕事に穴開けて今までの私たちの努力を崩したくないって気持ち、あの時わかってくれたじゃない』
『そう……だけど。でも、このままカナさんが一手に引き受け続けて倒れちゃったら元も子もないでしょ?』
『倒れないわよ~。今までどんなに忙しくったって大丈夫だったもの。マサったら本当に心配性なんだから』
のらりくらりと躱してくるカナさんを説得するも上手くいかず、最終的に義兄の力も借りて、午後から日没までのお世話は俺が担当することで落ち着いた。その間、カナさんには自分の時間を取ってもらっている。夜間は母乳を飲ませた方がよく寝てくれる子だから、俺の出番はない。
(まったくもう……)
チュッチュッと息子がミルクを飲む規則的な音を聞きながら、ふっと苦笑が漏れた。
『倒れないわよ~』なんて軽く言ってたけど、出産から数日しか経ってない身体で、昼夜問わず息子に付きっきりになって、合間に会社の連絡も返して。普通なら絶対どこかでへばるはず。
俺が「ちょっと休んだら?」と口にしても――
『休んでるわよ? ほら、今も座ってるじゃない』
なんて、いつものいたずらっぽい笑顔で平然と返してくるのだから、本当に何度頭を抱えたことか。
……だけど。
(その強さに何度助けられたか……わからないんだけどね~ぇ……)
いつだって、カナさんの手に助けられてきた。カナさんが俺の手を引いて、明るい場所へ連れ出してくれた。
夢みたいな日々が穏やかに続いていて、まだ、この日々が現実だと信じられないくらいだ。
哺乳瓶越しに見つめる息子は、目を閉じてミルクを飲むことに集中している。その小さな手は、俺のTシャツの胸元をしっかりと握りしめていた。
半分くらい飲んだところで、息子がふと吸うのをやめた。
乳首をくわえたまま、ぽかんと口を開けて、俺を見上げてくる。
目が――合った。少しばかりグレーがかった大きな瞳と視線が絡み合った瞬間、息子はニカっと笑った。口角が上がって、目が細くなって、頬に小さなえくぼができた。
息子のそのふにゃりとした笑顔に、胸の奥が一気に溶けていく。
「……はいはい、かわいいのは知ってるよ。飲もうね?」
最近直母でも遊び飲みをするとカナさんが困ったように言っていたけれど、どうやら遊び飲みは哺乳瓶でも発動しているらしい。
俺がそっと哺乳瓶を持ち直すと、息子はニヤっとわざとらしいレベルで口角を引き上げ、乳首をぷいっと舌で押し返してくる。
「も~……俺を振り回して。カナさんそっくりだね君は。あとちょっとだけでいいから飲んで?」
大きなため息を吐き出しながら、俺は息子の身体を飲みやすい体勢に調整し直す。すると、息子は少しばかり不服そうに唇を尖らせながらも、はむっと乳首を咥えなおす。
再びちゅぱちゅぱと飲み始めた息子を見つめながら、胸の奥がじんわり熱くなる。小さな身体で一生懸命生きようとしていて、でも時々こうして甘えてきて、笑って、俺の心をあっさり持っていく。
(こんなあったかな存在が……俺の腕の中にいるなんて、ね~ぇ……)
ふいに――脳裏に落ちてきた言葉が、喉の奥までせり上がった。
「Did Haruki choose me as his dad?」
俺は腕の中の小さな温かい塊を見つめながら、ふと抑えきれない疑問を口にした。それは、問いというより、むしろ独り言に近い声だった。
息子はごくりと喉を鳴らして、哺乳瓶の乳首をつるんと静かに離し俺を見上げてきた。
そして次の瞬間、まるで言葉の意味を理解したかのように――口を大きく広げて、キャッと声にならない笑い声を上げた。
「……あ……」
その笑顔は、あまりにも純粋で、あまりにもタイミングが良すぎた。ただの偶然だ、ミルクを飲んで機嫌が良くなっただけだろう。カナさんとの普段の会話は日本語を使っているし、息子に声掛けをするときも日本語だ。だから息子が俺の英語を聞きとって理解しているわけではないことも、もちろんわかっている。
けれど――理屈ではない感情が、俺の心を一気に突き上げた。
『うん、そう』
そんな風に、目の前の息子に言われた気がした。胸の奥が一気にほどけて、世界がじわりと滲んだ。
「……ありがとう」
堪えきれない雫がぽたりと落ちていく。俺の言葉に、息子は今度は答えなかった。彼はそのまま、目の前の乳首をちゅっと吸い直していく。
温かい重みを胸に感じながら、息子がミルクを飲み終えるまで、俺はずっと、ずっと、息子の柔らかな頬を撫でていた。
こんな日が来るなんて、昔の俺は想像すらしていなかった。腕の中の小さな命は、言葉なんて知らないくせにまっすぐに俺の胸を撃ち抜いていく。
弱くて、立ち止まって、欲張って悲しみだけを抱え込んで、蹲っていた俺を抱きしめ直してくれるみたいに。
奇跡みたいな瞬間を――一生分、与えてもらったような気がした。
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